第三章 美しき騎士の追憶 一
連日、雨が降る日々が続いていた。空は厚い雲に覆われ、どんよりとした重い空気が広がり、気持ちも晴れなかった。
「はあ……」
ため息をつきながら、窓辺で頬杖をつき、不服そうに外を眺めるレイチェル。室内で干す洗濯物は場所もとり、乾きも遅い。
仕事が増えている気分だと、レイチェルは言う。そんなレイチェルの横、エルダは食器を洗っていた。
雨が続くけば、外の花の手入れも出来なければ、水をやる必要もない。室内庭園の仕事を終えれば、こうして、レイチェルの仕事を手伝う毎日だった。
「アルバート様、大丈夫かな……」
「……うん」
「まさか、夜会で刺客に襲われるなんて……」
あの後、夜会は中止され、刺されたアルバートは意識不明の重体。しかし、あの場にアンジェリーナがいたことが不幸中の幸い。すぐに止血をし傷口を塞いだことで、命に別状はなかった。だが、アルバートの意識は今も戻っていない。アンジェリーナが付きっきりで看病をしているが、王子が奇襲を受け、レディート国に不安の影は消えない。
悪寒を感じるほどの殺気。
命乞いを聞くことなく、躊躇なく振り下ろされた剣。
あの日の光景がフラッシュバックする。
グッと目を瞑り、耐えるように身を縮める。
「エルダ……?」
心配したレイチェルが椅子から立ち上がり、寄り添う。
椅子に座るよう言われ、腰を下ろした。
「……天気のせいかな」
笑顔を作ってそう言う。
「バカっ……そんなんじゃないでしょ……」
レイチェルは、エルダの背中に手を置くと優しく摩った。
しばらく摩り続けて、エルダが落ち着くのを待った。
雨は増しているのか、少しずつ窓から聞こえる音が大きくなっていく。
「ありがとう。もう大丈夫」
「本当に平気?」
力なく頷くエルダ。
レイチェルはしゃがみ込むと、エルダの手を握る。
「あなたのアレン様への気持ちは分かっているつもり。でも……あの方は、無慈悲な方よ。あなたも見た通り、人の命をなんとも思わない」
あの日、目にしたアレンは、人の命を奪うことになんの躊躇もなかった。冷酷無慈悲と恐れられる彼の姿を、エルダは初めて目の当たりにしたのだ。
(あれは、アレン様だった。それは紛れもない事実……でも私は……)
頬を熱いものが伝う。
「私……あれだけアレン様を慕っていたのに、恐ろしくて……怖くて……震えてその場に佇むだけで、あの手を掴むことも出来なかった……」
あの時、本当はアレンを追いかけたかった。でも、出来なかった。
(っ……悔しい……)
自分の情けなさに、エルダは唇を噛み締めた。
「大丈夫だから、もう泣かないで」
優しく抱きしめてくれるレイチェルの腕の中、エルダは声を押し殺し、涙を流し続けた。
あれから、アレンがこの庭園へ来ることはなかった。あんなことがあった後だ。やるべきことは山のように積み重なっているのは分かっている。だが、単にそれだけではなく、アレンは自分を避けている。エルダはそう感じていた。
エーデルとの一件、そして、今回のアルバート暗殺未遂事件。あの夜、アルバートを刺したのは、エーデル国の民だった。
度重なるエーデル国との国際問題。レディートは警戒体制を強いられていた。
和気藹々としていた騎士団も、いつも緊迫している様子だった。明るいキースでさえも、笑顔が見えない。
そんな王宮の様子に、民達も不安を感じ始めていた。戦争が始まってしまうかもしれない。っと。以前のような穏やかで豊かなレディートは徐々に失われていっている。
こんな状況だと言うのに、あの時、一緒に植えたアザレアの花は、皮肉にも愛らしかった。
(あの時は、こんな風になるなんて、思いもしなかったな……)
優しく、頬の土を拭ってくれたアレンの姿が、昨日のことのように思い浮かぶ。
(……アレン様、どうしているんだろう……)
水やりを終えたところで、後ろから足音が聞こえた。
もしかしてと思い振り向くも、すぐに落胆する。
「……なんです? そんなガッカリしたような顔をして」
入って来たのは、クラウトだった。
「いえ……」
エルダを横目に、クラウトは東屋のテーブルに一枚の紙を置く。
「サインをお願い出来ますか?」
「あ、はい……」
ペンを受け取り、サインを記入する。
一ヶ月ごとに支払われる給料を受け取るための署名。この公務は、いつもアルバートが行っていた。
使用人達が仕事を無理なく、楽しんで出来ているのか。何か負担になっていることはないか。王子として、国のことだけではなく、民のことを考えるように、王宮で働いているみんなのことを、一人一人、ちゃんと知りたい。この公務を自分が行う理由を、アルバートはそう答えていた。
サインを確認するクラウト。その手元には、まだ何枚もの紙の束があった。この後も、使用人、一人一人に署名をお願いするのだろう。
目の下には、うっすらとクマがあった。アルバートが不在の今、クラウトも毎日、睡眠を削りながら仕事をしている。
(アンジェリーナ様も、あれから一度もお会いしてない)
「何か不安なことなどはありませんか?」
「え?」
「っと言っても、来たばかりでもないですし、慣れているでしょうけど一応、お聞きします」
「えっと……そう、ですね……」
(びっくり。クラウトさんがそんなことを聞いてくるなんて。署名を確認したら、あっさりいなくなると思っていたのに)
「驚いているのでしょうが、これもアルバート様のご意志です」
エルダの心を読んだかのように、クラウトはそう言った。
「不便なことは特にないです……私は、大丈夫ですよ」
「取って付けたような返答ですね」
「……」
アレンの行いを前に、動けなくなってしまったエルダに手を差し伸べてきたのは、他でもないクラウトだった。
勘の鋭いクラウトだ。自分のアレンへの気持ちがバレないはずもない。いや、本当はずっと前から気づかれていたに違いない。
何も出来ない。何も変えられない。このままでは、事実を突きつけられたような一夜だけが、永遠に残ってしまいそうだった。言い聞かせるような大丈夫だと、自分でも分かっていたし、今こうしている間にも、アレンは遠ざかって行く。それでも、時間はあの時、止まったままのようで、動き出せない。
「あなたのその気持ち、分からなくもありませんよ」
「それって……」
「……先日、あなたが私に言おうとしていたことの返答です」
「じゃあ……! 本当にいクラウトさんは、アンジェリーナ様のことを」
珍しく、伏せられるクラウトの瞳。それが全てを物語っていた。
「……お気持ちを、お伝えにならなのですか?」
(せめて、それだけでも……)
せつなげに細められた深海の瞳は、曇天の雲に隠れた太陽を探しているようだった。
深く息をつくクラウト。
「庶民の出である私が、王族であるアンジェリーナ様を想うなんて、許されるはずがありません。あなただって、身の程知らずだと思うでしょ?」
(身の程、知らず……)
「っ……私は……」
唇を噛み締め、拳をぎゅっと強く握る。
「……分かり、ません……分からないです……」
この気持ちをどうするべきなのか、どうしたいのか。今のエルダには、答えることが出来ない。仮にこの気持ちを伝えたとして、アレンは何というだろうか。それこそ、もう本当に会えなくなってしまいそうだった。
「でも、あなたは私とは違う」
「……?」
クラウトの言葉の心理を考えていると、入り口から人が走ってくる足音が聞こえた。
「クラウト……!」
室内庭園に駆け込んできたのは、アンジェリーナだった。
肩で息をして、額には汗が滲んでいた。
「アンジェリーナ様……!」
「エルダもいたのね。ちょうど良かった。アルバートの意識が戻ったわ」
(アルくんが……!?)
アンジェリーナに案内され、急いで部屋に行くと、ベッドの上に横になりながら、ぼーっと窓の外に目を向けるアルバートがいた。
「アルくん!」
エルダの呼びかけに、アルバートはゆっくりと、首を横に動かした。
「エルダ……」
「よかった……よかったっ……」
安心して、ベッドの上に顔を伏せながらしゃがみ込むエルダに、アルバートの弱々しい手が伸ばさる。
「ごめんね、こんなみっともない姿を見せて」
掠れた、気力のない声だった。
左右に首を振り、アルバートの手を取る。
少し痩せただろうか。華奢な体が、一段と小さく見えた。
気を遣って、エルダに微笑むアルバート。その優しさが、今は苦しかった。
(アルくん……)
「大したことないから、心配しないで」
「何言ってるのよ。ずっと意識がなかったのよ」
傷はあと少しでも違えば、致命傷になっていたと言う。アルバートが助かったのは、奇跡と言ってもいい。
「あのエーデル人はどうなったの?」
「アレン様が対処いたしました」
アレンが対処した。クラウトのその言い方だけで、アルバートは何が起こったのかを理解したようだった。
今回の事件、アルバートを刺したのは、エーデルからの刺客だった。王子であるアルバートを狙ったのは、エーデル側からの警告だったと言う。
(この間の村のことも、今回のことも、どうしてエーデルは、そこまでレディートを危険視しているんだろう。国王陛下とダニエラ様の婚姻が上手くいかなかったから? ううん、そんな単純な話ではないと思う)
「エルダ、アレンとは会ってる?」
エルダが考え込んでいると、アルバートにそう聞かれる。
「……いえ」
「そっか……ごめんね。僕が婚約者のふりをして欲しいなんて言ったから、危険な目に遭わせちゃったね」
「そんな……! 謝らないで下さい……アルくんが謝ることなんて、何一つありませんから……」
アレンとエルダの状況を察してか、アルバートは心苦しそうな顔をしていた。
怪我をして生死を彷徨ったアルバートに心配をかけてしまうなんて、エルダは本当に自分が情けなかった。
(優しいアルくんに、私は甘えてばかりだ……」
「ねえ、エルダ」
顔を上げると、深刻そうな顔をしているアンジェリーナと目が合った。
「前から思っていたんだけど。あなた、アレンが好きなの?」
「えっ……」
「どうなの?」
アンジェリーナは真剣な面持ちでエルダを見ていた。
アンジェリーナの社交的な人柄もあって、二人はすぐに打ち解けた。今のアンジェリーナは、エルダにとって姉のような存在。そんな彼女に、嘘はつきたくなかった。だが、ここで好きと言って、アレンを困らせないだろうか。
想う事すら。許されない気持ち。
スカートの裾を握り締め。唇を噛み締めた。
すると、正面に立っていたはずのアンジェリーナが隣に並ぶ。
アンジェリーナはそっとエルダの片手を取った。
「いいのよ、あなたの本当の気持ちを言って」
労わるような、優しい声だった。
その声に今まで抱えてきたものが溢れ出した。
「私は……私は、好きなんです……アレン様が、好きなんです……」
涙を流すエルダの体を、アンジェリーナは優しく抱き寄せると、精一杯の力を込めて、抱きしめた。
(認めたかった。本当は誰かに言いたかった。好きだって言葉にしたかった。でも、言ってはいけないんだって、思ってしまって言えなかった)
体を離すと、涙でぐしゃぐしゃになったエルダの顔をアンジェリーナはハンカチで拭ってくれた。
「あなたに、話さなくてはならないことがあるの」
アンジェリーナがそう言うと、ずっと後ろで黙っていたクラウトが焦りだす。
「アンジェリーナ様、何をおっしゃろうと……」
「もういいじゃないの。彼女には、知る権利があるわ」
「しかし……!」
「クー、僕もそう思うよ」
「アルバート様まで何を……これは王宮の問題です。部外者である彼女が知ることなど__」
鋭いアルバートの視線に、口をつぐむクラウト。
「それ、エルダの目を見て言える?」
「……」
(三人とも、一体、何の話をして)
クラウトに支えられながら、ベッドから上体を起こすアルバート。
「……これは、僕の願いかもしれないね」
アルバートの視線は、ドアに向けられた。
視線の先を追う。
「あれって……」
栗色のつる系ベースに、紫のトルコキキョウ。それは、あのリースだった。
「アレン・フランシス・ルーズベルト。いや、アレン・レディートは、王位継承権のある、この国の王子なんだ」
「……えっ__?」
(何、言って……)
「黙っててごめん」
(アレン様が、王子……?)
「そ、そんなはずは……だって、アレン様は騎士で、ルーズベルト家のご子息で……」
クラウトもアンジェリーナも何も言わない。この話がただの冗談ではないようだった。
「……本当、なんですか……?」
エルダの問いかけに、ゆっくりと頷くアルバート。
「アレンは、僕の兄は、国王陛下と前妻であるダニエラ様の間に生まれた、この国の第一王子。でも、ある理由で王位継承権を剥奪され、王族としてではなく、騎士として育てられた……これから話すことは、全て事実だ」
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