五
早まる鼓動。汗ばむ手の平。緊張で、どうにかなってしまいそうだった。
「準備はいい?」
正面には、正装着姿のアルバートがいる。エルダはひと息吐くと、差し出された片手を震える手で掴む。
「……はいっ……!」
扉が開かれると、世界は一変した。
一流の音楽家が奏でる軽快なバイオリン、重厚感のあるチェロ、繊細なピアノの音色。どれ一つ、他の音を邪魔することなく、ダンスホールを支配していた。
天井のシャンデリアは、ダイヤモンドのような透明に輝く。タワーのように積み重なる、ケーキやお菓子は、よだれが出てきてしまいそうなほど美味しそうだった。
周りには、煌びやかなドレスに身を包むご婦人、ご令嬢たちがいた。
アルバートが入って来たことに気づくと、みんな会釈する。そして、隣にいるエルダに痛いほど視線が注がれる。
口元に手を当て、見定めるように、上から下まで見られる。穴があったら入りたい。しかし、そんなことは出来ない。今日は、アルバートに恥をかかせるわけにはいかないのだ。
アンジェリーナと選んだドレスと靴。エミリーに施してもら化粧。完成して鏡で見た時は、本当に自分なのかと疑った。だが、おかげで自信がついた。
アルバートは堂々とした足取りで進んでいた。そんなアルバートを見て、エルダも今一度、背筋を伸ばし口角を上げ堂々と胸を張る。
(大丈夫。今の私はいつもの私と違う。この未体験の世界とも十分に戦える……!)
目線だけ横に向けると、令嬢に囲まれているアンジェリーナがいた。社交界の花と呼ばれているアンジェリーナ。その姿は言うまでもなく美しく人気高い。
レースの付いた真っ赤なドレスを身に纏った情熱的なその姿は、貴族男性の視線の的だ。
アンジェリーナは、誇らしそうにエルダを見ていた。
(良かった……今のところは、問題ないみたい)
ホールの中心に行こうとすると、貴族達に囲まれる。みんなアルバートと話がしたいらしい。愛想のない婚約者にならないように、アンジェリーナに仕込まれた社交スマイルをする。効果は上々のようで、嫌な顔をする貴族はいなかった。
すると一人の貴族が話しかけてきた。
「アルバート様。よろしければ、この老耄にも美しき婚約者をご紹介いただけますか?」
振り返った先にいたのは、白髪の年配の男性だった。
背が高く、佇まいと周りの反応から、他の貴族達と比べても、身分が高いことは分かった。
「これはこれは、ケルベルト伯爵。ようこそいらっしゃいました」
(ケルベルト伯爵……宝石事業を行っているミール家当主で、確か、この王宮の中枢を担っている貴族の一人だよね)
有力貴族達の情報は、レディートの国の貴族をよく知っているアレンに教え込まれていた。
ケルベルトは、親し気にアルバートと挨拶を交わした。
そして、満月を思い浮かべてしまいそうな赤い瞳を細めながら、横にいたエルダを見た。
挨拶をしなければと、アルバートの腕から手を離しす。スカートの裾を持ち上げ、少しもふらつくことなく、美しくお辞儀をする。
「初めまして、ケルベルト伯爵。ルーズベルト侯爵令嬢、ハンナ・ルーズベルトと申します」
これが、この夜会の間だけエルダが使う偽名だ。
ケルベルトは、少しだけエルダを見据えると、紳士たるお辞儀を見せた。
「初めまして、ミール家当主、ケルベルト・ミールと申します。ハンナ様にお会い出来る日を心待ちにしておりました。しかし……こんなにお美しい方とは。さすがはアルバート様ですね」
「ええ、本当に、僕には勿体無いお方ですよ」
「こ、光栄です」
お世辞だと分かっているが、素直に嬉しいと思う。
にこやかな笑みを浮かべるケルベルト。アルバートも笑みを崩さず、当たり障りのない会話を続ける。
「それにしても、フランシス侯爵が養子を迎え入れられていたとは、存じ上げておりませんでした」
(ううっ……一番、突かれたくなかったところを突いてくるな……)
周りを見ると、他の貴族たちも話に聞き耳を立てているようだった。
王子であるアルバートに婚約者出来たと聞いて、相手が誰なのかと知りたがらない者はいない。きっと今日に至るまで、どんな人物なのかと想像をし、今、目の前にいるエルダの姿を見て、ケルベルトとの会話を聞き、こうに違いないと憶測を立て始めているのだろう。
(ケルベルト伯爵は、悪い人には見えないけど、アレン様からはあまり信用するなと釘を刺されているし、あまり話を広げられたくないな)
動揺を悟られないように、社交界スマイルを浮かべるも、上手く出来ているのかと不安になる。
すかさず、アルバートが助け舟を出す。
「僕も、風の噂で彼女の存在を知りまして、美しく聡明な方だと言うので、会ってみたくなりまして……僕の、一目惚れでした」
(アルくん、流石にそれは言い過ぎなのでは……!?」
アルバートのその一言で、遠慮がちだった周りからの視線が、一気に注がれる。
ケルベルト伯爵は「フッ」っと口元を緩めると、微笑ましそうな顔をして、エルダ達を見ていた。
「アルバート様は、ハンナ様をとても愛しておられるのですね」
にっこりと笑うアルバート。
令嬢達の黄色い悲鳴が飛びかう中、ダンスホールに迫力のあるワルツが流れ始める。
アルバートと手を取り、ダンスホールの中心へ着くと、体を寄せ合う。
「アルくん」
「大丈夫、自分を信じて。エルダなら出来るよ」
テンポの良い、優雅な音楽に耳を傾け、アルバートに身を預けながらも、ここまで叩き込んできた力を発揮するようにダンスを披露する。
ワルツは、回転することが特徴的なダンス。広いホールを余すことなく使う。
着慣れないドレスと履き慣れないヒールで、必死にバランスを保ち、アルバートの腕の動きに合わせ回る。煌びやかな藤色のドレスは、ダンスホールに妖麗さを漂わす。
王宮らしいエレガントなダンスを見せる二人に、会場の誰もがうっとりしていた。
「上手だ」
アルバートは耳打ちでそう言うと、微笑んだ。
曲が終盤に入るにつれ、だんだんと緊張と体がほぐれてきたのか、あの時のように楽しいと言う感覚が、心と体に表れ始めた。
そうして、なんとか一曲踊り切った。
ホールは歓声と拍手に包まれ、二人は流暢なお辞儀をし、笑顔で顔を見合わせた。
ダンスを終えたところで、令嬢達に囲まれた。案の定、アルバートとのことを聞かれ、質問詰にされ、話疲れてた。
気分は何日もご飯を食べていないようで、この短時間でげっそりと痩せた気がした。そんなエルダを見かねたアンジェリーナに連れ出され、外にあるテラスに来た。
「いててっ……」
(流石にヒールを履きながら、何度も回転するのは足にきたな)
テンポが早くなったり、遅くなったり、かと思ったら、ダイナミックに激しくなったりと、まるで乗り物のように、忙しなかった。
足を摩っていると、アンジェリーナにグラスを渡される。
「飲んで。中身はジュースだから。見たところ、あなたお酒は飲めなさそうだし」
「ありがとうございます」
受け取ったグラスに口をつけると、甘いリンゴの味が広がった。
レディートは農作物もよく育つ。農家が作った果物は、頬が落ちそうなほど甘く絶品だ。
甘さが口の中に広がり、疲れが取れていくようだった。
「にしても、上出来だったじゃないの。他の貴族達も、あなたがアルバートの婚約者だって、認めているわ」
「アンジェリーナ様のおかげです。本当にありがとうございます」
「何言ってるの。あなたが頑張ったからよ。本当に良くやったわ」
アンジェリーナは「素晴らしいわ」っとエルダの背中をポンっと叩いた。
アンジェリーナのような、憧れの女性に褒められるのは、本当に嬉しく思う。
(今日は、自分で自分を褒めてもいいよね?)
話を聞いた時は、自分などに到底、務まるはずがないと思ったが、なんとかやり遂げることが出来た。
肩の荷が下りたようで、安堵のため息が出る。空を見上げると、小さな星が無数に散りばめられていた。
今夜は満天の星空だ。
アンジェリーナも同じようにして、空を見上げていた。
「__アンジェリーナ様」
その声に反応し後ろを向くと。建物のせいで、声の主の顔に黒い影が出来ていたが、アレンだと分かった。
すぐ後ろには、キースもいる。
アンジェリーナに一礼する二人。
「レイトン伯爵が、アンジェリーナ様にご挨拶されたいと申されております」
「レイトン……ああ、スワンから移民した、あの伯爵家ね。今行くわ」
立ち去るアンジェリーナ。アレンも後に続こうとしたが、
「あなたはここにいて。エルダをお願い」
「はっ?」
「アルバートの婚約者よ。守る義務があるでしょ?」
そう言うと、アンジェリーナはキースを連れてテラスを出て行った。
残されたアレンとエルダ。二人っきりになるのはよくあることなのに、今日はいつもと違った。
夜の雰囲気が相まってなのか、普段とは違う自分の姿を見られたからなのか、なんだか落ち着かなくなった。
アレンはエルダを見ると、珍しくすぐに目を逸らした。逸らされると、逆にこちらも見られなくなる。
何か言おうと言葉を探すが、夜風にかき消されるように連れ去られる。
「……ダンス、悪くなかった」
徐に口を開いたアレン。
「えっ……あ、ありがとうございます」
(見ていて下さっていたんだ……)
アレンの悪くなかったと言う評価は、高評価の証だ。
頑張って良かった。心からそう思えた瞬間だった。
「そ、そう言えば、フランシス様はお見えになっていますか? ご挨拶をしたくて」
夜会が始まってそれなりに時間が経ったが、一向にフランシスの姿がに見えなかったのだ。
「実は急な所用が入ってな。今日は来れなくなったのだ」
「そうでしたか……」
(仮にでも、養子に迎え入れてくれたことのお礼をお伝えしたかったけど、仕方がないか。きっとお忙しい方なんだろうな)
「……そのドレスもよく似合っている」
ホールからの光で、エルダの姿が照らされると同時に、アレンの姿も照らされる。
陶器のようにしみ一つない真っ白なアレンの頬が、うっすらと赤く染まっているように見えるのは、気のせいだろうか。
「お前は、美しいな……本当に、美しい……」
その藤色の瞳は、いつものように優しかった。だが、とてもとても、切なそうだった。
グラスを置き、思わずその瞳に手を伸ばした。
だが。
「だからこそ、俺は触れられないのだ」
アレンは払いのけるように、エルダの手を顔から遠ざける。
「アレン、様……? それはどういう……」
その時だった。
ホールの中からただならぬ悲鳴が聞こえた。すぐに反応したアレンに続き、エルダもホールのへ戻る。
「__っ!」
その場の光景に、思わず口を塞ぐ。
ホールの中心で腹部から真っ赤な血を流し、膝くアルバートがいた。目の前には、血のついたナイフを持つ貴族らしき男がいて、アルバートに向かって何かを叫んでいた。
騒然とするホール内。
すぐにアンジェリーナがアルバートに駆け寄り、治癒の才を施す。クラウトが呼びかけるも、アルバートの意識は遠のいているようだった。
(ア、アルくん……どうして、なんで……!)
「……!!」
悪寒がするほどの強い殺気を感じて横を見た時には、隣にいたはずのアレンが、既にナイフを持つ貴族の前にいた。
剣を向けていたキースを押し除けると、アレンは懐から剣を抜いた。
「い、いや……だめ……アレン様__」
アレンは命乞いをする男に、一切の躊躇なく剣を振り下ろした。
床に鈍い音が響く。
その瞬間、絶望するような悲鳴が、ホール内に響き渡った。
真っ赤な血が、アレンの足元に広がっていく。
唖然とする周りの騎士達に、アレンは何事もなかったかのように、淡々と指示を出していた。
アレンがゆっくりと、こちらに振り向く。
「……」
その衣服と顔には、男のものと思われる返り血が浴びせられていた。
目の前で起きたことに、ガクガクと震えるエルダの体。必死に腕で押さえつけようとも、震えは止まらない。
近づいて来るアレンの姿が、スローモーションに見えた。
藤色の瞳が、何も言わずに、冷徹にエルダを見下ろす。
「お前は俺を知りたいと言ったな? ならば、今、お前が見ているこれが答えだ」
遠ざかるアレンの背中。
(行かないで……行かないで、アレン様……)
心の中ではそう叫んでいるのに、声が出なかった。
めまいがするように、視界がグラグラと歪んでいく。
追いかけたい。だが、体が動かない。恐怖で、声も出ない。
エルダはその場に佇むことしか出来なかった。
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