17.反乱
「最初は、『子供』の反乱というところかしら……」
やや自虐的な笑みを浮かべた女は、手ずからお茶を淹れて、作家の方にカップを押しやりながら静かに語り始めた。
「古い頃から、クランツ家とクラヴィス家は、縁者同士の二大勢力でした。それは同時に、互いにいつ滅ぼしてやろうかと牙を隠して向かい合う関係でもあった。麻薬に溺れ、外の相手とも身内とも権力争いばかりしていたからでしょう……何代目かに生まれた跡取りが、ついに女一人と女一人になってしまったのです」
どうにも権力者というものは、血縁関係に重きを置く。
野心家は血が繋がっていようとも争うし、時には殺し合うものなのに、或いはその不安から来る他者への疑心なのか……何かと縁者で周囲を固めようとするのだ。
極端に言えば、マフィアにしろ、経営者にしろ、一族だけで統治してきたものは大抵、滅んでいく。表面上は仲良くしている内に風通しが悪くなり、内側から腐っていくように。
「クランツ家の女児が知的障害を持って生まれたことを、クラヴィス家は早くに察知しました。相手を乗っ取る最高の好機と思ったのでしょうね……部下や使用人の子供たちを手塩にかけて育て、優秀な一人をクランツ家の娘と結婚させる計画を立てました」
「……そう上手くいくものでしょうか?」
政略結婚に時代遅れを感じる作家の問い掛けに、女は苦笑した。
「仰る通りですわ、ミスター・ハーバー。そう容易くはいかない。利用される側が賢ければ賢いほどね」
「だから、『子供』の反乱というわけですか」
「そうです。最終的にクラヴィス家が選んだのは、使用人の子だったダグラスという少年でした。彼は持って生まれた知性と努力家の才能で瞬く間に知恵を付け、期待以上に成長した。その結果、彼はクラヴィス家も、クランツ家も刷新する計画に着手するのです」
「それを後押ししたのが、もう一人の『子供』……クラヴィス家の聡明な令嬢たる貴女なんですね」
「……聡明などと褒められたものではありませんわ。私たちはモンス・マレを変える同盟を組みましたが、はっきり申し上げて、これは殺戮の計画です。悪党の子供が自らの親どもを滅ぼそうと画策するほど、此処は腐りきっていたのです。私と彼の他に、数名の同志――当時は皆、殆ど子供です。大人たちにわからぬよう、密かに計画を進めました」
なるほど、ジェニーの親などがその類か。子供が大人に反抗することはあっても、倒そうとするのは余程の覚悟を要する。それだけ、この二人は信頼に足る存在だったということだろう。
「まず、モンス・マレに若い女が入らぬよう、あらゆる悪い噂を吹聴しました。学業の為に外国に行っていたダグラスや私を中心に、私たちの話を聞いた運送などの出入り業者が中心となって。現在でも、誰かが続けている様ですが……此処を悪党にとって魅力のない場にするには、女は一つのキーパーソンでしたから。本気にしなかった大人も多かったでしょうけれど、人は大抵、噂好きです」
港に座り続ける紳士を思い出しながら、ニムは頷いた。
「徐々に効果が出たんですね」
「ええ……曖昧な噂として広まった頃、モンス・マレに居た女にも危険を報せるように流し始めました。本気にした女が一人で出ていくこともあれば、誰かの手を借りて集団で此処を出るようになり、着実に女は減りました。エルバ・クランツの両親の関係は既に冷え切っていましたから、父親は愛人の言うまま、母親は近付いた商人に流されるように薬物中毒になって寝たきりになった後、二人とも此処を去った」
モリー・ブエノの日記の通りだ。使用人も減ったという頃……クランツ家にとってはそのまま消滅する可能性さえある頃だ。
作家の指摘に、クラヴィス家令嬢は頷いた。
「クラヴィス家は、エルバだけが残ったクランツ家をどうするか、それなりに悩んだことでしょう……わざわざダグラスと結婚させずとも、小娘一人にはどうすることもできませんから。一方で、モンス・マレが女の流出で錆びついていくのにも頭を悩ませていました。お金が有ろうとも所詮、人に必要なのは人です。このまま此処に居座るのか、そうするなら、どうやって人を集めるか……考える時間の為、監督としてクランツ家にダグラスを送り込んだ。さも優しい親戚筋の顔をして、エルバを擁護する顔で。使用人はクラヴィス家の思惑は見抜いていたでしょうけれど、ダグラスはエルバを害するどころか、人格者として守った。彼が周囲の信頼を得れば、双方の家はほぼ私たちの手中に収まったも同然。当初の計画よりも穏便に世代交代ができると思っていましたが……ただ、ひとつ……誤算が生じました」
「誤算?」
「エルバを慕う医師の存在です。私たちよりも一回り上で、若くして才能に溢れたジェファーソン……彼はエルバの知能回復の為、ある薬を開発していた。それが
「えっ」
驚いた顔をした作家に、女は何でも無さそうに首を振った。
「この薬は、常人には劇薬です。私たちはそれに気付いて、治験の機会を求めていたジェファーソンを脅迫しました。FIBOの治験者を提供する代わりに、その薬を使わせるようにと」
「……そして、貴方がたはそれを『大人』に使った」
「使いました。クラヴィス家が、モンス・マレに新たな悪党を呼ぼうとしていましたから」
「悪党? それは……もしかして」
「『
恐ろしい計画に、ニムは首を振った。
『子供』に親殺しを決意させ、実行させるだけの腐った統治とは如何なるものなのだろう。誰にも守られなかった者たちが、守ろうとせずに蹂躙した者に牙を剥く――……そして今度は、別の怒りが『大人』を殺しかねない。
「一度でもコンタクトの有った相手との契約を『果樹園』は放置しなかった。だから私たちは事実を隠し、私はクラヴィス家当主として、ダグラスはクランツ家当主として、ジェファーソンは私たちの支援で立派になった大病院の医師として、奴らと条件付きの契約をした。
「勝手にさせない……では、ROMOはやはり、軍や自警団を持たないこの国の防衛機関として……」
「察しの良い御方ね。ROMOはFIBOの派生品に過ぎませんが、究極の部分では労働力ではなく、兵力になるものです。――いつ、お気付きになったの?」
「『その他』の人達から、肉体労働に従事していた方が骨が折れても仕事をしていた話を伺いました。ついでに、僕の友人に民間軍事会社に居た人物が居ますが……彼の同僚や関係者にも、薬物によって肉体の限界――痛覚や疲労で止まる筈の域を越えて戦っていた者が居たそうです。ROMOにも、そのレベルの力が有るのではと」
「有るでしょうね。……幸い、『果樹園』は話のわかる連中でした。試したことは有りませんが、『子供』一人でも手に懸けたら、”この手”を使うと言った私たちに応じたので」
「『その他』を犠牲にして……ですか? ”この手”というのも、『大人』より先に『その他』に使うのではありませんか」
「……その辺りは、貴方の御想像通りです、ミスター」
雄弁であれ、女の顔色は悪かった。罪の意識も良心の呵責も感じているのだろう。
「話を戻しましょう。ともあれ、私たちは此処のシステムを整えました。貴方が仰る通り、『その他』を犠牲にして。エルバも同様です。彼女の親が失踪しなければ、私たちは彼らを手に懸けることも辞さなかった。仮にも縁者、私もダグラスも、生涯、尽くすつもりでした」
「だから、理事長はエルバ嬢と結婚を?」
「それだけではありません。エルバの知的障害についてなるべく隠し、ダグラスに正統な権限を与える為です」
「本当は……貴女と恋仲だったのに?」
女は乾いた笑い声を立てた。
「――野暮なことを仰らないで。私たちは同志であり、共犯者です。エルバとダグラスの間に子供が出来たなら、モンス・マレの未来は明るい……そう思いつつ、若くて愚かな私たちは選択を誤ったのですから」
「それにしたって……お二人の結婚は唐突だったと思います。結婚を急いだ原因があったのでは?」
「それは……ジェファーソン……あの男が、エルバを諦めなかったからです……!」
苛立たし気に拳を机に叩き付けてから、女は額に手をやった。
「何もわからないエルバをあの男は……! もしかしたら……もっと以前から関係していたのかも……乞われるまま、彼女は妊娠した。それだって……どれだけ理解できていたのか……――幼い頃から世話してくれていたモリーが気付かなければ、子供もあの男に隠されたかもしれない。だから私たちは結婚を急がせ、あの男を遠ざけたけれど……」
その後も、ジェファーソン医師は関わった。精神的に不安定になりがちなエルバに関われる医師が他に居なかったからだ。彼はその間も、エルバの精神を正常に戻そうと苦心していたらしい。
「……生まれた子は、赤毛でした」
呪いを呟くように女は言った。
「ジェファーソンはこの当時、既に年齢による白髪でしたが、元は赤毛だったのです。目の色こそエルバに似た薄いブルーでしたが、エルバは自分の子だと認識できませんでした。だから……”私たち”は……先に生まれていた子を……」
「ご自分の子を……ソレル・クランツにしたんですね……?」
頷いた顔色は、飲み過ぎた人のようにやつれて見えた。年齢よりも若々しく、常に完璧なメイクを施しているだろう女でも、内側のダメージを覆い隠すのは難しい。
母にしては煌びやかなルージュから、痛みを感じる溜息がこぼれた。
「……それが許されない手段だということは、わかっていました。両親を奪い、天涯孤独の身にし、何もわからぬまま家を乗っ取られたエルバに対して、申し訳ない気持ちで……――それでも結局、私たちは高慢だった。自分の子に対しても……」
「それで、エルバ嬢は落ち着いたのですか?」
「最初の内は。エルバは金髪、ジェファーソンは金目。ソレルは金髪で、琥珀色の目でしたから、違和感はない筈だと私たちは思った。でも、エルバにとってはダメでした……彼女は、自分と同じ容姿をしてこそ、自分の子だと思った様なので……」
憂いを吐き出すのを、ニムは静かに見つめた。主な部分は日記に有った通りだろう。
マルガリータは愛した男も子供も差し出したが、エルバにその苦心が伝わる筈もなく、幼いソレルは母親の愛を求めて拒絶されたまま失う。人を傷つけて始まった不幸は連鎖する。皆、悲しみを分け合い、苦しい方へと引き込まれていく。
「エルバ嬢は……本当はどうして亡くなったのでしょう?」
「自殺です」
「自殺……」
反復した作家に、どこか納得のいかぬ調子で女は付け加えた。
「……本当のところは、私にもわからないのです。エルバはあの日、自ら大量のFIBOを一度に摂取したショックで死亡しました。その動機が自害なのか、別の意図が有ったのか……それは彼女にしかわからない。わかるのは、彼女の手の届く所にFIBOを置いた人間が居ること。その場に、十歳のソレルが居たこと……それだけです」
「彼は……母親だと思っていた人の死を、目の前で見たんですか……」
どれほどショックだったことだろう。
居たたまれぬ表情で眉を寄せたニムだが、女は細い溜息を吐いた。
「――ミスター・ハーバー……ソレルは、私のことについて気付いていると仰いましたね。あの子は……何をするつもりだったのでしょう?」
「僕は、彼とは会って間もない……全てはわかりませんが、『その他』を虐げるシステムの撤廃と、『果樹園』を追い払うことは意識していたと思います。他国の公的機関への進言はした様ですし、離島の施設も独自に調査しようとしていた。僕が彼の素性やエルバ嬢の死に違和感を感じたのも、それが一つの原因です。エルバ嬢が本当に精神障害者の手で死亡しているのなら、彼が『その他』の人々に肩入れするのは妙ですから」
「それは……エルバの仇討ちなのかしら……?」
「僕は、父親への反発の方が強いかと思っていましたが……マダムにお話を伺った今は、彼の親友の方が気掛かりです」
「……オーガストが?」
エルバ・クランツの本当の息子の名に眉をひそめた女に、ニムは頷いた。
「はい。彼にジェファーソン姓を継がせたのは、院長を追い出す為でしょうか?」
「聡い方ね……そうです。オーガストは子供の頃から優秀でしたから……それに、ジェファーソンはエルバを失った後も気が違ったようにFIBOの研究は続けていて……殆ど病院からも出て来なくなり、なんだか不気味でした。多くの秘密を共有していた私たちに消されると思ったのか、オーガストが学業から戻っていくらも経たない内に、密かに逃亡しました」
「逃亡の際、彼は何か持っていきませんでしたか?」
何気ない問い掛けに、女は驚いた顔をした。
「ミスター・ハーバー……それは作家の想像の域で仰っているの?」
「そのご様子だと……彼はエルバ・クランツの死の証を持って行ったんですね? 薬物の研究資料よりも優先して?」
女は目を見開いたまま、頷いた。
「おぞましいことです――でも、どうして貴方はこの事を……?」
「……一つは、ソレルが教会に案内してくれた際、エルバ嬢のお墓にはお参りしなかったことですね。もう一つは、どうやら”見え過ぎる”僕の目が見せた、少々身震いする体験なんですけど……」
説明がつかないことを思い出しつつ頭を掻くと、申し訳なさそうに女を仰いだ。
「それは後で調査しなくては。マダム……その前に、もう一つのおぞましい事が起きてしまう前に、お力添え願えないでしょうか?」
「……もう一つ?」
ニムが打ち明けた内容に、彼女は信じ難いと目を瞬いた。
「そんな……まさか……――」
狼狽えた視線が彷徨い、顎に手をやる。
「――いえ、でも――……有り得ない話ではありません……」
「僕はお会いした時、正直ちょっと驚いたんです。この小さな町で、あなた方がすれ違うことが無かったのかと不思議に思いました」
「……『子供』と『大人』と『その他』……この区別が原因かもしれません。『子供』と『大人』の生活圏は分かれていませんが、学校の中では学力で教室を分けていますし、障害がある場合は両親が比較的隠そうとする傾向があります……その両親が、その子の出自について知っているのなら、尚のこと、私や理事会からは隠そうとすると思います」
ニムは頷いた。エルバ・クランツの外出が少なかったのも、この女社長やダグラス理事長が極めて忙しかったこと、仕事に集中し過ぎる
両者揃って、外向きの用は殆どスタッフに任せていたに違いない。
「すれ違えば、わかるほど似ているのですね?」
「はい。本人に会った事がない僕ですら、そう思いました」
女が溜息と共に前髪を弄い、苦笑した。
「……それも、エルバが残した呪いかもしれませんね……」
「いいえ、マダム。呪いに見せるのは貴女の罪の意識がさせることです。『子供』は呪いではない。あなた方はそうならない為に、此処を変えた筈です」
「耳が痛いこと……私にそれを打ち明けて、貴方はどうしろと?」
「ただ、気にかけてあげてほしいんです」
意外な回答に、女は訝しそうに眉を寄せた。
「それだけですか?」
「はい。それから貴女がどうするのかは、僕如きが申し上げることではありません。そもそも……その人の生きる道は、誰かが無理に定めるものではない筈です。どんなに望んでも、大型車は細い道を走れませんし、小型車に長い道を走らせるのは難儀です。その人が適した道に出られるよう、サポートするのが周囲であると思います」
「ご高説、痛み入りますわ、ミスター。私の手伝いはあまり期待なさらないで。『果樹園』を追い出せば、これまで怯えて口を出さなかった連中が、諸外国を含めて騒ぎ出すでしょう……二度と害虫が入り込まぬよう、手を尽くさなくては」
「あなた方が育てた若い世代が力になってくれますよ、きっと」
「……どうでしょう。彼らの気が済むなら恨まれても構いませんが……」
「そうならないよう、僕も出来る限りのことは致します」
憂いを帯びた女に確と言うと、ニムは時計を確認し、丁寧に頭を下げた。
「マダム、遅くまで失礼致しました。僕は下っ端ですが、当社はご相談に来たペトラを含め、優秀なスタッフばかりです。どうか、ヤケを起こさずに明日までお待ち頂けますか。今夜のうちに、悪党とは決着がつく筈。戸締りをしっかりなさって、あまり飲み過ぎない様、お休みください」
「今夜のうちに……――貴方はどうなさるの?」
「僕は部屋に戻ります。友人の為にコーヒーを淹れてあげたいので」
森のような両眼をにこりと微笑ませ、作家は部屋を後にした。
病院のバックヤードはざわついていた。
普通に考えれば、もうとっくに終業時刻である。だが、顔半分を包帯で覆った女が、ガラの悪い者を引き連れて院長室に押し掛けて以降、未だ中からは誰も出てこない。警察に声も掛けたが、押し掛けた連中はあの『
彼らが相手では待った方がいいと日和見な回答を受け、医師や関係スタッフは院長の安否よりも仕事が進まないと頭を抱えた。
中では赤毛の青年が、アウトロー数名に囲まれても動じぬ様子で、応接用のソファーに腰掛けたスーツ姿の女を薄いブルーの目で見つめた。
「……マスカット、何度言われても僕の答えは同じです」
青年の返答も何度目かだった。
「僕は理事会に……クランツ様に従います。あなた方と直接手を組むことはありません」
女は手元で大型拳銃を回転させながら鼻を鳴らした。
「お人好しというか、おバカというか……弾丸の威力もわからないってことかしらねえ……食らってみたら気も変わるかしら?」
「そんなもので、脅そうとしても無駄です」
オーガスト・ジェファーソンの無機質な返答に、マスカットは呆れ顔でニヤついた。
「理事長は味わった筈よ。ま……邪魔が入っているでしょうから、命は助かってるかもしれないけど」
「仮にそうだとしても、クランツ様は聡明な御方です。暴力に屈しはしない」
「はー……あんたはあたしをシラけさせる名人だわ。用が無けりゃ、今すぐその頭を潰れたパイにしてやるってのに」
「お引き取りを。その顔も治療し直した方がいい」
つれなく言って開いたままのパソコン画面に向き合う青年に対し、女は立ち上がって近付いた。
「オーガスト、これでも私は忍耐力が有る方なの――もう一度聞くわ、理事会を撤廃し、私たちと手を組んではいかが? この病院が必要とする資金、研究費用は全て当方が援助する。代わりにあんたはFIBOや他の薬物の安定供給をする。病院を縛る機関に過ぎない理事会なんかに、肩入れする意味はないでしょ?」
「意味のない議論を続けるつもりはありません。僕は忙しいのです……お引き取り下さい」
毒蛇のように伸びた手が、ガシャン!と音がするほど勢いよくパソコンを閉じた。ずいと青年の目の前に詰め寄ると、女は片目をぎらつかせた。
「あんた、いつまでこんなこと続けるつもり?」
「こんなこと、とは?」
「こっちはもう知ってるのよ、オーガスト。あんたが正真正銘のエルバ・クランツの息子だってことは」
ほんの僅かに、青年の表情が歪んだ。女は構わず続ける。
「しらばっくれても無駄よ。記録ってのは残るから記録なんだし、人の口ってのは滑りやすいもんなの……それでも小うるさく否定するなら、DNA鑑定とやらでもするまでよ」
押し黙る青年の前、閉じたパソコンの上に女は契約書をぐしゃりと叩きつけた。
萌黄色のマニキュアが塗られた爪先でそれを指差しながら言う。
「この町で最高権力を持っていたクランツ家の血筋はあんたのものでしょ? それをみすみす、ソレル坊ちゃんに渡すつもり? これにサインするだけで、あんたは奴らの呪縛から解放されると思わない?」
「呪縛……」
呟いた青年は、契約書――現在、理事会と『果樹園』が交わしているものを見下ろした。互いの利益を約束し、不可侵であること。莫大な資金提供と薬物を引き換えにした、魔の契約だ。それは同時に、この町――自治区たる国のシステムを守ってきた契約でもある。病弱な子供も、重い障害がある子供も、やがて大人になる彼らに対しても、ありとあらゆる命を取りこぼさない為には金が要る。
『子供』を……『子供』を守るために、『大人』として成すべきことをしなければ。
「賢いあんたは、私たちを追い出してやっていけるわけがないのはわかってるでしょうに。『その他』の扱いの本質に気付いた他国の難民みたいな連中が入り込んで、いよいよ経済難だってのは知ってんのよ」
青年は黙って女を見上げた。
モンス・マレは、麻薬収入を廃した途端に破綻しかねないのが現状だ。それほど、高度な医療や高等教育制度が敷かれている。障害がある子供が平等に扱われる――ただそれだけで入国を考える両親は少なくないし、仮に八番街に移ることになっても、そこには人並みの生活は存在するのだ。それらも、今の財政が崩れれば多くが立ち行かなくなり、『果樹園』怖さに黙殺してきた諸外国が一斉に非難を浴びせ、リゾート地の顔さえ潰されかねない。
想いだけではどうにもならない現実が、薄っぺらい契約書の上に重くのしかかる。
「あんたは私たちにおべっか使わないわりに、FIBOの研究は熱心よね? 障害者の知能回復が医師の使命だか何なのかは知らないけど、打ち込み様は前の院長といい勝負って聞いてるわ。続ける為に、金が要るのはわかってるわね?」
「それは……わかっていますが……」
凛とした態度を鈍らせつつも、オーガストは首を振った。
「血筋など、関係ありません……僕は、ソレルに従うことに異論はない。彼は僕の憂いを一身に受けて苦しみ続けた。その償いと恩に報いるのに、何の不都合があるのです? 金が要るのなら、僕は自腹を切るなど何でもありません」
「ああ、そう――わかった、あんたはお人好しのおバカで決まりね。あんたがそうなら、お坊ちゃんと話すことにしましょ……仲良しこよしのどちらかに銃口向ければ、どちらかが折れる」
「ソレルは……僕のことなど……」
「試せばわかるわよ。さっきは勘弁してやったお坊ちゃんの小綺麗な顔を私みたいにしてやろうかしら」
「やめて下さい……! ソレルに手を出すのは……!」
「じゃ、黙って書くのね。そんなに大事なら、お前が金も毒も引き受けてやればいい」
蒼白になる青年の手に、萌黄色の爪先の指がペンを押し付けた時だった。
いきなり、勢いよく部屋の扉が開いた。
振り向いた一同が目を剥いた先には、夜から出でたような喪服の麗人が立っていた。
帽子の下――刃物ほど鋭い眼光の元、グロック17を構えて。
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