15.隠されたもの

 ニムが散歩から帰ったような顔でホテルに入ると、受付嬢のジェニーが不安げな顔を上げた。

「お帰りなさいませ、ハーバー様……」

どこか陰りの有る笑顔に、ニムは愛想良く頷いた。

「元気が無いようですが、どうかしましたか?」

「も、申し訳ありません……お客様の前で……」

「とんでもない。受付嬢だって人間です。無理をしちゃいけない」

「……ありがとうございます。あの……ソ……クランツ様、何か有ったんですか? 海沿いのレストランで、暴動が有ったと聞いたので……」

「ああ、ソレルの心配をしてくれていたんですね。彼なら大丈夫、すぐに病院に運ばれて、さっきも元気に大声で喚いたりしていました」

「えっ、わ、喚いて?」

驚いた顔をする受付嬢に、語彙力に問題の有る作家は両手を振った。

「あ、すみません。言い方が悪かったな。えーと、頭にキていた様ですが、あの美貌は無事ですし、アル中を指摘されただけで大きな怪我はしていません」

言い直しても誤解を招きそうな発言だったが、ともかく元気であることは理解したらしく、受付嬢は少し胸を撫でおろした。

「ご無事で何よりです。では、今日は病院に?」

「どうかな。帰ってくるような気もしますが、ご実家に寄られると思うので案外、ゆっくりしてくるかもしれませんね」

「ご実家に……」

こくりと頷きはしたものの、まだ何か気になる様子の受付嬢に、ニムはそっと言った。

「失礼ですが、ソレルとは親しいのですか?」

「わ、私がですか?」

聞かれると思わなかったのか、慌てた様子で言うと、彼女はちらとオフィスの方を振り向いてから声を潜めた。

「……ソレルは同級生なんです」

「ははあ、そんな感じはしていましたが、ご友人ということでいいのかな?」

「そう……ですね。そう思ってくれていると思います」

つっかえた物言いに、一瞬、男女の仲を想像した作家だが、受付嬢の返事は予想とは異なっていた。

「彼はその……理事長の息子ですから、子供とはいえ、待遇目当てで近付く人間が多くて……システムが敷かれて以降は無くなったと思いますが、大人も――教師を含めて、取り入ろうとする人、稀に脅しを掛けようとする人も居ました。彼はそれがわかっていたし、お母様のことで色々……気を揉んでいたから、あまり友達付き合いはしていなかったんです。あの当時は、オギー……ジェファーソン医師ぐらいしか、まともに話せる人は居なかったんじゃないかしら……」

「なるほど。でも、貴女も彼を保身と関係なく心配している様ですが」

「……私、オーナーの親戚なんです」

どこか気恥ずかしそうに微笑むと、受付嬢は首を振った。オーナーを尊敬してホテルに就職したが、身内の優遇云々と後ろ指を指された経験があるらしい。

「オーナーは仕事に対して身内も他人も関係ありませんから、私も待遇なんかを気にしてソレルと接したことはありません。彼にとっても気楽な相手だったと思います。今のシステムになってからは『子供』の待遇は一律で、両親の収入に関わらず、医療や芸術分野などのお金が掛かる方面に進む際も支援が有りますから、こういう事は無いと思いますけれど」

「そうか……『子供』の未来が開かれている点では、此処は凄い所ですね」

「仰る通りです」

努力したのだろう、受付嬢として完璧な笑みを浮かべたジェニーに、ニムはそっと尋ねた。

「あの、ソレルのお母さんって、何か問題が有ったんですか?」

もう一度、ジェニーはオフィスの方を見つめ、やや難しい表情をした。

「……私から聞いたと言わないで下さいね」

「もちろんです」

「……知的障害が有ったそうです。私はご存命の頃、クランツ家に招かれたことはないのでどの程度だったのかまでは存じませんが、親の代では有名な話です。度々、大声で叫ぶ声が聴こえたり、使用人の方が破損したカーテンや食器をしょっちゅう買い替える状態だったそうなので、隠しようもなかったのでしょう……ソレルも同級生が家に来るのを嫌がっていましたし、誕生パーティーやクリスマスもこのホテルで過ごしていました」

「そうか……その時、貴女も一緒に祝ってあげたんですね」

「ええ、いつもオーナーが入念に準備をなさって、盛大に。オーナーはエルバ様とはご友人だったそうなので、お母様が亡くなられた後も、何かと親身になられていた様に思います」

「……素敵な方なんですね、マダム・クラヴィスは」

「はい。とても」

愛らしい笑顔の受付嬢に別れを告げ、ニムは部屋の鍵に付いた内側が青い巻貝を眺めながら、部屋に戻った。

改めて見ると、一人で過ごすにはちょっと広い部屋だ。

ソレルやブラックが居て丁度良いぐらいだ。いや、別に寂しいわけじゃあないが。

無意味に室内を見渡し、鍵を置こうかとテーブルに近付いた時、ブラックの言葉を思い出した。

――部屋に戻ったら、テーブルの裏を確認してくれ。

ひょいと裏を覗くと、ネットのように括られた紐の上にノートが乗っていた。

「上手に括るなあ……」

ラタンの脚に通った紐は見えづらく、横から見てもわからない。盗難を警戒した見事な細工からノートだけ引き出してみると、何の変哲もない……やや古びたノートが三冊。挟んであったメモを確認すると、文字もセクシーに感じる親友からだった。


〈先生へ セオドア・ブエノ氏から借りてきた、彼の奥方の日記だ。クランツ家の日常が書いてある。参考になればと思う〉


親友の配慮に感謝しつつ、ページを捲りながら、ニムは窓辺の椅子に座った。

暗く染まる海から、波音と風が吹いて来る。昼の海は温かく爽やかな風と共にあるが、夜になると急に不穏な空気に感じるのは何故だろう。

モリー・ブエノの日記は彼女の日記というより、クランツ家の記録だった。

彼女の温かい人柄と、それ故の不安に満ちたそれは、モリー夫人がクランツ家に勤めた頃から始まっていた。


〈5月1日 はじめてクランツ様のお屋敷に入る。何もかもが立派で、他の住民の家とは全く違う。ご夫妻は聞いていた通りだけれど、世話を頼まれた赤ちゃんのエルバお嬢様は天使のように可愛いらしい。この子の世話なら、前向きに勤められそう〉


ニムはいきなり殴られたような感覚を覚えた。

エルバ・クランツが赤ん坊で登場している。つまり、クランツ家は彼女の生家。

こんなことで驚いていたら男尊女卑だとペトラに罵倒されるだろうが……ソレルの父であるダグラス理事長は入り婿なのか。

気を取り直して日記に目を落とすと、屋敷での日常には、気になる文言が多かった。


〈6月3日 約ひと月。お屋敷にもだいぶ慣れてきた。来客時は怖い雰囲気の相手も多くて緊張する。紳士淑女の行動は見て見ぬふりをするのが最も良いと先輩に教わった。お嬢様は大人しくて手が掛からないけれど、目が合わないことが多くて不安を感じる〉


〈11月15日 奥様の様子がおかしい。旦那様がお戻りになられない日が増えているからだろうか。先輩はいつものことだと言うけれど、それでいい筈がない。最近、エルバ様は抱かれるのを嫌がる。泣いているのに抱っこを嫌がるので皆が放っておく。かわいそうなのでベッドの傍で寝るお許しを頂いた〉


〈2月20日 ご夫妻は顔を合わせると口論が絶えない。奥様のところによく商人が出入りする。身なりはいいけれど油断できない。付き合いをやめた方がいいと告げた家令が辞めさせられた。きっと良くないことが起きる。エルバ様を守らなくては〉


一年も経つ頃、クランツ家は一変する。

主人は財産の一部と共に何処かに失踪、奥方は薬物中毒を診断され、殆ど寝たきり生活となる。残された使用人も一人、また一人と消え、入っては消えを繰り返し、モリー自身も忙しい日々を過ごす。

モンス・マレも同様らしい。市街地での暴動や危険行為に関する記述が有り、モリーも使いに出ると、誰の子かわからない子供たちがあちこちに居ると嘆いている。治安は日増しに悪くなり、打つ手も無いまま日々は過ぎていく。

ニムが二冊目を開く頃、日記は十年ほど経過していた。

その頃には奥方も失踪、エルバは広い屋敷に独り残されるが、両親の不在さえよくわかっていない様子だった。使用人の中には金品を盗んで失踪する者も居たが、モリーを始め、数名は残った。

他に行く当てもないというのが理由だったが、モリーは純粋に天涯孤独のエルバを心配していたようだ。

……しかし、生活費はどう工面していたのだろう?

両親が金を手に失踪しているのだから、財産はあらかた持っていかれた雰囲気だ。使用人に払う給与もあるだろうし、維持費が掛かる屋敷を手放さずに、どうやって暮らしたのか? いくら人が良くでもボランティアで済ますことはできないし、金持ちだった人間に寄付する者も有り得ない。

いや、そもそも……クランツ家は何で生計を立てていたのだ?

後ろ暗い商売であるのは窺えるが、犯罪に手を染めていた表現も無い。

その辺りの話が出ないのを訝しみながら、ニムはページを捲った。


〈4月9日 今日もお嬢様の面倒を見たいという人が現れた。やめておけばいいのに、一時間ほど頑張って、髪を掻き毟りながら帰って行った。エルバ様が貰った花束を毟って巻き散らしていた。手は花粉だらけ。洗うのを嫌がられたので紙を渡して千切って頂く〉


〈5月6日 学業を終えたダグラスが帰って来てくれた。まだ若いのに、なんてしっかりした子なんでしょう……〉


いきなり出て来た名前を思わず、二度見した。

ダグラス。ソレルの父親にして理事長のダグラス・クランツか?

帰って来たとはどういう意味だろう……その日の続きは、他よりも長かった。


〈……事業を引き継ぐと言ってくれた。辛いだろうに。エルバ様はどうでも良さそうだけれど、ダグラスに任せれば安心。お二人はとてもお似合いだと思う。この二人の世代から町が変われたら、とても素敵。でも、余計な事を言うのはやめましょう。ダグラスにも、いい人が居るようだから。私は”その日”まで、エルバ様の御髪おぐしを梳いて、お洋服を洗って差し上げましょう〉


いい人、か。

ニムは夜風に髪を吹かしながら首を捻った。

はてさて、クランツ家は何らかの事業を行っていたとわかったが、以降は取り留めのない日常に戻ってしまった。

ダグラスは屋敷に住むというよりは様子を見に来る感じで、モリーは信頼していたようだが、エルバと格別に親しい表現は見当たらない。彼女は学校に行く年齢になっても殆ど屋敷に居たようで、素行も五歳の女の子より子供っぽいままだった。

金髪と碧眼が美しい、いつまでも子供のエルバ。

何となくステラを思い出しながら、ニムは三冊目を手に取った。

彼らは二十代も半ばとなり、進展があるように思われなかったエルバとダグラスが結婚したことが綴られていた。


「え、唐突じゃないか……? ジンジャーなら悲鳴を上げてしまう」

思わず編集者の名を出して独り言をこぼしてしまったが、作家ではなくてもこの展開は異様だ。何故、彼らが結婚する必要があったのか? 本当に恋仲だったのか? ダグラスのいい人とやらはどうしてしまったのか?

結末は知っているが、この経緯は予想外だ。読む毎に崩壊に向かう物語は、現状の隠し通された故の穏やかさを知るだけに不気味だ。

故人に訊ねたい気持ちにむずむずしながら、続きを読んだ。

この頃、当主になった為か、ダグラスに敬称が付けられるようになった。


〈7月16日 ダグラス様に連れられてマルガリータ様が来た。最近、インテリアを整える為によくいらっしゃる。彼女はエルバ様と相性が良い。美味しいお菓子や綺麗な服を持って来てくれる彼女が居る時のお嬢様は機嫌が良く、お部屋からは楽しそうな声が聴こえる。今日は珍しく、彼女に誘われて海に行った。久しぶりにエルバ様の笑顔が見られて嬉しい。モンス・マレは十年前には考えられないほど綺麗になってきた。二人の若い力に感謝したい〉


おっと、此処でマルガリータ・クラヴィスが登場か。

この口ぶりだと、もっと以前から知り合いだった様だが、既に彼女は経済的に豊かだったらしい。二人の若い力とは、ダグラスとマルガリータだろうか。


〈8月9日 エルバ様の妊娠がわかった。我が事のように嬉しい。無事に授かるよう、お祈りに通うことにした。赤ちゃんの為にも、栄養を取って頂きたい。もう少し癇癪が減るといいのだけれど。以前よりも多めにジェファーソン院長に来て頂けるよう、セオドアに頼まなくちゃ〉


ああ、この頃にはモリー夫人もセオドア・ブエノ氏と関係が有った様だ。

しかし、ジェファーソンというのは? オーガスト・ジェファーソンの親だろうか?

時系列からして前の院長と思われるが、ソレルは前院長は「院長職をオギーに押し付けて消えた」と言っていた。

我が子に譲るというのなら、この表現には違和感を覚える。

単にこの辺りではよく有る苗字なのだろうか……?


〈5月21日 エルバ様の赤ちゃんが生まれた。元気な男の子とのこと。なんて素晴らしい日なんでしょう。お祝いをしなくては!〉


〈5月30日 病院からエルバ様が戻って来られた。産後の体調があまり芳しくない様で心配していたが、母子共にお元気そう。家に帰れてほっとしたのか、お食事もよく召し上がられ、リラックスしたご様子。ダグラス様に赤ちゃんのお世話を頼まれた。誠心誠意努めようと思う。ソレル坊ちゃんは笑顔がとても愛らしい。お母様とは違うことに少しほっとしてしまった私は罪深いだろうか〉


〈6月13日 エルバ様の癇癪がひどい。赤ちゃんの泣き声が癪に障る様だ。しかし、居なくなると不安になる様なので、離すに離せない。母親なんだもの、当然だ。私が辛抱して、赤ちゃんを守らないと。セオドアには悪いけれど、しばらく泊り込もうと思う〉


〈8月8日 ダグラス様が赤ちゃんを拾ってきた。門の辺りに居たというから、エルバ様がソレル坊ちゃんを捨ててしまったのかと仰天したら、全く違う赤毛の男の子だった。最近は捨て子も減ったのに、こんな可愛い子を捨てるなんて。それに引き換え、ダグラス様はこの子も育てると仰って、オーガストと名付けられた。なんて慈悲深いのでしょう。二人に増えた分は大変だけれど、今のクランツ家は使用人も大勢雇われている。ダグラス様が居れば、きっと大丈夫〉


この赤ん坊がオーガスト・ジェファーソンか。

八月に拾ったからオーガストとは、シンパシーを覚える安直な名だ。

それにしても、教会や病院ではなく、理事長の家に捨てるとは、目の付け所が鋭い親だ。調査会社BLENDに赤ん坊を捨てた親に見習わせたい。

余計なことを考えてから、ニムは顎を撫でた。

わざわざ、ジェファーソン姓にしたのは何故なのだろう? 孤児にせず、育てようと思ったからにはクランツ家は潤っていたと推測できるが、それならそのまま兄弟になっても良さそうだが……相続などのトラブル回避か?

それとも、優秀さを見込まれてジェファーソン医師が後で養子にしたのか……?

残念ながらその答えは無く、二人の赤ん坊は仲良く育った。

エルバの不安定さが陰りを落とすものの、二人の少年がモリー夫人にとって宝だったのは間違いない。書かれている通りなら、実質、彼女が二人の親といっても過言ではあるまい。ソレルは本人に聞いた通り彼女を慕っていたし、日記の中ではオーガストも彼女に懐いていた様だ。

目覚めて挨拶し、一緒に食事をし、手を繋いで歩き、楽しいこと、大変なこと、涙と感謝とおめでとうを共有する――少なくとも、彼らは家族だった。

次第に、モリーはエルバの癇癪や騒動には触れなくなり、二人の少年について仔細に書き始める。内容は微笑ましく、彼女が心を砕いていたのがよくわかった。

苦手な食べ物を押し付け合ったこと。

真剣な顔で何かしていると思ったらイタズラを企てていたこと。

初めて二人が掴み合いの喧嘩をしたこと。

学校に通う様子、海で遊ぶ様子、モリー夫人の誕生日に二人で手作りのプレゼントを贈ってくれたこと――そして、二人の誕生から、十年が経過したとき。


〈1月19日 エルバ様が亡くなった。悲しい。神はなんと無慈悲なのか。悲しいなどという言葉では足りない。こんなひどいことが起きるなんて。一体誰が、彼女にこんな運命を強いたのか。私も、もっと何か出来たのでは。エルバ様の手の届く所に、もう割れ物は置かない様にしていたのに。どうしてこんなことに。ジェファーソン医師も何度も往診に来てくれたのに、どうして。ソレル坊ちゃんがご自分を責めている。かわいそうでならない。せめて、残された坊ちゃんを立派にお育てしよう〉


激しい動揺が窺える文は、ペトラが見たら確証を得るだろう記述だ。

精神障害者に殺されたとされているエルバ・クランツだが、この日記では殺害に触れていない。モリー夫人が慈悲深い人柄だとしても、赤子の頃から面倒を見て来た娘のような女性の死が殺人である場合、悲しみに怒りが足されて然るべきだ。

しかし、此処では居る筈の殺人犯ではなく、自らの過失を気にしている。

ソレルが自身を責めているという表現も妙だ。

母親が殺されて憤るのではなく、自分を責める――それはつまり。

ニムは急に暗く沈んで見えるページを捲った。


〈1月21日 エルバ様の葬儀が営まれた。身内や親しい人だけの慎ましやかな式だった。ダグラス様は毅然となさっていたけれど、マルガリータ様は泣き続けていた。ソレル坊ちゃんも憔悴している。オーガストがずっと一緒に居てくれた。優しい子に育って誇らしい。あの日、この子を拾ったダグラス様の選択は正しかった。きっと、これからも〉


〈3月1日 ダグラス様が、新たな制度に着手なさった。セオドアは不安を感じていたけれど、私はダグラス様を信じよう。オーガストが医師になる決意をしたと教えてくれた。彼が勉強の為に旅立つ前に、私も悲しみから立ち直らなくては。ソレル坊ちゃんも、大好きな海に行かずに勉強に励んでいる。少し無理をなさっているようで気掛かり。何か好きなものを作って差し上げよう〉


〈5月1日 今日から、新しいモンス・マレが始まる。初めてお屋敷に来た日と同じ日になったのは感慨深い。ダグラス様に頂いた銀のプレートを首にかけると身が引き締まった。ソレル坊ちゃんとオーガストに金のプレートをかけた。ああ、エルバ様や、路傍に居た子供たちにもこれがあったなら。これからは、子供が、正しく健やかに大人になれる国になりますように〉


 此処で、日記は途切れていた。

書く時間が無かったか、既に亡くなっているモリー夫人の体調が思わしくなかったか。或いは子供たちの手が離れ始めて、書く気が無くなったか。

仕事に真面目な彼女はROMOロモを飲んでいないことを祈るばかりだが……

ニムはノートを閉じ、椅子にもたれて溜息を吐いた。

机の裏にノートを戻し、立ち上がる頃には、外は真っ暗闇だ。

窓が付いているのは海の方なので、さしもの視力もホテルから九番街を見上げることはできない。

……あちらは上手くいっただろうか。ペトラやブラックが居れば心配は要るまいが。

物思いにふけるような顔で、フロントに電話を掛けた。

「あ、先程はどうも……いいえ、あの――オーナーにお取次ぎ願えませんか。少しだけ、お話ししたいことがあるのですが」

返事を待つ最中、海の音がやけに響く気がした。

見えない暗闇で、大勢の何者かがさざめいているようにも聴こえた。




 ニムが日記を読んでいる頃。

黒服の麗しい男女と小柄な少年に美青年という珍妙な一行は、九番街を歩いていた。柔らかな光の街灯が照らすそこは、モンス・マレの高級住宅街である。他地方のように大きな庭を構えた家は無いが、ひしめき合う屋敷は趣向を凝らしたバルコニーや、そこに吊るした花々、植物を模したレリーフなどに彩られた窓や門の装飾が美しい。住宅以外の施設がほぼ無い九番街は、帰路に就く人々ぐらいしか歩いている者は居ない上、波音も聴こえないので静かだった。

住んでいた界隈を懐かしさと鬱陶しさの両方で眺めていた琥珀色の眼を、心配そうな茶色の視線が仰いだ。

「ソレル、お腹は大丈夫?」

ベック少年の不安げな声に、隣を歩く青年はむっつりと頷いた。

先をつかつかと行く喪服の麗人は、こちらが付いて行って当然とばかりに振り向きもせず、歩調も緩めない。後ろには、ゆったり歩いて来る黒服の長躯が居る。

今さらながら、こちらを釣る為にあの作家が使われた理由がまざまざとわかった。

この二人は、見るからにプロだ。隠しようもないカリスマ性と、隠しようもない異常性を黒に包んで歩いている。いっそ、普通の格好をすればいいのにと思ったが、女の方は何故か上手く想像できなかった。男の方は、何を着ても同じである気もする一方、白など着たら尚のこと胡散臭い。

そんなことを考えていたら、麗人が立ち止まった。

「……どうしたよ、美人さん。俺の家はすぐそこだぜ」

怠そうに言った青年を、振り向いた視線が射貫いた。

「ペトラ・ショーレと名乗った筈よ、ソレル・クランツ」

呼び方を改めろという指摘に肩をすくめると、後ろを歩いていた男が隣に来た。

「どうした、レディ?」

「――”予定”が”変化”した。ブラック、理事長を保護」

妙なことを呟いた女に対し、男は持っていた大きなバッグを静かに下ろし、すっと持ち上がった指の指す方に疾走した。瞬く間に建物の合間に消えた男を見て、ソレルとベックが顔を見合わせる。周囲では何の声や物音もしていない。

一体、この女は何を言って――……

女が指を下ろし、振り向いた。ソレルが訊ねようとした時だった。

ダン!ダン!ダン!と重い破裂音が連続した。仰天したベックがソレルに抱きつく。ガラスが割れるような激しい音が響き、静寂を破られた家々のざわめきが広がっていく。

「走りなさい」

否を許さぬ口調で走り出した麗人に、二人は慌てて従った。

「お、おい……荷物はいいのか⁉」

「今はいい」

立派な家々の中でも洗練された門扉の手前、中途半端に開いたそこに、出て行った際の感傷を抱く間もない――素早い女はするりと侵入すると、電話を手に立ち尽くして震えていた使用人には目もくれずにまっしぐらに執務室を目指した。

代わりに、何か喘ぐ使用人に、ソレルは詰め寄った。

「ハンス! 何が有った……⁉」

「ぼ、坊ちゃん……! ああ、い、いま……急に男が入って来て……だ、旦那様を……!」

皆まで聞かずに、ソレルは執務室に飛び込んだ。

そこは、一目瞭然の襲撃現場だった。顔半分に血飛沫を散らし、グレーのスーツをどす黒く染め、肩を押さえた男が居た。その前には苦悶の表情で主人を気遣う家令のロルフと片膝付いた麗人――床に転がった拳銃を挟んだ反対側では、床で呻いている男と、それを押さえつけている黒服の男。

この状況下でもぞっとするような笑みを湛えた低い声が言った。

「すまん、レディ。一歩遅かった」

女は軽くかぶりを振り、ブラックに押さえつけられている包帯だらけの男を睨んだ。

「そいつは誰?」

「ジョン・ノックスだ」

「ああ、そうだったわね……」

される前から怪我をしていたらしい男を冷たい目で見つめ、女は言った。

「方針を変えたか、ゴミ共」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る