14.仕掛け

 「俺を釣ったって……俺なんかの何を知りたいんだよ?」

引きつった笑顔で呻いたソレルに、ニムはあくまで穏やかな緑眼を向けてから、緊張した面持ちの少年を振り返った。

「ベック君、ちょっと外してもらっていいかな。レディと一緒に居てくれ」

空気を察した少年が、二人の青年を交互に見てから頷き、そっと出て行った。

作家は少年が座っていた椅子に腰かけ、自分のカップを脇に置いた。

「ソレル、僕たちがランチを取っていた時、うちの武闘派が離島に行っていたんだ」

「……知ってるよ。色男サンが水に落ちたら困るって言ってたろ」

どこか不貞腐れた表情でそっぽを向く男に、ニムは苦笑した。

「君を此処に運んでくれたのも、ブラックだよ」

「そりゃどうも……ミリーにどんな風に抱えられたか話してやれないのが残念だ」

口の減らない男は、疲れた溜息を吐き出した。何を聞かれるか気付いている顔は徹夜明けの気怠さに似ていた。

「まさか、離島に遊びに行ったわけじゃないよな」

「もちろん。表向きはマダム・クラヴィスの別荘だね」

「よく生きて帰れたもんだ……俺は入る前に諦めたってのに」

「いやあ、僕も信じられない。あの二人がとんでもないのは知ってるけど、銃を持った警備相手に正面突破だったようだから」

夜間に山岳を抜けて別荘側に侵入、夜のうちに護衛を全員密かに倒して縛り上げ、何食わぬ顔でチャイムを押して別荘のスタッフを強襲――どう説明しても只の力技だ。

「君が侵入を試みたのは、薬物の製造事実を掴む為かい?」

「……若しくは、さっきあんたがメシ食いながら疑問視してた話の証拠」

「現行システムが施行される直前に何が有ったか、だね」

「ブラックたちは、見つけて来たのか」

「手掛かりだけ。裏付けるには、この病院に来る必要があった。ジェファーソン医師にも関係有る話だしね」

「……オギーは関係ない」

そうは言ったが、表情は刑を前に神妙にするそれだ。

「ソレル、その秘密はきっと……ジェファーソン医師も知っているんじゃないかな?」

「……」

「君にとって、辛い記憶なのはわかる。でも、その”真実”は、理事長とマダム・クラヴィスの説得に必要だ。だからレディは、僕を囮に釣りをした」

どっと疲れた溜息を吐き出して、ソレルは顔を伏せたまま首を振った。

「さすが……世界レベルの調査会社ってわけか……」

「それは褒められているのかな?」

苦笑と共に肩をすくめると、ニムはお茶を飲んだ。その様子を恨めしそうな視線が眺めた。――恐らく、二度目の編集者からの電話というやつは仲間の電話だろう。一度目の前で慌てられた手前、二度目は同じ反応で誤魔化された。いや、普段からあんな具合に焦っていればこその自然な演技だろうか?

「あんたも大した役者だよ、先生」

「いやいや、演技なんて僕にはできないさ。君に警戒されない様に気を付けていただけだよ。ブラックが相手じゃ、勘繰るだろ?」

「そりゃ……あの色男サンじゃあ、俺は警戒どころか寄り付かない」

「君が女性なら、彼に頼んだけどね」

違いない、と意図せず笑ってしまう。全くタチの悪いコンビだ。

「あんたらは俺に関する”真相”をダシに、親父とマダムを脅迫するつもりか?」

「うーん……実を言うと、僕は今、脅迫しない為に君と話をしてるんだ」

「……は?」

「『果樹園フルーツ・パーク』を追い出して、この国を変える為には、君のお父さんとマダム・クラヴィス――そして、ジェファーソン医師の協力が要る。脅迫は手っ取り早い方法だし、通用するだろうけど……本来、その国の問題はその国に暮らす人が解決するべきなんだ。前にも言った通り、僕らは警察じゃあないし、世直しが趣味の正義の味方ってわけでもない。此処のシステムに関しては、施行の内容がわかれば、いつもなら調査はオシマイ。その発祥や運用に不審な点――真相があると更に調べるが、そこに罪に問われるようなことが有っても、当事者を逮捕しようなんて意識も権限も無いから、然るべき場所に情報を渡して撤収だ。――でも、僕は教会の墓地で、君の本当の気持ちを聞いたつもりだ。だから君やベック君の助けになりたくなった」

森が見つめる。深いが、穏やかな森だ。これが演技なら、もう誰一人信じられなくなるだろう。

「『果樹園』に関しては、レディは完膚なきまでに叩き潰すと思う。彼らが居なくなった時、新たな悪党を居座らせない為には、此処の人達の意識を変えないと。その為には、君の力が要る筈だ」

のろのろと両手を組み合わせた青年は、何処か痛むような顔で俯いた。

脳裏に、床に広がる金の髪がちらついた。

「……説得の為に、この町で起きたことを検証しようってか?」

「そうだよ。だってこれは、君の説得でもあるんだから」

「何だって?……俺にわかるように説明してくれ」

「『果樹園』にしろ、他の悪党にしろ、このシステムが継続される以上、連中が次に狙うのは君だからさ、ソレル」

犯罪を言い当てられたような顔をする青年を、作家は静かな目で見返した。

「理事長の息子である君は、次代の契約相手だ。彼らはこの自治区に居座る為の書類にサインを求める筈。君が家を出て、『その他』の界隈をうろついていたのはそこから逃げる為でもあるんだろう? ただ逃げるだけなら国外逃亡すればいいけれど、優しい君は自分の代わりにサインを迫られる人物が誰なのかを知っていて、それは防ぎたいけれど、自分も書く他、道が無い……だから一人で打開策を探していた」

「……あんたら、一体何処まで掴んだんだ。カマかけられて吐くのは御免だぞ」

「君の出自や、システムが実行された経緯なんかはそれなりに。僕はスカでも、他のスタッフは優秀だ」

「……酒が飲みたくなってきた」

うんざりと呟いてカップを呷る姿を眺め、ニムは静かに言葉を続けた。

「君の飲み癖は、誰かと似ているそうだね」

ソレルは威嚇するようにカップを机に叩き付けた。

「俺が首を絞めたくならないように離れてくれないか、先生」

「それは後ろ暗いことがあるのを白状するのと同じじゃないかな」

言葉よりも遥かにのんびりと言う作家を、剣呑な琥珀色が射抜いた。森は動じることなく、静かな光を湛えて見つめ返す。

「エルバ・クランツさんは、本当はどうなったの?」

「俺を怒らせたいのか、協力したいのか、どっちなんだ?」

「ソレル、虚勢や嘘は見破られたとき、とても弱いんだよ」

「だから何だ?」

「正義でも悪でも、弱いものは負ける。君は君が逃げているものと向き合わないと、また同じ日々を過ごすことになる。悶々と『その他』の人々を眺めるのと、勇気を出して戦うのと、どちらを取るかだ。――彼女の死に関わるのは、マダム・クラヴィスなのか?」

「違う! 根拠の無い事を言うな!」

「根拠は有るさ。マダム・クラヴィスは美男を傍に置くのに、君を魅力的な男性として気にも留めない……にも関わらず、君の近況について知っていたし、君もマダムがパステル・デ・ナタが好きだと知っていた。更に、君のお母さんの話が出た際、とても気まずい空気が流れた。これはマダムか君が、エルバ・クランツの死に関わっていると感じるけど? もし、”そういうこと”なら、マダムが君の素行に苦言を呈する理由も頷ける」

「フン、先生にしちゃあ俗なストーリーじゃないか? 母さんは、精神障害を持つ男に殺された。マダムは関係ない!」

「そうかい。じゃあ、原因は君かな?」

「俺は――……!」

激高した青年が言い掛けたとき、ドアがバン!と勢いよく開かれた。

出鼻を挫かれた青年が瞠目した先に居たのは、喪服の麗人だった。後ろには、軍隊のような気を付けで立つベックも居た。振り向いたニムが盗みを見つかった泥棒のような顔をして、見るからに狼狽えた。

「ど、どうしたんだ、レディ……?」

「遅い。早くそいつを連れて行くわよ」

顎をしゃくられたソレルが蛇に睨まれる蛙の心地を体験する中、ニムは慌てたように腰を浮かせた。

「えっと、レディ……一応、彼は怪我人なんだし――……」

「動けないのなら車椅子に叩き付けなさい」

車椅子が拷問器具に聴こえるような冷たい声に、ニムは無罪を主張するように身振りを加えて訴えた。

「急ぐのはわかるけど、彼にとってはデリケートなことじゃないか。自分の出自に関わる事なんだし――」

「ニム――複雑な家庭環境に情が湧くのは仕方がないけれど、私はあんたに彼の友達になれとは言っていない」

「……わかるさ、わかるとも、レディ。でも、それは僕とブラックの時も同じだ。友情は相手を知った時から始まるんだよ。彼がどう思っても、僕は道々に聞いて来た彼の気持ちをないがしろにしたくはない」

他人の為に蛇に立ち向かう蛙の言葉に、ソレルは信じ難いものを見る目をした。

――これも演技なのか? いや……上司に逆らって、こいつに何の得がある?

現に、上司たる女の灰色の視線は、目の前の作家を切り殺してやろうかという目だ。

「……高尚さは認めましょう」

「じゃあ――」

「本作戦から、あんたは外すわ。とっとと荷物を纏めてロンドンに帰りなさい」

にべもない返事に、喉に刃物を突き付けられているような顔のニムは、悔し気な表情をしたが、女の威圧感たるや、魔王と言い間違えるのも頷ける。言い様の無いプレッシャーに、怒りを爆発させんとしていたソレルさえ押し黙り、成り行きを見守るしかない。ニムはしばし女の視線に耐えていたが、やがて肩を落として首を振った。

「……わかった。君が言うことに僕が逆らっても無駄だ。でも、ロンドンには帰らないよ。此処から僕は自腹で旅行を楽しむことにする」

「好きにすれば。これまでの報告書の提出は忘れない様に」

「はいはい、わかったよ」

ニムはカップを盆に置くと、何も思い残すことは無い様子で扉に向かった。ベックが不安げな眼差しを向けると、彼は小さな肩を叩いて微笑み返した。

「ベック君、そんな顔しなくていいんだよ。レディはそれはもう恐ろしい地獄の使いだけれど、英国きっての才女だ。僕よりずっと、君の助けになる」

女がじろりと作家を睨むが、既にその辣腕ぶりは拝んでいる為、少年は大人しく頷いた。ソレルはベッドの上から立ち去る背を睨んでいたが、ニムは振り返らず、何も言わずに出て行った。




 病室を出たニムは、ちょうど廊下を歩いて来た黒服の人物を見上げた。

「ブラック」

「先生。ソレルは?」

深く胸に迫るオークモスを漂わせながら、病院中の女性を射止めていきそうな顔を見上げ、ニムは頷いた。

「大丈夫、さっき気が付いた。君は仕事が終わったところかい?」

「ああ。町の方は警察に頼んだ。レディの予想通りなら、これで全部の筈だが」

彼が片手に持っているのは、随分とマチの多い、大きめの四角いバッグだ。

何気なく中を覗くニムが、おやと首を傾げる。中に何ケースも詰まっていたのは、『プレゼント・アマレッロ』のパステル・デ・ナタの六個入りの箱だ。

「……ブラック、これは~……いいのかなあ……」

嫌そうな顔になるニムに、ブラックは気にした風もなく頷いた。

「ちょうどいい箱だと思ったから買って来たんだ。六つに仕切られていて入れやすく、数も把握しやすい」

「まさか、全部食べたの?」

「まさか。此処に入院中の子供に配って貰った」

一部の住民には、ブレンド社は菓子を配り歩くのが趣味だと思われそうだが、まあ悪いことではない。

「うーん……此処に食いしん坊が殺到するか、大地震が起きないか――いや、何より君が転ばないのを祈る」

怯えた目で身を引いたニムに笑い掛け、ブラックは病室を見た。

「レディは中か?」

「中に居るよ。僕は例の件で逆らって追い出された。おかげで自由の身だ」

「先生らしい」

どこか呆れたようにブラックは微笑んだ。

「彼女に会いに行くつもりか?」

「うん。本当はジェファーソン医師とも話したいんだけど、難しそうだから。理事長との対談も、僕は同席させてもらえそうにないしねえ」

「止めないが、気を付けてくれ。俺が走って来るのは期待しないでほしい」

「わかっているとも。いつもいつも君の助けを期待しちゃあ、申し訳ないもの」

「そのつもりで、無茶を控えてくれるといいんだが」

肩をすくめたブラックは苦笑混じりに言うと、女性ならドキリとするだろう仕草で屈み、そっと耳打ちした。

「……先生、部屋に戻ったら、テーブルの裏を確認してくれ」

「わ、わかった……」

すっと離れる良い香りと低い声にぞわぞわしながら答えた作家に笑い掛け、ブラックは部屋をノックした。

「ブラック、二人を頼んだよ」

「任せてくれ」

頼もしい友人に手を振り、ニムは散歩でもするような足取りで病院を出た。

周囲は以前来た時と何も変わらない。診察を受けに来る者、診察を終えて帰宅する者、その首には金と銀。見当たらない木製プレートを探しつつ、八番街に続く道を見た。そちらに行く者も、帰る者も居ない。

皆、ケーブルカーと坂道が続く方へと、そぞろに歩いて行く。

背後にそびえる白く巨大な病院を振り返り、ニムは首を捻った。

此処は、十番街。モンス・マレで最も高い場所であり、病院以外の建物は無い。その周辺には山岳らしき山肌と木々が茂っているが、人工物は見当たらない。

――はて……それでは、”アレ”は何処にあるのだろう?

きょろきょろと周囲を見渡し、腕組みをした後、病院から出て来た大人しそうな初老の男にそっと声を掛けた。

「失礼、ちょっとお尋ねしたいのですが」

「はい、何でしょう?」

男はニムの首に掛かった銀のプレートを確認し、愛想よく返事をした。

「僕は旅行者なんですが……この町には港以外に、山側から隣国の駅に向かうルートが有ると伺ったのですが、それはどの辺りに有るのでしょうか?」

「おや、旅の……そうですか」

やや戸惑った表情をしたものの、男は声を潜めて言った。

「悪いことは言いません。あちらには行かない方が良い」

そう言った男の視線が、病院施設の傍ら――鬱蒼と木々が茂る辺りに向いたのを、ニムはさりげなく見た。

「それはまた、どうしてですか?」

「私も通ったことはありませんが……昔から、ならず者が出るひどい道として、町の者は寄り付きません。ふもとの駅まで辿り着くには山道やトンネルを抜けながら何時間も掛かると聞きますし、着いたところで駅に電車が来るとは限りません。これから暗くなる時間には、やめておいた方が身の為です」

「なるほど、確かに暗い山道は骨が折れそうだ。それにしても、何も知らずに向こうから来てしまったら、何処かで迷ってしまいそうですねえ」

眉をひそめながらも呑気な青年に、男は頷いた。

「そうならないように、駅の方でも呼び掛けていると聞いたことが有ります。あんなところで道に迷っては、誰も探しに来ないでしょうから」

「全くですね。お伺いして良かった。ご親切にありがとうございます」

素直に諦めた青年に、男はほっとした様子で「良い旅を」と去って行った。

笑顔で彼を見送ると、ニムはもう一度、木々が茂る方を振り返った。異常視覚でも、自覚しなければわからない――葉や伸び放題の草の向こう、山肌に開いた穴が少し見えた。しかし、その周囲に踏まれた跡は見えず、此処を通るにはだいぶ草木を掻き分け、鋭い枝葉で痛い思いをせねばならないのがわかった。

思案顔で眺めた後、人々と同じ方へと歩き出した。

通りに悪党が見えるかと思ったが、そこは敏腕エージェントが短時間で手懐けた警察が闊歩し、『果樹園』の関係者は見当たらない。或いは警察の中に居るのかもしれないが、彼らがこちらを注視する感はなかった。

こっちを見ている人物に気を付けながら、下るだけの黄色いケーブルカーに乗り込んだ。高い位置から眺望する街並みは、うっすらと夕陽に染まりつつある。

ふと、窓から見える人に木製プレートを見掛けた。しかし、橙色の夕陽が照らすそれは、金も銀も木製も、すべて同じ光に眩しく輝いていた。




 あけに染まり始めた九番街は、静かだった。

瀟洒しょうしゃな屋敷が立ち並ぶ中、際立って大きな建物はかつての院長が住んでいた家だ。崖にはめ込まれたような町の性質上、他所で見るような広い庭やプールは無いが、城を思わす石造りに、立派な門扉や飾り柱、バルコニーが備えられている。隣のクランツ家の屋敷がシンプルである分、より豪勢に見えるそれは、今は人の気配もなく、門には鎖と錠前が掛けられていた。

だが、歴史資料のようにひっそりとしているそれの勝手口――以前はメイドなどが使っていたのだろう屋敷の側面にある小さな扉は、今も使用されていた。

ちょうど今も、一人の男がクランツ家に面した側面にある扉をくぐり、中へと入って行った。銀色のプレートを首にした男は一見、普通の『大人』だが、よく見るとその人相はあまり好ましくない。どこか焦った顔で、使われぬまま埃を被った豪華な家具の合間を抜け、更に奥の扉を開けた。

十番街の崖の手前に立つこの屋敷が、十番街からは通じていない山の反対側――ちょうど、病院の真下を通った先の屋敷に繋がるなど、今は悪党しか知らない。通路を抜け、アンティークめいた旧いエレベーターを上がると、そこが病院の真下の通路だ。病院へと抜けられるドアも有ったが、男はそこを素通りし、更に奥へと向かった。

次にドアをくぐった時、そこは山肌に在るとは思えない屋敷だった。

幾つもの木々に覆われ、病院の裏手からも、麓の駅からもその姿は見えない。

男が見張りの立つ玄関口を抜け、良い雰囲気の家具が取り揃えられたリビングに立ち入ると、豪奢な金髪の女がソファーに腰かけていた。

室内には、トントントントンと何かを小突く音がする。それは、女が萌黄色の爪先で木の肘掛けを叩く音だった。顔の左半分を包帯で覆った痛々しい容貌は、地獄から這い出たような怒りに染まっている。

トントントントントントンと神経質な音が続く中、男は生唾呑んで声を搾り出した。

「マ……マスカット、例の『子供』の家だが……もぬけの空だった」

女が片目を跳ね上げた。男は萎縮しつつも言葉を継ごうとしたが、投げつけられたウイスキーグラスを避けるのに精一杯だった。それが氷と中身をぶちまけながらカーペットを転がると、女は肘掛けが割れんばかりに拳を打ち付けた。

「クソ……ッ! 相変わらず手が早い女だ……!」

ぎりぎりと歯軋りが聴こえそうな声を立てると、痛むらしい顔を歪め、また苛立たしげに爪先をトントンやり始める。猛獣の檻の中に居るような顔でグラスを片付ける部下を見つつ、報告に来た男は遠慮がちに女を見た。

「な、なあマスカット……此処はもうヤバいんじゃないか? 一時的にでも、撤収した方が……」

大変、賢明且つ勇気ある一言だったが、女の視線はぎらりと閃いた。

「ボスになんて言うのよ? 私に恥を搔かせるつもり?」

「そういうわけじゃない……ブレンド社は離島にも病院にも入ったんだ……! もう静観できないだろ……! このまま此処に居たって……」

「たかが三人に何をビビッてるんだてめえは‼」

屋敷が揺れんばかりの怒鳴り声だが、男はどうにか踏み止まった。確かに三人は間違いないし、その内の一人は恐るるに足らないが、他の二人は規格外だ。

最近、別の場所でブレンド社とやり合った幹部のチェリーは、部下を殆ど捕らえられ、本人も全治三カ月は掛かる怪我を負わされた。一度でもあの喪服の麗人に目を付けられると、爆撃を食らうような目に遭わされるのは、もはや『果樹園フルーツ・パーク』の通例である。

「臆病でも何でも良い……此処で全部がパアになるよりは、今有るもんを持って逃げる方が被害が少なくて済むだろう?」

「……逃げたけりゃ逃げればいいわよ。すっぱりクビにしてあげるわ、フィデル。ボスに泣きついたりしたら殺すように言っておくから」

「……マスカット……勘弁してくれよ……俺たちがあのバケモノ共とまともに戦えると思うのか? あんたも愛用の銃を取られちまったんだろ?」

女が舌打ちして脇を向くが、武装は有る。同じようなグループとやり合っても負ける気はしないし、腕に自信が有るのは、本当は男であるマスカットだけではない。問題なのは、そうした血気盛んな連中が駆り立てられて、手が付けられない騒ぎを起こした時だ。

この町は『果樹園』が巣食う中でも極めて特殊である。

狭い社会、独自のルールは悪党にとって住みやすくも有る一方、部下の落ち度で『子供』ひとり死んだら――町を揺るがす暴動になるだろう、徹底した統治が有る。

特に危険なのはROMOロモだ。

この薬物は味方ならば頼もしいが、敵になればおぞましい。現在まで、自治権を理事会が握っているのは、なべてこの薬物の存在が大きい。理事会だけが、病院を操作し、ROMOを有用できるからだ。この薬物が存在しないのなら、とっくに自治権は『果樹園』が奪い取り、もっとやりやすい体制に変えている。

「理事会はブレンド社が後ろに付いたら裏切るぞ。あの理事長……元々、腹に一物有りそうじゃないか」

「わかってるわよ。あんたがぐちゃぐちゃ言うから、興が削がれた」

女が幾らか冷静になってきたことにほっとした男は、刺激しないようにグラスにウイスキーを入れ直し、萌黄色の爪の手前にそっと置いた。

「マスカット、我々は誇り高き『果樹園』だ。ボスだって、あんたがこんな所でくたばるのは望んじゃいない」

使い方次第では効果てきめんの言葉に、マスカットは唇を尖らせた。

「……私がおめおめ逃げ帰るのだって、望んじゃいないと思うけど」

「チェリーの二の舞よりマシだ。いや、案外……あの理事会がブレンド社と事を構えるパターンも有るかもしれない。或いは資金援助が切れて病院の医師共が騒ぐか……奴らが泣きついてきたら、手を貸せばいい。あんたはそのぐらい、此処を上手くコントロールしていたろ」

「……医師共、ねえ……」

グラスの中――琥珀色の酒を回しながら、マスカットは呟いた。

もう一押しか、と部下が口を開く前に、女は思いついた様に言った。

「フィデル、病院に詰めている奴を呼んで」

「え? あ、ああ……」

脱出する際に薬物を集める気か。幾らか安堵しながら電話をかけた男が、病院に潜んでいるスパイを呼び出すと、マスカットへと電話を渡した。

「――そう、やっぱりお優しい先生はお坊ちゃんを病院に運んだのね。フン、喪服女もブラックも一緒か……いいわ、移動したら報せなさい。尾行はしなくていい。どうせバレる。それより、奴らを見送ったら調べてほしいことがあるのよ」

指示をしてから、女は思い出した様に付け加えた。

「それから、病院にジョンが居るでしょ? あいつを叩き起こして、Dを襲うよう指示なさい。断ったらROMOを与えなさい。いいわね?」

恐ろしいセリフを難なく言って電話を切ると、微かに笑みを浮かべた。

部下は緊張気味にその顔を見つめる。

「奴らは今、病院に?」

「そ。……あの喪服女、お坊ちゃんを連れて理事長の所に行く気ね。どうせ、ROMOやFIBOフィボの使用を摘発して、こっちと手を切る様に強要する気でしょ。理事長は裏切るかもしれないけれど……お坊ちゃんはどうかしら?」

「お坊ちゃんって……ソレル・クランツだろ? 奴は俺たちを嫌ってる。あの女に従って、父親を説得するんじゃないか?」

「確かに、”あっちの”お坊ちゃんには寄生虫って言われたわね。でも、別に愛される必要はないじゃない。私たちは、イイ人ヅラしたブレンド社とは違う。ついでにあのお坊ちゃんは、父親も嫌っている。私たちの所為かと思っていたけれど――どうもそれだけじゃない様なのよねえ」

「ソレル・クランツに……強請れるだけのネタがあるってか?」

「無いなら作るけど、ああやって虚勢を張るガキは大体、後ろ暗いことがあるもんよ。こっちの予想がアタリなら、ジェファーソン医師も言うことを聞く」

嫌な予感が胸を占め、部下は溜息混じりに訊ねた。

「マスカット、その様子じゃ……撤退する気は無さそうだな」

「あんたがそこまで言うなら準備はしておきましょ。私は奴らに一泡吹かせてから里帰りしたいの」

「だが、ソレルを狙おうにも……バケモノ二人が付いてるんだろ?」

「いくらバケモノでも、どっちも体は一つよ。地の利はこちらにあるんだし、イイ人ヅラした連中の弱いトコを突けばいい」

電話を突き返し、女はルージュを獰猛に歪めた。

「私も行ってくるわ。――今度こそ、命乞いを聞いてやりたいわね」

滴る様な悪意に笑んでから、マスカットは琥珀色の酒を一息に呷った。

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