19.居場所

 「あ、おかえり」

夜も更けたホテルの入口――階段の上に座っていたニムを見て、ソレルは唖然としてしまった。辺りではさざ波の音と、微かに楽しそうな笑い声、何かの虫が鳴く声がする。彼は階段の足元を照らす橙色の光にベージュの髪を透かしながら、手には小さな文庫本だけ持っていた。

「……そんなところに座っていたら、マダムに叱られるんじゃないか?」

「此処で眠らなければ大丈夫じゃないかな」

呑気な返事をして、作家は本を脇に手挟み、よっこらしょと両手を両膝に宛がいながら爺臭く立ち上がった。

「何してたんだよ?」

咎めるようにソレルは訊ねた。本を読んでいたのは間違いないが、宿泊先のホテルの玄関、しかも薄暗い中で読む意味はまったく無い。

「そりゃあもちろん、君が帰ってくると思ったから待っていた。パラダイス・フィッシュで締め出されたんだろう?」

むっつりと片手に持ったワイン瓶を見やり、青年は苦々しく言った。

「やっぱり先生が一枚嚙んでいやがったか……」

苛立ち紛れに、もう飲むしかないと思った足で店に行ったが、忙しいからと瓶を一本押し付けられて門前払いを食ったのだ。

「だからって、俺が此処に帰るとは限らないってのに――」

「だって君、コーヒーが飲みたいと言ったじゃないか」

あっけらかんと言い放たれて、ソレルは何も言い返せなかった。

確かに言った。

確かに、飲みたい気分だった。そう言われてしまうと、いつも欲しくなるアルコールよりも、あの芳しい香りを吸い込みたくなる。

「夜中にカフェインは良くないけどねえ……ま、たまには良いさ。そういう日もある」

常習犯らしき香りをさせつつ、ニムに促されるままに部屋に戻った。

キッチンに当然のように準備してあった器材を前に、ソレルは言った。

「見ていていいか」

「いいとも。手順さえ覚えれば簡単だよ」

作家は口の細長いケトルを火にかけながら楽しそうに講釈しながらコーヒーを淹れ始めた。豆を計り、手動のコーヒーミルに入れてくるくると回す。

「そうだ、君、夕飯は?」

「別に要らない」

「コーヒーもお酒も空きっ腹で飲んじゃあダメだよ。よし、ビーンズ・オン・トーストを作ろう」

一体いつの間に準備したのか、トマトソースで味付けされた白インゲン豆の缶詰を取り出し、これもいつ買ったか、切ってある食パンをトースターに入れ始める。

トースターなんか有ったか?という顔で見ていた青年に、作家は聞きもしないのに「下のレストランで借りてきた」と信じ難いセリフを吐いた。

「そこまでして、そいつを食う気だったのか……?」

「いやあ、長期滞在って体調を崩したりすることもあるからさ。慣れた味を間に挟むと丁度いいんだよ。僕は仕事柄、よく食事の時間を忘れたり、ずらしたりするから」

あの腹の牛は忘れなさそうだと思いながらも黙って見ていると、慣れた手つきで朱色のソースに白い豆が浮かぶシンプルなそれを小鍋で温め、焼いたパンにバターを塗り、その上にダイレクトに豆をどばっと乗せた。

「さあさあ、熱い内にお食べ」

やけにヘルシーに見える豆料理かパン料理かわからないそれを訝しそうにしつつ、青年はふうふうやりながら口に運んだ。名前も見た目もそのまんまの料理は、妙なことについつい食べてしまう味だった。そこでやっと、腹が空いていたことに気付く。

「美味しいだろ?」

小さい子みたいに頷いた青年に笑い掛けると、作家は鼻歌混じりに自分もトーストを摘まみながら、挽いたコーヒー豆をフィルターへと移していく。

「……こういうの……無いんだよな、俺もオギーも……」

もう良い香りがし始めるのを眺めてソレルがぼやくと、作家は眉を落とした。

「ビーンズ・オン・トーストが無い人生なんて気の毒過ぎる……」

「は? いや、これも美味しいけどさ、そうじゃなくて……先生がコーヒーを淹れるようなこと」

「ああ、趣味ということかい?」

「そう」

「何かを作る以外でもいいんじゃないかな。ブラックは読書だし、散歩やジョギングだって立派な趣味だよ」

「散歩ね……まあ、そうだな……」

瞼に甦るのは、海と山、両方だ。白い砂浜と穏やかな波間で泳いだり、色とりどりの魚を眺め、ただ吹き抜ける風と波音を楽しんだ海。枝葉の茂る木漏れ日の下、小鳥の囀りや虫の声を聴きながら、木に登ったり、見たことのない動植物に触れる山。眺めているだけで心を落ち着かせる波。包まれているだけで穏やかになる森。

目の前の緑色の双眸を見ていると、その片方が、帰ってきてくれた気がした。

「子供の頃は『遊び』なのに、大人になると『趣味』って呼ぶの、不思議だよね」

人の心を読むように作家は言った。

「そういえばそうだな……」

「僕らのニュアンスでは、趣味というのは『長い間打ち込んで、高めて来たこと』に相当するけれど、東洋は『余暇で自分の好きな事を楽しむこと』なんだって。じゃあ遊びと同じじゃないか……って思うけれど、あの地方の人達ってプロに匹敵する技術や知性を『趣味』と言い張るから凄いもんだよねえ」

何が可笑しいのか楽しそうに笑うと、彼はセットしたフィルターに最後の豆を落とし、沸いた湯を細く注いだ。豆が息を吹き返すように膨らみ、豊かな香りが立ち上るのに、ソレルは溜息を吐いた。

「そういや……色男サンは此処に帰って来るのか?」

「ブラック? さっき、上の方で大きい音がしたからそっちに居ると思うけど……そうだね、此処に戻るかもしれないな」

意外そうに眉をひそめるのを、作家はきょとんとした目で見た。

「彼に何か用事?」

「いや……あんたの鬼上司が、マダム・クラヴィスの説得が済んだって親父に言ってたから、俺はてっきり――……」

美男にかこつけて懐柔したと思っていたらしい。作家はフッと鼻で笑うと不意に偉そうな顔つきになり、ケトルを持ったまま胸を張った。

「確かにブラックは国宝級のハンサムだけど、僕だってけっこう人気者なんだよ」

「否定はしないがな、その自慢の顔で説得したわけじゃないだろ?」

「冗談キツイみたいに言わないでほしいなあ。僕と付き合いたいって言ってくれる女性はそれなりに居るんだから」

「それ、何歳のレディだ?」

「うむ……主に三、四歳児と、七十代以上が多いね」

「そいつは……――さぞかし、可愛いファンだろうな……そういや、店長もあんたがお気に入りだった」

「Oh……それは何というか……ありがたいことだね……」

もそもそと答えた作家に苦笑すると、彼も笑った。――全く、この男は鬱屈とした空気を入れ替える名手だ。

「さ、お待ちかねのコーヒーだ。召し上がれ」

「……どうも」

暗い色をした飲み物は色に似合わず、花や爽やかな空気を感じた。香ばしい芳醇な香りは元より、温かく、優しい。

「これ、自白剤みたいだよな」

ひと口ふた口飲んで呟いた青年に、ニムは天を仰いだ。

「なんてこと言うんだい、君は~……」

「しょうがないだろ。余計な事まで喋っちまいそうになるんだ」

「あのねえ……美味しいものを飲んで話したくなることが、余計な事なわけないだろ?」

ソレルは琥珀色を瞬かせた。

――そっちこそ。……なんてことをさらりと言うのだろう。

「自白剤は入っていないけれど、君、ステラのこと知ってたんだろ?」

急に問いかけたニムに、はてさて、上手くやるかと思ったが、案の定――ソレルはシラを切れなかった。もはやこの青年が素直な性格なのは検証済みである。しっかり驚いた顔をしてから、ふて腐れた様にそっぽを向いた。

「いきなり……何の話だよ」

コーヒーを傾けるのを眺めながら、ニムは尋ねた。

「ステラ・ターナーが、オーガスト・ジェファーソンの妹だってことさ」

ソレルは無言でカップを睨み続けた。――迂闊だぞ、ソレル・クランツ。そこはあの日のようにコーヒーを吹き出しそうになるのが正しい反応だ。

そう思いながら、同じようにコーヒーを飲みながら世間話のように続ける。

「あれだけ容姿が似てるんだ、ステラと初めて会ったなら、それなりの反応をしてもおかしくない。でも、君がベックとステラを助けた際、驚いたりはしていなかったとベックは言っていた。それは君が、以前からステラを知っていたからだと思うが?」

「……」

「会ったかどうかも覚えてないみたいな知らん顔をしたのは、僕に気付かれない為かな? 『果樹園フルーツ・パーク』が彼女を狙っているかもって話が出たときは、実際はかなり焦っていた様に思う」

「その目は、余計なとこも見えるみたいだな」

呻いたソレルは、気怠そうにカップを持ったまま部屋を移動し、ソファーに座った。

ニムも同じように、向かい合わせの椅子に腰かけると、彼はカップの中身を覗き込みながら細い溜息をこぼした。

「ステラのこと、何処で知ったんだ。マダムか?」

「マダムは何も知らなかったよ。僕はブラックがセオドア・ブエノ氏から借りてきたマダム・モリーの日記を読んで、かつて、この町で何が有ったのかを確認した。後は此処で見聞きしたことからね」

「マダム・モリーの……」

立ち上がったニムが机の裏に収めていた冊子を持ってくると、ソレルは故人に会ったような顔でそれを見つめた。

「あの人も……苦労した人だった。俺や母さんの所為で、随分気を揉ませた。早く亡くなったのは、俺たちの所為だと思ったぐらいだ」

「そんなことないと思うよ。僕が読んだ限り、彼女は君たち親子を愛していた。若い頃から、なんとか悪いものから守ろうと思っていたようだし、どちらも実の子みたいに書いてあった」

「……実の子、か。どうして……そんな風に思えるんだろうな……」

コーヒーを置いて冊子を軽く捲るソレルに、ニムは笑い掛けた。

「『子供』ってのは本来、みんな可愛いものだからじゃないかな」

「そう思う『大人』ばかりじゃないだろ? あんただって……そうじゃないか。親に捨てられたのに、どうして幸せそうにしていられるんだ?」

失礼な問いなのはわかっていたが、作家は怒るどころか判然とせぬ様子で首を傾げた。

「それは、僕の周りが良識ある人たちばかりだったから――」

言い掛けて、不意にニムは苦いものを噛んだように顔をしかめた。

「――と、言うのは言い過ぎだ」

「は……?」

胡乱げな顔をした青年に向けて、作家は感傷を吹き飛ばさんばかりに例の早口でまくし立てた。

「いいかい、ソレル……僕は前にも言った通り、ブレンド社の入口に『差し上げます』同然の状態で放置されたんだ。お得で良い品・吸水力が自慢のタオルメーカー・ハーバー社のおくるみにくるまれ、バスケットに入れただけの状態で! そのブレンド社はそりゃあもう寛大に僕を育ててくれたよ? 孤児院にぶち込まずにボスの家や社員の家に住まわせて、学校にも通わせてくれた。でもね……だとしても、その対応は幾らか……いや、だいぶ変人でスパルタだったさ。君も会ったからわかるだろ? 僕は昔からあの『レディ』の舎弟同然……! 小児の頃から顔色を窺い……言葉のパンチを食う事数知れず……今も気に入らないと容赦なく平手打ちが飛んでくる!」

「それは、先生が何かやってしまったからだろ?」

低く穏やかな声で言ったのは、普通に入口からやって来たブラックだった。

実は話の途中でドアが開く音も当然のように入って来る音もしていたが、ニムの気迫に身動きとれなかったソレルが疲れた顔で振り返った。

「よお、色男サン。女の説得を先生なんかに任せて何してたんだ?」

「屋敷をひとつ壊してきた」

上着を脱ぎながら、「卵を割って来た」とでも言うような気軽さに、問い掛けた方は唖然とした。確かに、コーヒーの香りにしっとりと馴染んでくる香水に、微かに焦げた香りやツンとした火薬のような匂いが混じっている。

が、ニムは動じることなく、彼のコーヒーを注ぎに行きながらブツブツ言った。

「おつかれさま、ブラック。ところで君はそう言うけどさあ……レディの若い頃って、今より手加減ナシなんだよ? 平手打ちだけじゃなくてキックもしょっちゅう当てに来るし――」

「いやいやいや、ちょっと待てよ先生……そうじゃないだろ! 屋敷ひとつってどういうことだ……!」

講釈垂れる作家と狼狽える美青年の間で、ブラックは薄笑いを浮かべたまま、差し出されたカップを嬉しそうに受け取って一服した。

「先生、俺はレディの若い頃は知らないが、先生は変わっていないんだろう?」

「それはまあ……――まあね――……君は実に鋭い……」

自らを振り返って静かになるニムに笑い掛け、ブラックはソレルへと視線を移す。

「ソレル、俺が壊してきたのは山腹の『果樹園フルーツ・パーク』がアジトに使用していた屋敷だ。正確には、連中が自爆したようなものだが」

「マスカットもか……?」

「負傷した状態で頑張ったが、当局に手伝ってもらって牢に入れて来た。瓦礫から引っ張り出した者を含めて、近い内に移送になるだろう」

「あんた……たった一人で……」

こちらを見て微笑んだ笑みが酷薄に見えるのは、こちらの気の持ち様なのだろうか?

その顔や両手には血の一滴も付いていなかったが、黒服に何が飛び散ったかはわからない。

「ブラック、作戦時のことはあんまり喋っちゃダメだよ」

キッチンに向かったまま出たニムの忠告に、黒い笑みを湛えた男は軽く肩をすくめてからソレルに言った。

「先ほども言った通り、あれは殆ど自爆だ。レディが来た時点で撤退を考えた賢い奴が居たようだが、此処は特殊な環境だからな。マスカットにも意地が有った様だ」

撤退と居残る作戦の二手に分かれたことで、ブレンド社の動きは攪乱したものの、結果的に手薄となった双方を叩かれたという。そうだとしても……暴力でのさばっていた組織をたった二人で制圧するとは、なんと恐ろしい連中だろう。

「……本当は先生も強い……なんてこと無いよな?」

「僕の最も不名誉にして最も使用頻度の高いあだ名は白アスパラガスだよ」

「不名誉ではない。白アスパラガスは『野菜の女王』でもある」

余計な口を挟むブラックに、ニムは振り返ったうんざり顔で言った。

「知っているとも、親友――”野菜の”白アスパラガスは春を告げる素晴らしく美味しい野菜さ。――ソレル、とにかく僕は君が最初に感じた通りの鈍臭くて隙だらけの男だよ。警戒するだけ無駄だ」

「そう、だよな……」

急に歳をとったような顔で溜息を吐くと、ソレルは椅子に沈み込んだ。

「あいつらが……居なくなるのか……ようやく……――」

気後れした様子の青年をやんわり笑んでいる黒い瞳が見つめ、その間にもトーストを焼き、豆をコトコトと温めていたニムへと振り返った。

「先生、レディは明日、理事会と薬物に関する交渉とアジトの検分を優先的に行うそうだ。先生はどうする?」

「僕はやろうと思ってることがあるんだけど……君はどうするの?」

「一応、俺の仕事は終了した。手伝いは要らないと言われたが、外の『果樹園』が行動を起こす可能性もあるから、移送が済むまでは残る様に指示されている。先生に用事があるなら手伝おう」

「君は休んだ方が良いと思うな」

「大丈夫だ。それを食えば元気になる」

ニムはにっこり笑うと、指さされたビーンズ・オン・トーストに豆を追加してブラックに手渡した。

「じゃあ、お言葉に甘えて手伝って貰おう」

「了解した」

「ソレル、君はどうする?」

どこか呆けた顔で空のカップを眺めていた青年に問うと、彼は本当に自白剤でも飲んだような顔でぼんやりした琥珀色をもたげた。

「悪い、なんだか……気が抜けちまった。……俺は、何も予定はないよ」

嘘だ。本当はやらなければならない事は山ほどある。父と友人は、きっと両薬物を余所に運ぼうとするだろう。友人の研究も止めねばならないし、『果樹園』が消えたことで変化する内外への対応も人手が要るのはわかっている。

今、モンス・マレは『果樹園』が入って以降、最も不安定な状態なのだ。

「そうかい、優秀な助手も僕を手伝ってくれると有難い。どうかな?」

「別に良いけど……何をするんだ?」

「エルバ・クランツの遺骨を探す」

椅子から転げ落ちそうになる青年を、スッと横から出た大きな片手が支えた。

片手にトーストの皿を持ったままの男が、良い声で囁いた。

「大丈夫か?」

今度こそ、ミリーにどんな具合か話せる状態に、身をコチコチにさせて頷いた。

「あ……ああ、どうも……」

「そんなに驚くかい? 君も探していたからかな?」

「もうあんたに関しちゃ驚くことはないと思ってたんだがな、先生……」

「それはつまらない。僕の周囲は僕がやることに慣れちゃってて面白くないんだよ。君が驚いてくれるのは非常に気分が良い」

迷惑な役にされた青年が嫌そうに首を振り、面倒臭そうに言った。

「じゃあ何だよ、俺が驚くような心当たりがあるのか?」

「ある」

「はっきり言うじゃないか。当てが外れる不安なんか無さそうだな」

揶揄するような声に、ニムはトーストをもぐもぐやりながら、眉をひそめて首を振った。

「不安はあるとも」

憂鬱そうに作家は言った。

「君たち二人を連れ歩くと、その輝きで僕の存在が掻き消える気がする」

「それは困る」

即座に抗議の声を上げたブラックはわずかな間にトーストが消えた皿を持ったまま言った。

「先生が居なくなると、このトーストもコーヒーも無くなる」

少々、薄情な発言に聴こえたソレルが胡乱げに首を捻った。

「あー……色男サンよ、それは無いんじゃないか? コーヒーはともかく、そのトーストは誰でも作れるだろ?」

「そうじゃない……ソレル。先生が居る場所に、これが全部揃うのが肝心なんだ。俺が贈ったウツボカズラやマートルも、変な虫ばかり載った図鑑も素晴らしい名作も、全部が揃うのは先生が居るからだ」

相変わらずの薄笑いに落ち着いた口調だったが、どうやらこれは彼の熱弁らしい。

「良い事言ってんのかよくわからんが……このトーストだって、先生の発明じゃあないだろ?」

どう見ても、キッチンテーブルに乗っかった洒落た豆缶を作った会社在ってのものだ。ブラックは素直に頷いたが、すぐに首を振った。

「違う。だが――」

「こらこら、僕はちゃんとわかってるから落ち着いて、ブラック」

ニムの取りなしにまだ何か言いたげなブラックは口を閉じて、少しだけ微笑んだ。

「……先生は居ないと困る」

「あー……ウン、大丈夫さ、ブラック。君が元気なうちはくたばる気がしない。だからちゃんと静養しなくちゃダメだよ」

わかった、とニムの頭ひとつは高い所で頷く男を、ソレルは何とはなしに眺めた。

「あんたらが仲良しなのはよくわかった……」

「はは、僕らは互いに親無し・故郷無しだからね。お互いが居場所というのもいいものだよ」

「そういうもんかね……」

代えの利くものを沢山並べた場所でも、居場所は居場所なのだろうか。

「君とジェファーソン――いや、オーガスト医師だってそうじゃないか」

「知りもしないのによくもそんなこと言えるな?」

不機嫌そうに言うソレルに、作家は例の図に乗った顔でニヤっと笑った。

「知ってるさ。マダム・モリーが嘘吐きじゃなければね」

本日何度目かの一杯食わされた顔を眺め、ニムはにっこり笑った。

「さあ、程ほどにして休もう。なんだって、疲れていない時の方が上手くいく」



 オーガストは焦っていた。

少し前に注射してもらった疲労回復薬の効果は出ているが、頭がすっきりしたからといって、心まで軽くなるわけではない。そんなことができるのは麻薬の類だ。一時的な多幸感と引き換えに、脳を破壊し、身も心もボロボロにする。

微量だけ含んだROMOは、頭痛薬と相性が悪く、目覚めているのにクラクラした。

踏ん張れ。此処で研究できる最後の夜かもしれない。時間が足りない。

人手が欲しいが、もはや自分以外の何者にも頼めない――今夜、これを一人で完成させる? 不可能だ。不可能なことだけはわかる。

……よほどの……よほどの危険を犯さなければ……

傍らの液晶画面に映るのは、前の院長が残したデータだ。一度は消されたものを、専門業者にも頼んで何とか復元したそれと、手書きの資料――こちらも廃棄されたものを拾い集め、足りない部分は検証しながら継ぎ足したものだった。

そこには、研究とは直接の関与はないメモが複数あった。

走り書きであったり、敢えて丁寧に書いたもの、隅に遠慮がちに書かれたもの。

その内の一つは、若い医師に呪いのように重くのしかかった。


〈多くの偉業は、多くの犠牲の上に成り立つ〉


医師は青い顔を上げた。ガラス一枚挟んだ白い部屋の向こう側には、薄水色の検査着を着た女が椅子に座っていた。椅子と、入ったドア以外には何も無い。こちらからは見えるが、向こうからは見えないその中で、女は落ち着かない顔つきで辺りを見渡し、口では訴えないが、両の目は少し不安げでもあり、苛立たしそうにも見えた。

初期段階に比べれば、彼女は随分良くなった。

以前は1から20まで数えるのがやっとだったが、今は100まで理解できるし、落ち着きはないが、会話はできる。

今の彼女はFIBOの投薬レベル9。

10が実験で行われたことがある最大値――エルバ・クランツのラインだ。

此処に達した時、エルバは豹変したらしい。レベル9の段階でも随分な変化だったが、10は危険値と記されていた為、二つの間には明快な差がある。

10に達すれば、エルバが自ら死を選択したほどの、何かが起きる。


――もう、やめてもいいんじゃないか、オーガスト?


データを見つめながら、自問自答する。

あの少年は、ステラがどんな風になっても好きでいてくれるかもしれない。

パートナーにはならなくても、見守ってくれるかもしれない。


――本当に? 本当に、そんな上手くいくのか?


人間は心変わりするものだ。あの少年は優秀だし、医学の道を志している。

それなら本人が言う通り、一度は此処を出て大学に行かねばならない。そのキャンパスや、他国住まいで、他所の女性を好きになる可能性は、ステラを愛し続けるのと比べてどうだ?

それに、あの少年が何かの理由で病気になったり、死亡することだって……


――そもそも、この実験は誰かに好きになって貰う為にやっていることではない。


ステラは母譲りの綺麗な姿に生まれた。

たとえ、他の者より知能が低かろうと、愛らしい彼女は大抵愛される。

問題はそこなのだ。その愛が、あの少年のように純粋で温かなものなら心配などしないが、綺麗な容姿に惹かれて、そうではない者も彼女に近付くだろう。

だから、彼女に理解してほしい。

せめて、目の前の人間が危険かどうかわかる程度には。

危険を察知し、逃げる算段や、助けを求めることができる程度には。

わけもわからぬまま受け入れて――自分のような子供を産んでしまわぬように。


溜息を吐き、次に顔を上げた医師のそれは冷静だった。

焦ってはいけない。データは積み重ねてきた。FIBOも、前の院長が作った物よりも精度を上げている。エルバがレベル9の段階で怒りの感情を表していたのは、その生い立ち故だ。ステラにそれは無い……無い筈だ。彼女は限りなく安全且つストレスの無い環境で育てて来た。

”そうなるように”理事会にも暗に働きかけて来た。

彼女が自身の現状に気付いても、怒りが占めることはない筈だ。

目の前の端末を操作してスイッチを押せば、ガラス戸の向こうに空調に紛れてFIBOが散布される。ほぼ無味無臭だ。気付かぬ内に吸い込み、しばし後に効果が出る。

押せば、済む。

前の院長――実の父親と同じ領域に踏み入る。

指が震えた。研究に自信が無いわけではないのに。レベル10の実験も初ではない。安全が立証できているから行うのが実験であって……

内側に呟く中、喪服の麗人の言葉が甦る。


――目的達成の為に、彼らを利用しているのは否めない――


その通りだ。申し開きする気もない。

モンス・マレの狭い土地の中で、先人もずっと考えて来た筈だ。

何を捨て、何を拾うのか。何を残し、何を無くすのか。何のために、何をするのか。

自分は――彼らの末裔だ。安心しろ。目の前の女を、殺すわけではない。

”成功”すれば、彼女は全てを理解するかもしれない。

彼らを愚かと罵る気は毛頭ないが、知らないよりは、知った方がいい。


――オギーが居てくれて良かったよ――


あの日の友人の言葉が浮かぶ。

ソレル。僕は……あの日、選んだんだ。

それがもう変えられないことであるように、自分の未来も変わるまい。

ならば、変わらない未来が自分を襲う前に、この場所に出来ることを残そう。

震える指で、医師はスイッチを押した。

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