五
思えば、店長以外の人に母の話をしたのは初めてだった。しかも、あんな自然に言葉を紡げるなんて。
母の死を引きずり、塞ぎ込んでいるわけではない。ただ、たまに寂しく思う時があるのだ。だから、他人に母のことを話すのには、少しばかり抵抗を感じることもあった。それなのに、アレンには話せた。思いの他、自分がアレンに心を許しているのだと気付かされた。
「ねえ、あなた大丈夫なの?」
洗濯籠を抱え、隣に並んで歩くレイチェルに怪訝な顔をされながら、顔を覗き込まれる。
「なにが??」
エルダがそう聞き返すと、レイチェルは距離を縮めて声を潜めた。
「アレン様のことよ。最近、あなた達が一緒にいるところをよく見るって、みんな言っているわ」
レイチェルは、王宮に務めるハウスメイド。住み込みで働いている分、この王宮内にも詳しい。年はエルダと同じ十九歳で、頬のそばかすがあるのが特徴。エルダにとってはこの王宮内で唯一の同年代で友人と言える存在。こうして、仕事の合間によくプライベートな話をしている。
「レイチェルが心配しているようなことは何もないよ? それに、アレン様はお優しい方だもの」
庭仕事を手伝ってくれたり、エプロンを買ってくれようとしたり、振り返れば振り返るほど、アレンの優しさが溢れている。
「何言ってるのよ。アレン様は冷酷無慈悲なお方だって言われているじゃない」
(冷酷無慈悲。ここに来てからアレン様に対して、何度もその言葉を聞いた。確かに、アレン様は騎士団長もされているから、厳しいところはあると思うけど、それでも、みんなあんなに口を揃えて言うなんて)
「でも、それはあくまで噂だし、私は、自分の目で見たものを信じたいの」
「もー、エルダったらー」
呆れたようにそう言い、そばかすのある頬をリスのように膨らませるレイチェル。
(レイチェルが私が心配してくれている気持ちは分かっているつもり。でも、アレン様はそんな方じゃない。それなのに、どうして悪い噂ばかりが立つの?)
「あっ……」
急に足を止め、エルダの後ろの隠れるレイチェル。
「どうしたの?」
「そこ、にっ……」
人差し指で遠慮しがちに指された場所には、他の使用人と話す、アルバートがいたのだ。
そう言うことかと思い、エルダは片手を挙げた。
(ここはレイチェルのために……!)
「アルバート様……!」
「ちょ……! エルダ……!!」
アルバートはエルダに気づくと、笑顔で片手を挙げ返してくれ、使用人達の元を離れると、こちらへやって来た。
「エルダ! なんだか久しぶりだね」
「ほんと、お久しぶりですね」
(お元気そうでよかった)
後ろに隠れているレイチェルは、頬を真っ赤に染めていた。
「……挨拶しないの?」
声を潜めて問うエルダ。アルバートも首を傾げ、後ろにいるレイチェルを見ている。
レイチェルはすばやく首を左右に振るのが精一杯のようで、何も言わない。
(良かれと思ってしたけど、無理やりすぎたかな)
これはダメかもと思い、笑って誤魔化す。
「アルバート様」
そこにクラウトがやって来た。今日も真っ白な正装服姿で、品の良さを一段と感じさせる。
自然と背筋が伸びる。後ろに隠れていたレイチェルも流石にまずいと思ったのか、目伏せしつつもゆっくりと隣に並ぶ。
目の前に立ったクラウトはエルダ達を横目に、見ると、流暢な一礼で、アルバートに頭を下げる。
「そろそろお時間です」
「……分かった」
いつになく真剣な顔をしてそう言うと、アルバートはエルダに向き直る。
「会議があるからもう行かなきゃなんだ」
「そうなのですね。お忙しいようで」
「また時間がある時にお茶でもしようね」
「はい、ぜひ」
「えっと……エルダのお友達? もまた」
レイチェルは深々とアルバートに頭を下げた。そんなレイチェルを見て、アルバートは少し困ったように眉を下に下げ笑った。
二人が見えなくなると、レイチェルは大きく息をつき、柱に寄りかかった。
「まさか、アルバート様に会うなんて……」
おまけにクラウトもいた。色んな意味で息をするのも辛かったはず。
真っ赤に染まっていたレイチェルの頬はまだ赤く、熱を帯びている。
(レイチェル、かわいい……)
レイチェルは、密かにアルバートに想いを寄せている。自分より三つ下のアルバートに、しかも王子が想い人なんてと、アルバートの話をする時も、いつもこうやって、頬を赤く染めている。
(思わず、後のことを考えずに行動しちゃった)
「せっかくのチャンスだと思って声をかけたけど、急だったね、ごめん」
「ううん。私のためにしてくれたんでしょ? ありがとう」
レイチェルは嬉しそうに笑ってそう言った。
「私ね……どうしても、アルバート様の姿を見ただけで、胸が苦しくなるんだ……」
雫を含んだような瞳をして、服の上から両手で胸を押さえつけえるレイチェル。
「でも……私、聞いちゃったのよ」
「何が?」
「アルバート様が婚姻なさるって」
「えっ、アルバート様が!?」
(そんな話があったなんて。でも、アルくんも王子だし、そういう話があってもおかしくはない)
「しかもその相手、スワンの王女様らしいし」
「スワンて、あのスワン?」
小さく頷くレイチェル。
スワンはレディートと同盟を結んでいる国。同盟国同士の婚姻は珍しいことではない。婚姻を結ぶことで、より両国の関係を親密に出来る。筋は通っていると思った。
(スワンの王女様は、確か、アンジェリーナ様と言った。もし、婚姻の話が本当なら、アルくんはアンジェリーナ様と婚姻することになる)
「……レイチェル」
レイチェルは肩をすくませ、沈んだ顔をしていた。
「分かってる。私みたいな庶民が、アルバート様のような高貴なお方とどうにかなるなんて、そんな、身の程知らずなことを思うほど馬鹿じゃないから」
仕事に戻ると言い、レイチェルは気持ちを切り替えるように頬をつねった。
笑顔を浮かべる友人の隣、エルダは心苦しさを感じていた。
レイチェルのアルバートへの気持ちは、誠実さで溢れている。それなのに、想うことすらも、許されないのだろうか。もしそうなら、それはすごく、悲しいことだ。
(あっ……)
螺旋階段の下を横ぎろうとした時、反対側の通路から、アレンが歩いて来るのが見えた。声をかけようかと思ったが、やめた。
(……大切な用なんだ)
アレンはエルダに気づくことなく、アルバート達が入っていった、円卓の間がある部屋の中に入って行った。
「……」
「エルダ?」
足を止め俯くエルダに、振り向くレイチェル。
「……なんでもない。行こ」
この時、エルダの胸には、説明のしようがない不安が渦巻いていた。
アレンが扉を開くと、円卓の間には、物々しい雰囲気が漂った。
自分が来たことが分かると、貴族達はまるで捕食される前の小動物かのように、小刻みに肩を震わした。
レディートは、階級制度を重んじる国。故に、王宮の中枢を担う者は、それなりの爵位を持っている貴族で構成されている。それだと言うのに、目の前の光景には呆れてものも言えない。
心の中で一人、嘲笑するも特に気にすることなく、部屋の中に足を踏み入れる。貴族達が視線を下に向ける一方で、アルバートだけはいつもと変わらず真っ直ぐに自分を見ていた。その視線を流しつつも、正面の席に腰を下ろす。
アレンが座ったことを確認すると、アルバートの隣に立っていたクラウトが口を開いた。
「全員、お集まりいただけましたので、会議を始めさせていただきます。今回は、事前にお伝えさせていただいた通り。スワン国とベーベル国の婚姻についてです。その議題に入る前に、まずはアレン騎士団長から、事の発端をお話ししていただきたく思います。アレン様」
クラウトに促され、アレンは腰を上げる。
「長話は好きじゃないので手短に。先日、エーデル国との国境付近に位置する村の周辺を警備している警備部隊の部下から、村の住人が消えているとの連絡があった。俺が村に向かったところ、土地は荒れ果て、男どもと子供が全員、消えていた。住人に話を聞くに、どうやらエーデル国の仕業らしい」
エーデルという言葉を聞き、貴族達が一気に騒がしくなる。
「エーデル、戦争でも仕掛けてこようというのか」
「いや、我々、レディート国の騎士団を前にして、そんな迂闊なことをするわけが」
「だが、最近、エーデルは軍事力の伸びが凄まじいと聞く。こうしている間にも奴らは何をしでかすのか」
(……まったく、つくづく戯けた奴らだな)
かつて、同盟を結び良好な関係を築き上げていたエーデルは、今や自国の民すらも恐れをなす存在。そんな国の仕業となれば、貴族達がどよめき出すのは無理はない。しかし、目をつけるべきところはそこではない。少しは愚鈍な思考を恥じてほしいものだと思う。
アレンから、深いため息が漏れる。
「話を聞いていなかったのか? 問題点はそこではない。俺は子供もと言ったのだ」
アレンの冷めた視線と鋭い声に、その場が凍りつく。皆、口を閉ざし、再び視線を下に向ける。
やれやれと思い、椅子に腰を下ろし、頬杖をつく。
(こんな奴らで国が成り立っているとは)
アレンが呆れれば呆れるほどに、空気は重くなる。
重苦しい空気を破ったのは、アルバートだった
「つまり、アレン騎士団長は、その子供達を使って、エーデルが軍事懲役制度を持ち入ろうとしていると?」
すぐさま話の核心を突くアルバート。
アレンは、立てていた腕を膝の上に置くと頷いた。
「部下に探りを入れさせたところ、エーデルでは頻繁に、子供が王宮内に連れ去られているとのことだ」
それが何よりも、証拠になっていた。
エーデルはレディートのように階級制度を重んじる国ではない。ようは実力主義社会。たとえ、爵位のある貴族であろうが、力がなければそれまで。力が全ての世界だ。それは、弱者に対し死を意味する。
「失礼ながらアルバート様」
口を開いたのは、前王の時代から、この王宮の中枢を担っている、ケルベルト・ミール伯爵だった。ミール家当主で、今ここにいる貴族達の中では、一番の古株。会議の中で冷酷無慈悲と呼ばれるアレンを前にして、意見を出すのもこの男くらいのもの。
「軍事懲役制度とは、あの?」
それを問うたかと思う。
ケルベルト伯爵の質問に、、アルバートは顔を歪ませた。心苦しそうにしながらも、一息つく。
「はい……ケルベルト伯爵が思われている通りです」
軍事懲役制度は、幼い子供を国の道具として育て上げるもので、その名の通り、人を殺すという、罪を背負いながら生きる。死ぬまで、奴隷のように人を殺めさせられ続けるもの。自らの意思を持つことは許されず、命令に絶対服従。一昔前の時代ではそれが支流だった国もある。そのせいで子供を産む女性が少なくなり、少子化が問題となり、今ではほとんどの国で廃止されている。
「子供を使い軍事力を強化している。それが、近頃エーデルの軍事力の伸びが増している理由だと。アレン様はもそうお考えで?」
「……ああ」
(ケルベルトは老いぼれなだけあって、話の理解が早い。それに、宝石事業を行っているせいか目が長け人望も厚い。他の貴族達がこの会議に集まるのも、こいつがいるということもあるだろうう……油断のならない男だがな)
「ベーベルは予知の才を持っている。いくらエーデルも、敵には回したくないはずだ。レディートと古くからの親交があり、同盟を結んでいるスワンと婚姻させれば、間接的ではあるが、こちら側についてもらうことが出来る」
顎に手を当て、深々と頷くケルベルト。
「確かに……軍事力の乏しいベーベルと、我々、同様、ベーベルの予知の才を敵に回したないスワン。両国が婚姻に対するメリットも十分にありますしね」
アルバートはクラウトに目配せすると、手に持っていた、筒のような物を広げて見せる。
「こちらは、ベーベル国、第一王子、マーク・ベーベル様からの書状です」
クラウトの言う通り、書状には、ベーベル国の紋章である羊の国印があった。
アルバートはこの婚姻を持ちかけるべく、べーべル国を訪問。村の現状を見たアレンも、この外交に同伴していた。
この事も、予知していたのだろう。ベーベルはすぐにアルバート達を迎え入れた。婚姻に関してはすぐに了承はしなかった。返事は後日、改めてすると言われていたのだ。
話の内容まで予知していたのかは定かではないが、国同士の行末がかかる大事な一件。すぐに返事が出来ないことくらいは、こちらも想定内。
答えはどうなのか。クラウトが書状を読み上げる。
「__私、ベーベル国、第一王子、マーク・ベーベルは、スワン国、第一王女である、アンジェリーナ・スワンとの婚姻を__結ぶ」
「おお、なんと!」
ケルベルトが歓喜の声を上げる。
(……とりあえず、というところだな。となれば、ここで時間を潰している暇はない)
「村にはすでに、俺の部下と王宮の医者を含めた支援団を送っている。栄養不足に陥った者もいるが、命に問題はないそうだ」
淡々とした口調で報告をするアレン。
「そう……ならよかった」
アルバートは安堵の笑みを浮かべていた。そんなアルバートをよそに、アレンは席を立ち去ろうとした。
「アレン」
だが、アルバートに引き止められ、足を止める。
「スワン国には、僕も行くよ。当たり前だけど、君一人でも心配するようなことはないけど、何より、相手はアスラン王だ。同盟国の国王だけど、王子である僕も行った方が、何かと都合がいい」
アルバートの言うことも一理ある。外交というものは、今回のように我々が受け入れてもらう側である場合、高い地位や権力が持つ者が行うほどに敬意を払い、誠実さを見せていると相手に思われ、了承してもらえる確率が高い。次期王であるアルバートが直々に来るとなれば、あのアンジェリーナも、了承してくれるかもしれない。
アレンは体の向きを変え、アルバートに向き直る。
「すでに書状は書き終え、スワン国に送っております」
「うん、ありがとうございます。引き続き、この件はアレン騎士団長にお任せしようと思うので、皆さんも何かあれば彼を介して下さい」
アルバートのその言葉を最後に、アレンは今度こその場を後にした。
「アレン様」
(……急いでいると言うのに。面倒だ)
足を止めないアレンに、遅れを取らないように足早に付いてくるケルベルト。
「先ほどの会議でのアレン様、日の打ちどころもない完璧な議論でした」
思った通り、無益なことを言うなと思う。決して媚を売っているわけではないと言うことは分かっている。だが、最近のケルベルトの言葉には棘を感じる。自分の反応を見て、楽しんでいるようにも思えるが、老いぼれがそこまで子供ではないだろう。
「少し意外でした……あなたが、婚姻の策を行うなんて」
その言葉に、アレンの足が止まった。
「……何が言いたい?」
藤の瞳が鋭く光り、ケルベルトを捉える。しかし、ケルベルに怯む様子はない。
後ろで腕を組み、悪魔のような赤い瞳で、アレンを見据える。
「いえ。ただ、あなたほど、異国同士の婚姻の難しさを理解なさっている方はいないかと思っておりましたので」
「……」
声色は至って普通だと言うのに、瞳の奥には、うっすらと嫌味ったらしさが見える。
(はっきり言えば言いものの。周りくどい言い方をするものだ)
そんなケルベルトを、アレンは鼻で笑う。
「安心しろ。俺が生きている限りはその難しさとやらを、理解する必要がない」
傲慢そうに口の端を上げるアレン。
ケルベルとは、一瞬、驚いたように目を丸くしたが、すぐに口元に、いつもの薄い笑みを浮かべる。
「話は済んだな? 俺は暇じゃないんだ」
再び歩き始めたアレン。
ケルベルトは意味深な笑みを浮かべ、遠ざかるアレンの背中を見ていた。
夜も更け始めた頃、図書館の前を通りかかると、エルダがいるのが見えた。
椅子に腰掛け、眉間に皺を寄せながら、見入るように本を読んでいた。
(あんな顔をして図書館にいる奴は、初めて見たな……あいつらしいが)
気づかないうちに、アレンの口元に自然と笑みが浮かんでいた。
「何見てるんですか?」
耳元で聞き覚えのある声がして振り向くと、そこにはキースがいた。
(いつの間に後ろに……)
「あっ、エルちゃんじゃないですか。おーい、エルちゃ……っぐぅはっ」
咄嗟にキースの口を塞ぎ、柱の後ろに引きずり込む。
腕の中で暴れるキースを押さえ込み、ちらりとエルダの方を見るが、集中しているせいか、こちらに気づいた様子はなかった。
腕の中から解放させると、キースは猿のように悲鳴をあげた。
「いきなり何するんですかっ……!!」
「お前が突然、現れるのが悪い。あと、静かにしろ」
団員服を着ている姿を見るに、見張の交代をしに来たのだろう。
(騒がしいということは、見張に備え、しっかりと仮眠をとった証拠だな)
こんな時でも、部下が体調管理を怠っていないか確認するアレン。
「俺はエルちゃんがいたから、声をかけようとしただけです」
(エルちゃん……?)
「随分、親しい呼び名だな」
「え? そりゃそうなりますよー。昼間あんなに美味しいおにぎりを食べさせてもらったら」
「……おにぎり?」
アレンがそう聞き返すと、キースは「あっ」っと思い出したような顔をした。
「そっか! 団長は会議に参加していたから、食べてないですもんね」
キースが言うのは、どうやら、自分が会議で騎士本部を空けている間に、エルダが昼ご飯といって、団員らに食事を振る舞ったらしい。
(たまに、剣術の特訓をしている時に、メイドが軽い昼食を振る舞っていることはあったが……そうか、彼女はあのメイドと仲が良かったな。一緒にいるところをよく見る)
「なんなら、毎日、作って欲しいくらいですよ)
(俺が戻った時は、食事などなかった。ということは、あいつらが全部食べたということだな)
アレンの顔を見て、何を言いたいのか分かったのか、キースは視線を横に流した。
部下いじめをするつもりはないが、エルダの振る舞う食事を食べることが出来ず、アレンは、変な悔しさのような感覚を覚えた。
「で、でも、良いですよね、あの子! 騎士達の間でも、優しいって評判なんですよ。それに、よく見たら可愛いし!」
「うるさい口だな」
容赦なくキースの頬をつねるアレン。
「っ、いててててっ……! ほなしてくださいほぉー!」
「何を言っているのか分からんな?」
(たかがおにぎり。俺は何をそんなに……)
パッとキースの頬から手を離す。キースは痛がりながら手の平で頬摩った。
「もー団長、今日はらしくないことばかりするんだから」
(……らしくないか。まったく……キースの言う通りだ。彼女に会ってからというもの、確かにらしくない行動ばかりしている)
「いいから、早く持ち場に行け」
背中を押し、促す。
気怠けに向かうキースを見送ると、アレンはキースと反対方向に歩き出した。
図書館に戻ると、エルダは変わらずそこにいた。
胸を撫で下ろし、図書館に足を踏み入れると声をかけた。
「こんな夜更けに何をしている?」
エルダは大きく体を飛び跳ねさせ振り向くと、いきなり目の前に現れたアレンに、瞳を大き見開く。
「ア、アレン様……!」
(幽霊でも見たような顔だな)
「あっ……」
アレンの視線の先に気づいたエルダは、恥ずかしそうに目を伏せた。
テーブルに片手をつき、後ろから書物を覗き込むと、歴史書だった。
庶民であるエルダが、歴史書などを読んでいることは意外だった。こういった学問は、王族や貴族、身分の高いものが身に付けようとする知識だ。
「王宮に勤める者として、少しだけ国のことを知っておこうと思いまして……」
遠慮がちに発せられた言葉に、もっと誇ればいいものと思う。
(勉強熱心なんだな。
近隣諸国についてでも、知りたいことがあるのだろうか。
エルダが読んでいたのは、スワン、レディート、エーデルの三ヶ国の歴史書だった。国ができた経緯、今まで行われた外交、歴代の国王の名、異才などと、歴史書にはさまざまなことが書かれている。
椅子を引き、隣に腰を下ろす。
「何か、知りたいことはあるか?」
騎士として王族と外交をい、レディート国の名門侯爵家の嫡男であるアレン。ある程度のことは当たり前に頭に入っている。
「教えていただけるのですか?」
「随分と熱心だったからな」
そう言い、長い人差し指で、エルダの額にトンっと触れる。
「皺が寄っていた」
「あっ……」
両手で額を覆い、恥ずかしそうに俯くエルダ。
(やはり無自覚か。なんだか笑えるな)
手の平から覗かせた頬は、うっすらと赤くなっていた。
「……」
「……アレン様?」
純真なエルダの瞳が、不思議そうにアレンを見つめる。
「……いや、なんでもない。どこが分からない?」
「えっと、そうですね」
エルダはとても飲み込みが早かった。基礎的な知識は大体、頭の中に入っており、質問は的確なところを突いてきた。
変な話、あの貴族たちよりも、エルダが会議に参加した方がいいと思った。
(もし、エルダが庶民でなければ、そこら辺の令嬢よりも、教養が身につけられただろう。何より、学んでいる姿が楽しそうだった。表情もころころと変わって、見ていて飽きない)
気づかないうちに、アレンの表情がまた緩む。
「あの、一つお聞きしたのですが」
両手を膝の上に乗せ、改まったような態度を見せるエルダ。
「なんだ?」
(少し聞きにくそうだな)
「なんでも言ってみろ」
「その……アルバート様が、婚姻なさるというのは本当でしょうか?」
どこでそんな話を聞いたのか。おそらく、使用人たちがありもしないことに仮説を立て、それが彼女の耳に入ったのだろうと思う。
(やれやれ……)
「アルバート様は、婚姻などしない」
「それは本当ですか!?」
否定するアレンに、エルダは少々前のめり気味に問うてきた。
「……ああ」
(なぜそこまで驚く。それに、人知れず嬉しそうにも見える)
胸を撫で下ろするエルダに良い気はしなかった。だからか、少しムキになってしまった。
「仮に、アルバート様が婚姻するとして、お前に何か関係あるのか?」
言い方がキツくなってしまっただろうか。
エルダは手を組んだり離したりしている。
(なぜかは分からないが、ハッキリさせたい)
「エル__」
そう言いかけた時、エルダが辺りを警戒したように見渡した。
(なんだ……?)
辺りには、自分たち以外、誰もいない。
「……他の方には言わないとお約束してくださいますか?」
身を屈め、声を潜めるエルダ。
「ああ」
ぶっきらぼうにも返事をする。
「絶対ですよ?」
「ああ」
(そんなに重要なのか……)
アレンが、落胆したような気持ちを抱えそうになっていると、エルダは口元に片手を添え、アレンの耳元へ顔を近づける。
花の柔らかな香りがした。
「私のお知り合いの方が、アルバート様をお慕いしているのです」
(……なんだ)
すうっと、心から、何かが抜けるような感覚がした。
顔を横に向けると、すぐそこにエルダの顔があった。至近距離で見た純真の瞳は、どんな花や宝石よりも美しかった。
「内緒ですよ?」
潤んだ口元に人差し指を立て、微笑む姿に、アレンは目が離せなかった。
(これは、一体……)
「いてっ」
(やってしまった……)
薔薇の手入れをしてる最中、うっかりして棘で指を切ってしまった。こんなことなら軍手でも履いておけばよかったと思ったが、着けていない方が、手入れがしやすかったのだ。
すーっと流れる血。
明日から気温がぐっと上がる。できれば薔薇の手入れは今日のうちに終わらせたかった。
王宮内の庭園の薔薇園は規模が大きい。セイン一人ではどう頑張っても今日中に終わらせられないだろう。
傷はそこまで深くはない。すぐに止まるだろうと思い、作業をそのまま続けようと、登っていたハシゴから下りずにいると、事を察したセインに、医務室に行くように言われた。
大丈夫だと言ったが、行くまで引いてくれそうになかったセインに黙って従うことに。
王宮の医務室に行くのは初めてだった。ドアをノックし扉を開けると、陽だまりの香りがした。
「すいません」
声をかけるも、何の返答もない。誰もいないのだろうか。
窓は開けたままになっており、緩やかな風が入り込んでいる。
(切っただけだしいっか)
そう思い、自分で救急箱探すことに。室内に入り、綺麗に整理整頓された棚の中を一つずつ見ていくと、一番下の棚に救急箱があるのを見つけた。
手に取り腰を上げるのと、ドアが開いたのは同時だった。
振り返ると、そこには訓練技姿のアレンが立っていた。
「お前……どうしてここに」
医務室にいるエルダに驚くアレン。
「えっと、棘で手を……」
そう言い、エルダは苦笑いをしながらアレンに指を見せた。
すると、一気に距離を詰められ、手首を掴まれかと思うと、アレンは難しい剣幕で血が流れているエルダの指を見た。
「ちょっと切っただけですよ」
「これがちょっとか?」
傷口を見て、顔を顰めるアレン。座るように言われ、エルダは椅子に腰を下ろした。救急箱から消毒液と包帯を取り出したアレンも、正面に腰を下ろす。
木綿で消毒液を濡らすと、アレンは片手を差し出してきた。
ここに手を置けということだろう。
エルダはゆっくりと、その長くしなやかな手の上に、自分の指を置いた。
少し滲みると言われ、反射的に身構えるも、アレンの手つきが優しかったせいか、思ったよりも痛みは感じなかった。
慣れた手つきで、包帯を巻いていくアレン。
「怪我には気をつけろ。お前は女なのだから、消えない傷ができることはあってはならん」
包帯を巻き終えると、アレンはエルダの手を離さず、無言で見つめた。
(アレン様……?)
アレンが何を考えているのかは分からなかったが、熱さを感じてしまうほどの真っ直ぐな視線に耐えきれず、エルダは手を引っ込め話を振る。
「そ、そういえば、お医者さんはどちらにいらっしゃるのでしょうか。お戻りになられないですね」
意味もなく、窓の外やドアの方を見ながら言う。
(二人が嫌なわけではないけど……なんだか、変に意識してしまう)
「医者は王宮にはいない」
「えっ、そうなのですか?」
「今は、エーデルとの国境付近の村にいる」
王宮に勤める医者は、国随一の腕を持つと言われている王宮専属医で、エルダたち使用人を含めた、王宮内にいる人間しか治療することはない。
(そんなお医者様が出向くなんて、よっぽどのことがあったんじゃ……)
「大丈夫なのですか? 村の方々、体調がよろしくないのでは?」
エルダがそう問うと、アレンは一瞬沈黙した。
(間があった……やっぱり、何かあるんだ)
救急箱を手に持ち、腰を上げようとしたアレンの服の裾を掴む。
アレンは憂鬱そうにため息をつくと、持っていた救急箱をテーブルの上に戻した。
「言っておくが、お前が心を痛める必要はない」
先回りし、エルダの不安を取り除こうとしてくれているアレン。
小さく頷くエルダを見ると、アレンは椅子に腰掛けなおし話出した。
「少し前に、エーデルの侵略で、村の土地が荒れ果て、住民が栄養不足に陥った」
「えっ……」
(エーデルが、レディートの村に……?)
「なぜそのようなことが起こったのですか?」
エルダがそう問うと、アレンは顔を顰めた。
「アレン様」
エルダがせがむ様に言うと、アレンは徐に言う。
「軍事懲役制度は知っているか」
「……はい」
図書館で資料を読んだときは、あまりの残酷さに目を背けてしまった。
アレンが言うには、村にいた子供は攫われ、おそらく軍事力強化のために道具にされていると。
(あんなことが今でも現実にあるなんて……)
「エーデルは、どうしてそこまでするのでしょうか……アレン様……?」
ふとアレンを見ると、どこか心ここに在らずといった様子だった。
「アレン様、どうかされましたか?」
エルダがそう問うと、アレンはハッとした顔をした。
「いや、なんでもない。急を要すると思い、村には腕の良い王宮の医者を行かせた」
「村の皆さんは?」
「命に問題はない。処置が早かったからだろう」
「そうですか……」
ほっと胸を撫で下ろす。
(でも、子供が攫われて土地が荒れ果てている。それに、栄養不足って食料も取られたなんて、村のみなさんの気持ちを考えると……)
顔を歪ませるエルダ。
そんなエルダの顔を見て、アレンは思った通りだと言わんばかりに、深くため息をつく。
「言っただろ、お前が心を痛める必要はないと」
「分かっています……それでも、悲しいのです」
自分が悲しんでも、世界は変わらない。それでも、奪い、奪われる世界があることに、どうしても、他人事のように心で折り合いをつけられない。
「だから言いたくなかったのだ」
いつもより、少し冷たいアレンの声が、頭上から降ってくる。
優しいアレンも、自分のこんな面倒な一面には、流石に呆れるだろう。
そう思っていたのに。
「お前は優しいな」
春の風のように、まろやかな声がした。
ふわりと頭の上にアレンの手が乗せられた。ぎこちなくも、荒々しさなど一切ない手で、エルダの頭を撫でるアレン。
(……本当に、どうしてこの方が、冷酷無慈悲などと呼ばれているのか)
顔を上げると、藤の花の瞳と目が合った。
西日が差し込み、藤の花の瞳に、自分の真っ赤に染め上がった顔が映る。
(なんて顔をしているの……これじゃまるで……まるで、私がアレン様を……アレン様を……)
「どうした?」
(……私、アレン様のことが好きなの……?)
自分の中にある、淡い恋心を自覚した時、胸の中は、苦しくも目の前にいる彼を愛おしく思った。
黄金色に輝く髪に、藤の花のように美しい瞳。陶器のような真っ白な肌。それだけではない。噂とは真逆な、人らしく温かな笑みに、優しく、思いやりのある心。アレン・フランシス・ルーズベルトは、こんなにも、エルダの心を離さないのだ。
それが、彼女にとって、現実的な気持ちではないとしても。
キッチンで隣に立つレイチェルは、鼻歌を歌い、スープが入った鍋を混ぜている。
今のレイチェルは機嫌がいいのだ。それもそのはず。アルバートの婚姻は、ただの噂だったことを伝えると、レイチェルはエルダを壁に追いやり、聞き迫った顔をして、「本当に?」っと、問いかけ、頷いたエルダにを見るなり、天にも昇りそうな勢いで、頬を釣り上げた。
それだけ、アルバートへの想いが本物なのだろう。
セットしていたタイマーの音が鳴り、窯の中から、専用のトレーを取り出すと、ふっくらと、焼き目がついた、美味しそうなミートパイが焼き上がった。
「味見してみて」
そう言い、レイチェルは、レードルですくったスープーを入れた小皿を差し出さす。受け取り数回息を吹きかけると、口をつける。
「美味しい! あ、パイもいい感じだよ」
焼き上がったパイを見て頷くレイチェル。
「これなら、騎士の方達も食べてくれるね」
この頃、レディート国の騎士団は、いつも以上に、剣術の訓練に励んでいた。というのも、近々、スワン国から、第一王女である、アンジェリーナがレディート国を訪問する。騎士団は、その護衛と警備を任せられているのだ。
あれから、頭の中は、アレンのことでいっぱいだった。何をしていても、彼を思い出して、どこへ行っても、そこに彼がいるような気がして、姿を探している自分がいた。あの時、触れられた手から胸へ、アレンが溢れ出てくるようで、熱を感じて、上手く息が出来ない。これが恋というものなのだと、エルダは初めて知った。
「アンジェリーナ様ってどんな方なのかな」
「聞いた話だと、アメジスト色に輝く瞳をお持ちなのだとか。あと、父親のアスラン王に負けず、すごい酒豪」
「酒豪……」
(でも、きっと美人なお方なんだろうな)
訓練所がある王宮の東棟には、騎士達以外が出入りすることはほとんどない。そのためか、東棟の雰囲気は、普段、エルダもがいる王宮内の華やかさとは異なり、緊迫した雰囲気がある。
(この雰囲気には、少しだけ圧を感じるけど、嫌な感じはしない)
来るのは今日でまだ二度目。ハウスメイドであるレイチェルは、日頃から食事を振る舞っていることがあり、慣れているようだった。
箱に詰めたパイを持ち、前を歩くレイチェルに続き、スープの鍋を乗せた台車を引き、訓練所内に足を踏み入れる。
その光景に、思わず足を止めた。
(すっ、すごい……)
重い金属が、勢いよくぶつかり合う音が場内に響き渡る。騎士達、汗を垂らし、白熱した様子で、剣を交わり合わせていた。
前に来たときは、ちょうど休憩時間だったため、騎士達が剣を振るっている姿は見たことがなかった。
中心内には、キースの姿があった。普段の明るい彼からは想像できないほど、キースの表情も威厳があった。
初めて目にした騎士団の練習風景に、台車を握る手に思わず力が入った。
(これが、国々から最強と謳われるレディート国騎士団……そのトップが)
「__そこまでだ」
威勢のいい声が飛び交う中、鋭く低い声が、静かに広がる。いつの間にか現れたアレンの前に、騎士達が一糸乱れぬ整列をする。
息を呑み、アレン言葉を待つ騎士達。それだけで、アレンの団長としての有能さを思い知らされた。
「既に知ってのとおり、一週間後、スワン国からアンジェリーナ王女が、レディート国に訪問される。我々の職務ははただ一つ、アンジェリーナ王女を守り抜くことだ。無論、職務を全うできない奴は不要だ」
氷のように冷たい瞳が、騎士達に注がれる。剣を振るって流した汗が、恐怖からの冷や汗に変わっていった。騎士達にとってアレンの存在がどんなものかよく分かった。隣で見ていたレイチェルも「ひえー」っと、小さく叫んでいた。
騎士達のその姿に、少しだけかわいそうにも思えたが、そこまでしないと、人の命を守り、時に殺める騎士は、務まらないのだろう。
アレンは淡々と報告を終えると、そこにいたことに既に気づいたかのように、エルダを見た。
目が合い、ドッキとする。会釈をすると、アレンは小さく微笑み返してくれた。
(会えない日々が続けば続くほどに、胸の中は苦しくなる。だけど、この一瞬で、全てが消え去る……)
駆け寄って来る騎士達に食事を提供する。よっぽどお腹を空かせていたのか、みんな急いで口に掻き込んでいく。その姿に、レイチェルと顔を見合わせて笑う。
ひと段落したところで、少し離れたところでキースと並ぶアレンの元へ。
「アレン様もいかがですか?」
紙に包まれたパイと、スープが入ったコップを上に持ち上げて見せる
「ああ……」
「エルちゃん、これ、めちゃくちゃ上手いよ!」
隣でパイを頬張っていたキースが言う。
「本当ですか!? 良かったー!」
(あっ……キースさん、口元にパイがついてる)
「キースさん」
「ん?」
「口元にパイが」
スカートのポケットに入れていたハンカチを取り出し、キースに差し出す。キースはに笑いながら「ありがとう」と言い、ハンカチを受け取り口を拭った。
(キースさんって、お茶目なところあるんだな)
そんなキースの姿が微笑ましくて、笑みを浮かべるエルダ。
「団長も、絶対食べた方がいいですよ」
「……」
(アレン様……? なんかちょっと、不満そう……?)
不思議にアレンを見ていると目が合う。
「来い」
アレンはそう言うと、背を向けて歩きだした。
「えっ、あ……」
(来いって、私……?)
キースの方を見ると、笑顔でグーサインを出された。
キースに一礼すると、両手に持っている料理を落とさないように駆け足でアレンの後を追う。
(どこに行くんだろう)
東棟を出たと思いきや、アレンは螺旋階段がある方へ進む。まさかと思い後を追って行き着いたのは、室内庭園だった。アレンは東屋を通り過ぎると、庭園の一番奥へ進んだ。ドアノブを下に下げ、扉を開ける。そこは、室内庭園にあるテラスだった。
テラスの椅子に腰を下ろすアレン。隣に座るように言われ、テーブルの上に料理を置き、腰を下ろす。テラスからは、馬車で王宮に来る時に通った森が見えた。あの時とは違い、薄い黄緑色をしていた木々たちの葉は、今は緑色に色づいてきていた。
(あれから、季節が巡り始めようとしているんだな)
懐かしい景色を思い出していると、ふと視線を感じた。横を見ると、アレンがじっと自分を見ていた。
儚げな藤の瞳に、吸い込まれそうになり、目を逸らす。
(ドキドキしちゃうよ……)
「冷めないうちに食べて下さい」
そう言い、アレンに料理を勧める。
「……上手いな」
パイを一口食べたアレンは言った。
「お口にあって良かったです」
「確か、これは英国発祥の料理か」
「はい」
(さすがアレン様。異国のお料理にも詳しい)
「スープも上手いな」
「へへっ」
(素直に嬉しいな)
図書館で勉強している時、異国の料理本を見つけて、レイチェルに相談して作ることにした。二人ともミートパイを作るのは初めてだったが、アレンに褒められるほど上手く作れて、本当に良かった。
「お前は料理もできるのだな。母親にでも教わったのか」
「お母さんは、仕事でいつも帰りが遅かったので、家事全般は私がしていました」
「……それは、寂しかったな」
寂しかった。そう言われれば、確かにそうだった。
「……そう、ですね……でも、お母さん、帰ってきた時に力強く、ぎゅっと抱きしめてくれて。私はそれがすごく嬉しくて、幸せで、幸せで……」
今でも、その温もりがここにある。時々、その幸せが薄れてしまうのではないのかという不安と闘いながら必死に守っている。そうだというのに、アレンを前にすると、繋いでいた鎖が全てが解けていくようだった。
母を失っても強く生きていくために、自らかけた鎖を。
「お前は優しいな」
「いえ……そんな……」
なんだろうか。今度は、胸が温かかった。アレンといると、エルダの心はとても温かくなる。
「……優しいのは、アレン様です……」
(この方が優しいから、自分の胸は、こんなにも温かくなるんだ)
数秒の沈黙のあと、アレンは鼻で笑った。
「お前は、本当に変な女だな」
「変って……私は真剣に……」
頬を膨らませ、眉間に皺を寄せるエルダ。
すると、人差し指でトンっと、額に触れられる。
「そんな顔をするな。ちゃんと伝わっている」
優しく儚げに笑みを浮かべるアレン。
「……俺を初めて見た時の奴らは、皆、口の端を上げる。だが、一度、剣を抜いた姿を見ればその表情は一変する……それが、面白くはあるがな」
アレンの外見は、この世のものとは思えぬほど美しい。彼と初めて会った人間ならば、彼が人を殺めるなど思うはずもないだろう。エルダもその一人だった。だが、今ももその傍には、アレンには不釣り合いなほど鋭く、重い、剣がある。室内庭園での作業の時も、アレンはその剣を離すことはない。
「それでも……あなたは、とてもお優しい方だと私は思います。私のこの心が、その証拠です」
(ねえ、アレン様、今、私のこの胸のときめき、届いていますか? 聞いて、しまわれていますか?)
伝わってほしいのに、伝わってほしくない。そんな相反する二つの感情が、エルダの中に渦巻く。
じっとエルダを見つめるアレン。今日は見つめられてばかりだと思う。
アレンはエルダの頬に片手を添えると、顔を近づけた。エルダはぎゅっと目を瞑る。アレンの吐息が近くなる。鼓動が速まる__だが、急に肩が重く感じた。ゆっくりと目を開けると、エルダの肩に、アレンの頭が乗せられていた。
「アレン様……?」
「少し……このままで……」
黄金色の頭に、手を伸ばしかけ止める。
「触れても、いいですか……?」
「……」
(ダメでは、ないってことだよね)
なるべく優しく、エルダはアレンの頭に手を置いた。糸のように細く綺麗なアレンの髪は、高級なシルクのように指通りが軽かった。
(穏やかな香り……)
まるで生まれたての赤ん坊のように、お日様の香りがした。その香りに、無意識に鼻をすり寄せる。それは、目を細めてしまう心地良さだ。
それから互いに何か言うことなく、ただ静かにその時を過ごした。とても麗かで、穏やかな時を。
そのうち、アレンから規則正しい寝息が聞こえてきた。
撫でていた手を止め、膝の上に下ろす。すぐ横には、美術品のように美しいアレンの寝顔がある。
黄金色の頭に、自分の頭を寄せる。
「アレン様……好きでいてもいいですか?」
夕暮れが、優しく二人を包み込もうとしていた。
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