第5話 リュシスの過去
リュシスの右腕は今よりも少し前、彼女が10の歳になった時、たまたま乾季前の移動中だったトロールの群れとかち合った事で肘から先を踏み潰され喪った。
本来その道はトロールの群れが通る事などなかったのだが、なんらかのアクシデントでもあったのか運悪く次の村へと続くその森の中にある細い道をリュシスとアニーシャが歩いていた時にその悲劇は起こった。
トロールからすれば自身の体より遥かに小さい人間の存在など気にする事はない。
それが一般の子供よりも大きな体格をしていたとしても同じだ。
群れをやり過ごそうと茂みの中に身を隠し、体を伏せたリュシスとアニーシャの真横を通っていた一匹のトロールがなぎ倒された木に足を取られふらついた。そして、その足がリュシスの右腕を踏みつけたのだ。
いくら頑丈な体をしているとはいえ、流石に何トンもあるトロールの全体重がかかってしまえばその右手も無事ではない。
まるでそれは弾けたザクロのように肘から先は小さな肉片と化し、右腕の原型などなくなり、リュシスは生身の右手を永遠に喪った。
以降彼女の右腕はとても珍しい金属でできた義手が嵌められ、それを器用に動かして多少ぎこちないものの日常生活に支障は出ないほど自然に動かせる。
この時代、戦争や様々な魔物との遭遇で体の一部を失う人間は多い。しかしリュシスのように義手という道具を嵌めてまで生活を送る人間は酷く稀だ。
ごく稀に木でできた義足や義手などをつけている者はいるが、あくまでもそれはほんの少しだけ補助の役目をしたり、見栄えの問題であったりした。
だがリュシスが装着している義手は高価な金属ででき、指先も動かすことが出来る代物で、かつその腕部分を様々な武具へと取り替えが出来るという実用を第一に考えられた物だった。
どう見てもリュシスのような住む家を持たずその日暮らしをしているようにしか見えない人間が手にする事など出来そうもない代物で、一体どうやってその義手を作る金子を工面したのかはその義手の存在を知った人間の中に湧く当然の疑問でもあった。
「お前、それどこで盗んできたんだ?」
ニヤニヤと下卑た笑いを浮かべた壮年の男が義手の手入れをしているリュシスに話しかけてくる。
その男をちらりと横目で見たもののリュシスは特に言葉を発することなく黙々と手入れを続けていた。
まだ15になったばかりのリュシスから無視された形になったその男はヒクリと口元を引き攣らせると、木でできた簡易的な座卓をその拳で強く殴りつける。バンッと大きな音がその野営地に響き、その場にいた傭兵や兵士の多くの視線が男とリュシスへと集まった。
「おいっ! どこで盗んだかって聞いてんだよっ!」
続けて男の酒焼けしたダミ声が野営地に響く。その息はやけに酒臭く、男が酒に酔ってリュシスに絡んできたのは一目瞭然だった。
「……盗んでは無い」
耳元で怒鳴られそのうるささに顔を微かに顰めながらリュシスは最後のパーツを磨き上げると義手に嵌め、その指を開けたり閉めたりして動きを確かめた。
「はぁ? 盗んでねぇ訳ねぇだろ! てめぇみたいな餓鬼にどうやったらそんな高価なもんが買えるんだ!」
リュシスの言葉と態度に更に口元を引きつらせ、こめかみに青筋を立てながら男は更に絡んでいく。
それを面倒くさそうに横目で見たあとリュシスは小さく溜息を吐いた。
「餓鬼じゃない。15になった。大人だ」
「んなことはどうでもいいんだよっ!!」
いつまでも餓鬼……つまりは子供扱いをされることへの諦めと呆れを含んだ声で、男の言葉を訂正すると男はまた机を強く叩いでそう怒鳴りつけた。
その男よりも遥かに身長も高く体格もいいリュシスではあるが、基本味方に向けて暴力をふるう事はないのと、この部隊の中で一番若い事が知れ渡っている為こうして酒を飲むと絡んでくる男も多くリュシスはまた溜息を吐く。
「……知り合いに腕のいい技師がいる。そいつに作り方を習い自分で作った」
最初は片手での作業だから上手くはいかなかったが、簡易的な義手を作った後は少しずつ技術を磨いて今の形になった。師匠の教え方が良かったからだ。
そんな風に淡々とリュシスが義手を自陣の手で作った事を話すと、男は少しの間ポカンとした後突然けたたましく笑い始めた。その笑い声には明らかに馬鹿にした色合いが含まれていてリュシスは三度目の溜息を吐く。
こうして笑われるのはいつもの事だ。
そんなにも自分自身でこの義手を作ったことは面白いのだろうか。それとも余程信じられない事なのだろうか。
「ブハハッ、お前冗談を言うならもうちょいマシな冗談を言えよ!! お前みたいな学もなく戦うしか能のない餓鬼がんな高等なモン作れるわけねぇだろ。」
「……そう思いたいならそれでいい。疲れた。私は寝る」
ゲラゲラと笑い続ける男に侮蔑の混ざった眼差しを向けた後リュシスはこれ以上話をする気を失い、丸太で作ってある椅子から腰を上げると自分が割り振られているテントへと向かう。
背中から男の馬鹿にしたような笑い声と煽る言葉が暫くついて回り、リュシスはいっそ殺してしまおうかと一瞬考えるがまだ雇い主からこの仕事の賃金を貰っていない事を思い出し、その考えを頭の中から振り払う。
そして幕をめくり男の匂いが充満しているそこにまた小さく溜息を吐くも雑魚寝状態になっている男達の間をその巨体を猫のようにしなやかな足さばきで避けて空いている場所へと体を横たえる。
粗末ではあるが薄い枕と掛布、そして雨風を凌げる場所がある事は有り難かった。
リュシスがトロールの群れに巻き込まれ、その右腕を踏み潰された時、今まで何を見ても悲鳴を上げた事さえなかった彼女はその踏み潰された腕を見て生まれて初めて声の限り叫んだ。
その瞬間、リュシスの周りを炎が渦巻き、人間など踏み潰したとしても取るに足らない生き物だと認識して歩み続けていたトロールの足を止めた。いや、止めざるを得なかった。
トロールに踏み潰された腕は、不思議なことに痛みは感じなかったが、先程まで自分の意思で動いていたものがぐちゃぐちゃの肉となりその中に白い骨の破片が散らばっているのを見て、リュシスは叫びながらそれらをなんとか集めようとした。
まるですべて集まれば自身の腕が元通りになるかのように……。
そしてそのリュシスの叫びに呼応するように発生した炎の渦は足を止めていたトロール達へと襲いかかり一斉に火だるまと化した。そのまま時を置かずその場で次々と燃え尽き、その巨体が炭へと、灰へと変貌していく。
更にその炎はまるで貪欲な蛇のようにトロールの群れを全滅させても衰えることなく、リュシスの発狂によりコントロールを失っているせいか群れの先にある森まで燃やしつくそうと伸びていく。
森を炎が包み込めば、大惨事を引き起こす事は容易に想像がついた。
そしてその炎は下手をすればリュシスさえも飲み込んでしまいそうな勢いで渦巻いている。
その事を止める為か、それとも妹が半狂乱になっているのを見かねてか、必死に自分の腕を集めようとしているリュシスを止め、燃え尽きていくトロール達の中から引き摺りしたのは兄のアニーシャだった。
自分の倍はあるリュシスを安全な場所まで自身の能力で地面を凍らせ、その巨体を滑らせて安全な場所まで運ぶ。そしてリュシスを宥めて炎を鎮めた後、アニーシャは踏み潰された事でぐちゃぐちゃになっている患部を指先から出現させた氷の刃で平らになるように切り落とし、血液と筋肉を壊死しない程度に凍らせた。
凍らせたことで一時的に出血が止まっている間に自身の着ていた粗末な服を破り強めにその腕へ巻き付け止血兼包帯替わりにする。
アニーシャの能力で暫くは出血を止める事は出来るが、それでも臓器の鮮度を保つために凍らすのとは訳が違い、繊細な能力のコントロールが必要となるのこの行為を長時間使うにはアニーシャの体への負担も大きかった。その事を瞬時に判断し、アニーシャは来た道を引き返し、一晩世話になった村の医者に診せることを優先する事にする。
その村には、過疎の地には珍しく腕の立つ医者がいて、きっとリュシスのこの腕も元通りにする事は無理でも治療はして貰えるだろう。
自身の能力が知られてしまうのはリスクではあるが、そこは上手く誤魔化せばいい、そうアニーシャは判断しリュシスへと声をかける。
「……立てそう? カシューの村まで戻ってその腕治療するよ。ほら、しっかりして」
自分の腕を喪った事に呆然としているリュシスを励まし、アニーシャはその身体を支えて知り合いの医者に連れていくといい歩き出した。
その兄の小さな体にもたれ掛かりながら、トロールの群れを焼き尽くしアニーシャに宥められたことである程度正気を取り戻したリュシスは、叫び続けた事により今では腕よりも痛む喉を唾液で潤しながら、ちらりと背後を見る。
そこは自身の力が暴走したことにより一面焼け野原となり、元が何であったのかさえも分からない灰の塊がいくつも並んでいた。
その時リュシスの脳裏には巻き上がる炎が蛇のように踊り、自分の何倍もの大さの魔物であるトロールを飲み込み、一瞬の内に灰と化したその光景が蘇りそれを何度も反芻する。そうする内に自身の唇に笑みが浮かんでいることに気がついた。
あの美しい炎をもっと自由に操りたい、そんな事をリュシスは思う。
今までは特殊な能力があるとは言っても、アニーシャのような活用方法など思いつかず大したことには使っていなかった。
だが、今。
自身の身の内から噴き出す炎は万物を全て無に帰すことさえ出来るのだと知り、ぞくぞくとした喜悦がリュシスの体を走る。
そして喪ってしまった右腕を見て、腕を取り戻せないのならばどうすのか、を考える。
「……アニー」
「なに?」
しばらくの後リュシスはゆっくりと口を開き、近くの村に向けて歩いているアニーシャの名を呼ぶ。
「……医者の後で、技師を紹介してくれ」
「? 技師?」
「あぁ。義手を作る。私の力を効率よく使える義手を」
アニーシャに持たれかけていた体を起こし、リュシスは自身の残っている部分の右腕を左手で撫でると、いつも以上に残忍な笑みを浮かべてアニーシャを見下ろす。
先程まで痛みで叫び続けていたとは思えない程、その顔は獰猛で残忍さを帯びた獣のような、もしくは新しい遊びを思いついた時の様な無邪気な残酷を持つ無垢な幼子の様であった。
そんなリュシスを見て少しばかり驚いた顔をしたもののアニーシャもすぐに陶然と微笑むと頷き、妹の要望を叶えられる技師について村についたら調べることを決める。
……本当に強い子だ。そしてそんな風に心の中で呟いた。
ひょっとしたら自分よりもよほど……、そこまで考えてアニーシャはまた微笑む。
そんな事はどうでもいい事だ。
自分とリュシス、二人でこの世界を生き抜く。それが二人にとってはただひとつの望みだった。
粗末な寝床に転がり眠りへと落ちる瞬間、右腕が潰れた当時のことを思い出しリュシスはひっそりとひとり笑う。
誰も信じなくともこの腕は自分の欲求を満たす為に自分で作り出した武具だ。
お陰で成人した今、こうして戦場で存分に血への渇望を満たすために戦えるのだ、と。
ただそれでも欲求のままに人を炎に包み、灰に帰すことが出来ないのだけは少しばかり不満ではあったが……。
だが、それも望めばいつだって――。
そう、全ては自分次第。
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