第9話 初めての

 初めて自分の手を赤い色に染めたのはいつだっただろうか、とリュシスはその時を思い出そうとする。

 アニーシャは明確に自分の初めてのそれを記憶していたが、リュシスは少しばかりあやふやだった。

 それもそのはずで、リュシスが初めて人を殺めたのはまだ幼児と言っても差し支えのない年齢の頃だ。まだ自分が何者であるかもあやふやだった頃だが、体格だけは既に10を超えた子供並みに成長していて、当時いたシスターたちもそのリュシスの扱いに手をこまねいていた。

 なにせ見た目こそ10を超えてまるで体格のいい少年のようであったが、する事は幼児のそれで、言葉もまだおぼつかなかったからだ。しかもその力は大人よりもすでに強かった。リュシスが遊びのつもりで物を投げたり、人を叩いたりするだけで物は壊れ、人は怪我をした。

 普通の人間であるシスターたちが彼女の扱いに困るのも当たり前の話だろう。

 リュシスが抱っこをせがんだとしても誰ももう彼女を抱っこする事は出来なかったし、機嫌よく遊んでいても何がきっかけで不機嫌になり物を壊すのかが分からないのだ。

 その為、物を破壊されたり、人を傷つける事を恐れたシスターたちはリュシスを他の子供達とは隔離し、石の壁に古くなった綿や藁入りの寝具などを張り付けた部屋でほとんどを過ごさせていた。そしてシスターたちは食事を持ってくる時だけリュシスの相手をし、彼女の遊び相手はアニーシャだけとなった。

 しかしその部屋も長くは持たず、ある日謎の発火で燃え落ち、リュシスは仕方なく他の子供達と暫く一緒に過ごす事となったのだ。



 その時、それは起きた。



 アニーシャがその見た目の美しさで養子縁組や里親の申請が殺到した事で、他の孤児たちの嫉妬を買ってしまい、兄妹に対しての陰湿ないじめに発展した。

 孤児院から出たいと考えている子供達にとって希望者が減ってしまうのは、この楽しみの少ない人里離れた場所に成人するまでいるという絶望の可能性を示していた。

 しかもアニーシャが養子縁組や里親の希望を飲まず、リュシスとでないとこの孤児院を出ないと言い張っている為になかなかその希望者の興味の対象が他の子供達に移る事がない。

 なんとか新しい親となるかもしれない人間達の気を惹こうと愛想よくしたり、お行儀良くしたり、はたまたおちゃらけてみたりしてもその行動はアニーシャがいる限り実りを迎える事は無かった。

 その絶望が、嫉妬がアニーシャ達に向いてしまうのも子供故に仕方のない事だろう。

 直接的な暴力はシスターたちから気が付かれる可能性が高く、そしてリュシスの体格の良さ故に行われなかったが、兄妹は孤児院の中で孤立し、子供達から嫌がらせを受け続ける事となった。とりわけ、体は大きくとも中身が幼児であったリュシスは格好の標的となり、食事を取り上げられたり、事あるごとに罵倒やお気に入りのおもちゃを隠されたりしていた。

 それでもまだ言葉もおぼつかなく、他の子供のやる事や悪意をあまり理解できていなかったリュシスはおもちゃを隠されたことをそういう遊びなのかと思い、孤児院の建物や森の中を彷徨う事が増えた。


 その日もおもちゃを隠され、リュシスがひとりで森の中へと入り、そして彷徨い辿り着いた森の奥深くにある小屋で、そこを根城にしていた男達に捕まってしまった。

 ――村から攫ってきた娘を乱暴し終え、殺害したところにリュシスが鉢合わせしてしまったのだ。

 正直まだ性的な事や殺人について知らなかったリュシスには男達が少女に何をしているのかは分からなかった。だが、見た目が10を超えている様に見える為にこの悪事をばらされては困る、と男達が考えたからだ。

 悪事を隠そうとしていた男達は突然現れた子供にぎょっとしたものの、すぐに自分たちの行動をなんの感情も現れていない瞳で見つめているリュシスを取り囲むとその腕を掴み上げ捉えた。

「餓鬼がこんな森の奥になんの用だ? 」

 腰に差していた短剣を取り出し、リーダー格の男がリュシスの頬にその切っ先を当てて低い声で尋ねる。

 だが、男が自分を脅しているとリュシスには理解できず、目を瞬いた後素直に口を開く。

「? おもちゃ」

「おもちゃぁ?」

「探す。遊び」

 リュシスの言葉に男達は首を傾げそれぞれの顔を見合わせる。

 こんな森の奥深くに子供が遊ぶようなおもちゃなど有るはずがない。それにこの一帯は男達の根城で、余程の事が無い限り近隣の村人なども近づかない。

 お互いの顔を見合わせ、リュシスの言葉の意味を測りかねていたが、部下の一人がまじまじとリュシスの姿を見て、怪訝な表情をした。

「ボス、こいつ女じゃないですかね……」

「女ぁ? 男にしか見えんが……」

「でも女物着てるっす」

 その部下らしき男の言葉にリュシスの頬へ短剣の切っ先を突き付けていた男が、部下同様改めてまじまじとリュシスの服と体つきを見た後、無遠慮にその粗末な服へ手を掛け引き裂いた。

 何度も洗われてすっかり生地が薄くなっていたその服は、男の手でやすやすと引き裂かれまだ子供らしさのあるリュシスの裸体が森の中に差し込む陽光の元に晒される。膨らみのない胸部はそれだけを見れば少年の裸体とあまり変わらない。

 当のリュシスは何故自分の服を破かれたのか分からず、目を瞬いて目の前の男を見ていた。

「はぁん? まぁまだ餓鬼だが、確かに女っちゃ女だな。なら殺す前に楽しめるか」

 その上半身をまじまじと見た後、男はその髭面に下卑た笑いを張り付け舌なめずりをすると、リュシスの穿いているズボンにも手をかけた。

 だが、その瞬間リュシスの手が男の手を掴みひと振りして、男を引き倒す。

「……ボスッ!?」

 子供にただ手首を掴まれてひと振りされただけで、この場の中で一番の巨体を持つ男があっけなく引き倒され、周りが驚きの声を上げる。

「服。壊れた。怒られる」

 倒された男をジロリと睨みつけ、リュシスはそう言うと周りにいた男達はハッとした顔をして、一人が慌ててボスを抱き起し、他の男達がリュシスに向けて腰に携えている短剣や長剣を抜いて構える。

「お、お前らッ、そいつを生きて帰すな!!」

 ボスと呼ばれていた男がリュシスに恥をかかせた事にそう声を荒げて号令をかけると、剣を構えた男達が一斉にリュシスへ襲い掛かった。その切っ先をリュシスは無意識のまま屈んで避けると、そのまま危機を察知した本能が命ずるまま一番近くにいた男へと突進しその鳩尾に向けて頭突きを食らわせる。

 男は鈍い叫び声を上げてもんどりうち、地面へと倒れて痙攣しながら呻く。

 そして更にリュシスはその男の腹に思い切り蹴りを入れた。その背中に他の男が斬りつけようと剣を振りかざした瞬間、リュシスが体を反転させて跳躍すると、そのままその顔面に膝がめり込む。

 男が悲鳴を上げ、蹲ったその頭を蹴りつけた後、その頭を踏み台にしてリュシスはまた尋常でない跳躍を見せ、次の男の顔面に蹴りを叩きこみ地面に降り立った。

「な……っ」

 子供が大の大人三人をあっという間に戦闘不能にまで追いやった事に残った数人が怯んだようにその足が止まる。

 有り得る筈がない、そう思おうとしたが目の前には傷つき呻き動けない仲間の姿しかなく互いの顔をどうするべきかと見回す。

 そんな男達をまたジロリと睨みつけると、リュシスはボスと呼ばれた男に向けて疾走した。そして、その男を支えている男に逃げる間も与えず裏拳で殴り飛ばした後、ボスの顔面も返す拳で殴りつける。

 最初に裏拳で殴り飛ばした男の首がゴキッと濁った音がして、妙な角度に曲がり口から血の泡が溢れ出す。

「……ヒッ……」

 白目を向いて後ろに倒れ込んでしまった男の姿を見て他の男達は怯えたような声を出す。そして逃げようと一歩後ろに下がったが、それよりも早くリュシスが男達を捉え、更に迎撃をしようと拳を振り上げた。

 だがその背に後ろから飛んできた短剣が刺さったことで失速してリュシスは無言のまま地面に蹲る。

「てめぇ……良くもやってくれたな。覚悟しろ」

 リュシスに殴られた頬をさすりながら、短剣をリュシスに突き立てた男達のボスがそう殺気を湛えた声で言い、蹲ったリュシスに近づく。

 そしてその背に刺さっている短剣を引き抜くと、リュシスに向けて悪態と唾を吐きながらその首を掻き切ろうと剣を振りかざした。

 瞬間。

 リュシスの手が男の足首を掴み、力任せに引き倒す。そのまま男に馬乗りとなると、その胸へ勢いよく手刀を突き立てた。

 ブシュッと小さな音がして噴水の様にそこから赤い血潮が噴き出し、リュシスをあっという間に朱に染めた。

 その光景を見た瞬間、他の男達は悲鳴を上げて手にしていた剣を放り投げると、森の中へと方々に逃げていく。

 蜘蛛の巣を散らしたように逃げていく男達の後姿を見ながら、リュシスは追う事も忘れ自分を赤く濡らしていく生暖かい血潮に、恍惚とした表情をしてその身に受け続けた。


 ――これがリュシスにとって初めての、殺人だった。

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