13.囮

 現われた女を前に、作家は言った。

「ばすばっぼ……!」

口に詰まったリゾットのせいで濁音まみれになった名に、当たり前だが、女は良い顔をしなかった。片手で茶色いブルネットのウィッグを摘まみ、もう一方の手で豊かな金髪を搔き上げた。

「先生に見つからないように近付くのは骨が折れるわねえ……」

言いながら、女はウィッグを投げ捨て、怯えた目のベックに目を細めた。

「ああ……さてはその子ね? 先生が見つけて下さったの。御礼申し上げなくちゃ」

この期に及んで、未だにリゾットを咀嚼しているニムが何か言う前に、立ち上がったソレルが女を睨みつけた。

「何の用だ、マスカット」

きちんと名前を言ってくれた青年に、女は肩をすくめて微笑んだ。

「久しぶりね、お坊ちゃん。あんまりお話しする間もなく出て行っちゃって寂しかったわよ」

「よく言う……この寄生虫が! この町から出て行け!」

ソレルの剣幕と只ならぬ様子を察してか、周囲の客やスタッフは既に蜘蛛の子を散らしている。女は萌黄色の爪をした手を腰にやり、首を振った。

「随分なこと言うじゃない? あたしのビジネスパーソンはあんたのパパだってのに」

「此処を売った親父なんか関係ねえよ! 出て行く気が無いなら――」

「やめろ、ソレル!」

作家の制止よりも早く、女に掴み掛かろうとした青年が、直後には腹部を殴りつけられていた。息が止まる程の衝撃に瞠目して、一撃でくず折れる。その襟首を掴むと、女はおぞましい怪力で投げ飛ばした。青年は軽々と宙を舞い、けたたましい音を立てて隣のテーブルへと叩きつけられて動かなくなった。

「顔は勘弁してあげたわよ、お坊ちゃん」

ボクサーかレスラーめいた攻撃を繰り出した女は、掃除でも終えたように萌黄色のマニキュアをした手を叩いた。

「さて、ニム先生……先日はチェリーが世話になったと聞いてるわ。銃撃戦で死なないなんて、相変わらず運が宜しいのね」

その手には、上着の下から出て来た大型拳銃――LAR グリズリーが有る。女が持つには大きすぎるそれを玩具のように弄びながら歩いて来る姿に、ニムは少年を後ろにやりながら、ようやく口を開いた。

「やあ、マスカット……僕も自分の幸運には驚いている。君のそれは拳銃だけど、チェリーが持っていたのはサブマシンガンだったからねえ」

「ホントね。アイツのしょぼい命中率は喫緊の課題だわ」

「そんなものまで持ち出して、僕はともかく――この子に何の用かな? 麻薬組織が人身売買も始めたのかい?」

天気の話でもするような調子の作家に、女は呆れ顔で黒い銃口を向けた。

「先生に話したってしょうがないわ。墓場に持っていく程の話題じゃないから気にしなくていいのよ」

妖艶な笑みで品を作る金髪美女に、ニムはリゾットを吐き戻しそうな顔をしてからニヤリと笑った。

「前から思ってたんだけどさあ、マスカット……君、この街の店で学び直した方がいいんじゃないかな? 『パラダイス・フィッシュ』の”店長”の方がよっぽど可愛らしいよ」

少年が息を呑んだ。

「ま、まさか、あの人……!」

女にしか見えないそれの正体に気付いて青ざめる少年を、”女”はじろりと睨んだ。

「人のプライバシーをバラすなんてイジワルな先生。御託はいいから、その子を渡して下さらない?」

「うん? 先に僕を撃てばいいじゃないか。君は高い命中率なんだろう? ああ、でも――それの威力は凄そうだ。この子まで貫通しちゃうか」

「頭をフッ飛ばせば済む事よ」

「へー……その選択はどうかな? 風の噂だけれどね、君らのボスは、僕の眼に興味があるって聞いたんだよなあ」

チッと女がルージュを歪めて舌打ちした。

「どうりで図に乗ってると思ったら……そんなら殺して抉り出すだけよ、お喋りちゃん」

「さすがマスカット。チェリーなら気持ち悪がるだろうに、”男”は違うねえ」

「ねえ、先生……この美貌が見えないなんて、本当に視力が宜しいの? その子は”お姉さん”が預かって差し上げるから、眼科に行ってきたら?」

苛立ちか、酷薄さを増してくる悪党の声に、少年が狼狽えた様子でニムの袖を掴む。

「彼に何の用なんだい? 理由を話してくれたら、僕の気も変わるかもしれないよ?」

「ンもう、先生には関係ないって言ってるじゃない!」

「つれないなあ……少年好みに変わったの? いくらボスに”全く”相手にされないからって、ヤケにならなくてもいいのに」

ニムが自分でもゾッとするセリフを言い終わるか終わらぬかの内に、落雷が落ちたような音が連続した。大型拳銃の弾丸が傍らのテーブルの上をぶち壊し、砕けた陶器やガラス片、他愛もなく飛び跳ねた料理とワインがばら蒔かれた。

「ガタガタうるせえなああッ!! クソザコ作家がッ!! さっさとガキを渡せ!!」

男そのもののおぞましい怒号に少年が震える身を強張らせる。作家はウッドデッキの上できらめくガラス片をちらと見ただけだ。

――こっちを撃たなかった。至近距離だが――やはり、子供に当たるとまずいのか。つまり、彼は生きている必要がある。

なぜ? データか? その在り処を聞くまでは殺せない? いや……それとも、彼らも『子供』を殺すわけにはいかないのか?

「どうやら、うっかり僕以外に当たるのは困るようだね。そんなものに頼らなくても、君は十分パワフルな『男』だろうに」

「……呆れたバカね。いいわよ先生、そんなに私に可愛がってほしいなら、お望み通り、男前にして差し上げるわ」

マジックのように拳銃を懐に仕舞うと、両の拳でおぞましい音を立てながら向かってきた。

「せ、先生……逃げないと!」

――何故、この作家は先程から怒らせるようなことばかり言うのだろう?

ベックの手と声に力が籠るが、ニムは動かずに狂暴な拳を待った。

刹那、暴君がハイヒールの足を止めてがばりと振り向いた。だが、既に遅い。ウッドデッキの柵を風のように飛び越えて来た黒い長躯が、マスカットの横っ面を勢いのまま殴り倒した。反撃しようと持ち上がった拳銃は黒いグローブに包まれた両の手が鷲掴み、捻じるように奪い取ると、興味が無さそうに作家の足元へと滑らせた。本当に女なら目を背けたくなるような一撃を浴びた顔は、みるみるうちに腫れ上がり、血の垂れた唇を悔しげに歪めて目を剥いた。

「てめえ……ブラックうぅ……ッ……‼」

猛獣が唸るような声に、黒い長躯の男は無言で薄笑いを浮かべた。無造作な黒髪の下で、黒より尚深い闇が静かに佇む。場違いに微笑んだ顔は美しいが、急に辺りが暗く冷えたようなプレッシャーを感じる。

「よくもォ……ッ……よくも私の顔をォォお……!」

轟くような地声で呻くマスカットに闇が向かい合う。ごく自然に突っ立ったまま物静かに微笑している男を見て、ベックが先程よりも緊張した面持ちでシャツを握る手に力を籠める。彼も感じ取ったようだ。この黒服の男が、とんでもなく危険なバケモノだということに。

先に動いたのはマスカットの方だった。もはや女の面は見る影もない。獰猛な怒りを満面に、突っ立った男に殴り掛かるかと思いきや、こちらに襲い掛かった。

――意地でもベックを連れて行くつもりか!

わずかに狼狽えて後退した二人に、萌黄色の爪をした手が伸ばされる。だが、その手は怯えた少年にも、彼を抱きしめた作家にも届くことはなかった。どうやら先に拳銃を拾おうとしたらしいが、自慢の金髪を万力のような手が掴み、そのまま脇へ投げ飛ばした。テーブルにぶつかり、辺りのものをめちゃめちゃにしつつも、暴漢はそう安易に気絶はしなかった。即座に足元の陶器片を拾って投げつけ、緩く躱した男に素早く間合いを詰めて殴り掛かる。手練れ同士の応酬の末、黒服の男が暴漢の腕をがっちり掴んだ。そこからみしみしと気味の悪い音がしたかと思うと、表情を苦悶に歪めたマスカットが捻じる様に己の手を引いた。無理に引き抜いた腕はだらんと垂れ、持ち上げるのも億劫のようだった。

「クソ野郎がああ……! 殺してやる……! 絶対に殺してやるからなああッッ‼」

腕を庇いながら呪詛のように唸ったが、じりじりと後退し、手負いとは思えない身軽さで街の方へ駆けていった。ヒールのカツカツとした高い音が十分に遠ざかった頃、ベックがニムの服を掴んだままへたり込んだ。

「大丈夫かい?」

訊ねた作家に俯いたまま頷いて、少年はハッと顔を上げた。

「……ソレル!」

気を失って倒れている青年に駆け寄り、不安げにその顔を覗き込む。拳銃を拾い上げたニムが向かうより早く、黒服の男がひざまずき、軽々と起こして床に寝かせた。暴漢の気遣いで彼の美貌は無事だったが、蒼白な面は苦悶に歪み、ぐったりしている。

「生きてる?」

心配そうに覗き込んだ少年に、男は頷いた。慣れた様子で首や胸、手足をチェックすると、彼はちょっと首を捻ってから、ぞっとするような色香が漂う低音で言った。

「折れていない様だが、中まではわからない。病院に運んだ方が良い」

「病院……」

禁忌を呟くような少年に、ニムは近寄った。

「大丈夫、一緒に行こう。僕らが付いてるから」

少年はきゅっと唇を結び、頼りないのに冷静な作家を仰ぎ、隣で静かに微笑している男を見て、ようやく頷いた。

「……ありがとう、お兄さん」

男は首を振り、暗闇を笑ませた。

「彼が、ベック・ランだな?」

ニムは頷いた。振り向いた先のベックは、落ち着いて来たらしい顔を作家に向けた。

「先生……この人が来るって知ってたの?」

「うーん、来ると信じていた――……と、言いたいところだけど、」

もう少しで大事な脳もろともぶちのめされるところだった作家は、苦笑いを浮かべて浜の方を指した。

「走ってくるのが見えてたんだ」

「俺が気付いたのは彼が怒鳴った時なんだが……」

苦笑する美男の言葉に、少年は驚いた顔で作家を見た。ソレルがマスカットに啖呵を切った時から――と、すると、かなりの距離が見えていたことになる。

「じゃあ、先生があの人を怒らせようとしてたのは……」

ニムは苦笑を返した。

「怒ってくれれば隙が出来るし、怒鳴ってくれれば居所がわかりやすいからね」

「無茶だ。ソレルが居なかったら、此処でのびているのは先生だった」

「嫌な事言うなあ……助かったよ、ブラック」

大袈裟な溜め息を吐き出しつつ、拳銃を手渡す作家に、彼はいつもの笑みを浮かべながら受け取った。少年は緊張した様だったが、様子を窺うような焦げ茶色の上目でニムを見た。

「先生、ソレルを病院に連れて行くのは良いけど……ステラはどうすればいい?」

ニムが『プレゼント・アマレッロ』を振り返ると、すっかり目を逸らしていたものの、まだステラはせっせと働いていた。こちらの騒ぎの所為で少々店先はざわついていたが、周囲を含めて正常に戻り始めている。と、同時に……サイレンがやけにはっきり聴こえ始めた。

「えーと、ブラック……レディはどうしたんだい?」

ニムの問い掛けに、ブラックが薄笑いで来た方を振り返った。

「アレに乗っていると思うんだが」

そう言う先に在るのは――ウッドデッキが面した道路に横付けされた警察車両だ。

その喪服の麗人は、開いたドアから関係者面で降りてくると、つかつかとやって来た。マスカットが向かって来た時よりも怯えた表情で後退るニムに、女は刺すような目を向けた。

「ニム、状況報告」

絶対に断れない注文に、ニムは目を逸らしながら言った。

「えー……っと、さあ……レディ……まず、彼を病院に――」

「喋らせた方がいいの?」

グサリと突き刺さる言葉に冷や汗が噴き出る。彼女は取調室で働いた方が成功するのではなかろうか? 睨んでくる蛇に対し、圧倒的に弱い立場の蛙は頷いた。

「わ、わかったよ。行きがけに喋るから……まず、あの黄色い店と話を付けないと」

指さす先のタルト屋を振り向きもせず、女は高圧的に言った。

「早くして」




 薄暗い屋敷の中を、人がバタバタと走り回っていた。

不安や焦燥、稀に悲しみを面に描いた人々は、使用人も居れば、白衣を着た者、警察らしき人物と様々だ。皆、息を潜めて立ち尽くす二人の少年には見向きもせず、忙しく動き回る。

「院長様がお見えに――」

誰かの声に振り向くと、上着を片手に、堂々とした体格に険しい表情をした白髪の男が歩いて来た。それほど年配ではない筈だが、白く染まった髪と金色の眼が、どことなく狼を思わせる。その金目はこちらを見たが、何も言わずに通り過ぎると、向かいからやって来た父と言葉を交わし、揃って奥に消えた。

後に続いてやって来たのはマルガリータ・クラヴィスだ。彼女は先に入って来た誰よりも慌てた様子で、いつものハイヒールではなく歩きやすいローヒールのパンプスを履き、化粧も程々に息を切らしていた。応対したメイドのマダム・モリーに出会うなり、彼女は半ば叫ぶように話し掛けた。

「ああ、モリー……! エルバは……⁉ エルバはどうなって……――」

「落ち着いて下さい、クラヴィス様。今、院長様もいらして下さいましたから……」

「あんな男が――何の役に立つの……⁉ それは良くない……良くないわ、モリー……最後に触れるのがあの男なんて絶対良くない……! 他の医者の方が……」

「クラヴィス様!」

毒が回る様に喋っていた女の両腕を掴み、モリーは強い口調で言った。

不規則な呼吸に唇を震わす女に、彼女は穏やかに、しかし凛と告げた。

「大人が動揺すると、坊ちゃん達が不安になります。どうか、お話は奥で……」

女はのろのろと首をめぐらし、すぐ近くで立ち尽くす二人の少年を見た。いつも自信に満ちているブルーの眼は波打ち際のように不安定に揺れていたが、わずかに落ち着きを取り戻したか、メイドの方を見て頷いた。

「……そうね……ごめんなさい。エルバの部屋に行ってくるわ……」

よろめくように部屋へと歩いて行く光景を前に立ち尽くしていると、メイドのマダム・モリーが蒼白な顔の中、どうにか浮かべたらしい笑みで言った。

「坊ちゃん……すぐにお茶を持っていきますから、お部屋に居て下さいまし。心細いでしょうから、オーガストも一緒に居てあげて」

隣に立っていた赤毛の少年は、自身も不安げな顔をしていたが頷いた。

「行こう、ソレル」

小さな手に小さな手を引かれて、二人の少年は騒ぎから離れた部屋へと戻った。

「ソレル、大丈夫?」

心配そうにこちらを覗き込む薄いブルーの眼に、憂鬱な琥珀色の目を持ち上げて頷いた。掛ける言葉が見当たらないらしい少年は、困った様にはにかんだ。

「……院長先生も来たんだし、きっと――」

「――オギーが居てくれて良かったよ」

親友の言葉を遮ると、すたすたと窓辺に近寄って、開け放った。

街を吹き上げてくる潮風が微かにそよぎ、細い金髪をふわりと流す。年中暖かい地方だが、今日は少し風が冷たい。あまり当たらない方が良いと思われたが、屋敷の鬱屈とした雰囲気よりはマシに思えた。

「オギー……俺、ちょっとホッとしてるんだ……」

眼下に広がる海を見つめて、少年は言った。

たぶん、今日から、ガラスはしょっちゅう割れたりしない。

頻繁にカーペットを掃除することもない。食事中に何かが飛んでくることも、急に髪を掴まれることも、昼夜問わず叫び声が聴こえてくることも、ドアや壁を力任せに叩く音も、引き裂かれた服やカーテンを買い替えることも無くなるだろう。

稀に、ごく稀に……波打ち際で笑顔と水を弾けさせていた人は、もう居ない。

「ひどいよな……俺……」

声が掠れる。風が弱い。もっと強く吹けばいいのに。

「……母さんが……あんなことになったのに……」

赤毛の少年は何も言わずに同じように窓辺に立ち、その手をそっと握った。振り向いた少年の顔は呆然としていたが、不意に涙が頬を滑った。琥珀色の目からはらはらと零れるそれを薄いブルーの双眸が見つめ、優しく微笑んだ。

「ソレル」

「オギー……俺は、俺は何もできなかったんだよ……きっと俺が悪いんだ……それなのに、何も、何も……!」

とめどなく溢れてくる嗚咽と涙ごと、赤毛の少年は金髪の少年を抱き締めた。

「大丈夫だ、ソレルはひどくなんかない。自分を責めることなんか、何も無いよ」

心の籠もった優しい言葉の前で泣いた。

――違うんだ、オギー。きっと自分が悪いんだ。

だって、母さんは。

俺の母さんは……――




 「あ! 先生、気が付いたよ!」

見上げた先で、小柄な少年が嬉しそうに声を弾ませた。清潔感のある静かな部屋の中、近付いて来たのは森を両眼に称えた男だ。

「ベック……、先生……」

いつかのようにこちらを見下ろした森は微笑んだ。

「やあ、ソレル。気分はどうだい?」

「サイアク……口から胃が出るかと思った」

「出なくて幸いだ。美味しいランチが勿体ない」

要らんことを言う作家に呆れながら、細い息を吐いた。

「マスカットは……?」

「親友が追っ払った。向こうはご自慢の顔がマスカットじゃあなくリンゴみたいに腫れていたよ」

ニムの穏やかな悪口に、ソレルはベッドの上で「見たかった」と小さく含み笑いをして、細い溜息を吐いた。

「……二人は、怪我は無かったのか?」

「僕らは何ともない。君のおかげだ」

「よしてくれよ……色男サンのおかげだろ。役に立たなくて悪かった」

「ソレル……そんなこと言わないで。自分を責めちゃダメだよ」

ベックの真剣な言葉に、ソレルは鉛でも飲んだ顔で琥珀色をゆっくり瞬かせた。

――自分を責めることなんか、何も無いよ。

「……生意気言いやがって」

少年の茶色い縮れ髪を片手でくしゃくしゃにすると、彼はくすぐったそうに笑った。

「ソレルが無事で良かった。死んじゃったかと思って心配したよ」

「……そりゃどーも……ここ、病院だよな?」

「うん。さっきジェファーソン医師も来てくれたんだ」

「……ふーん……」

生返事をする青年に、少年は小首を傾げた。

「すごく心配していたよ。目を覚ますまで居たかったみたいだけど、他の人が連れて行っちゃって……」

「……あいつは院長だからな。此処の誰より忙しいんだ……仕方ない」

もう一度、細い溜息を吐くと、ぼんやりと虚空を眺めた。何処か遠くを見る目を一瞥し、作家は持ち前の呑気な声を発した。

「――そうそう、君の診断結果だけど、お腹にショッキングな痣が出来た以外は、内臓も骨も問題ないそうだ。頑丈で素晴らしいが、飲みすぎ注意だってさ」

「オギーめ……お節介なんだよ、全く」

軽く苦笑いを浮かべた青年は、やれやれと上半身を起こした。

「何か飲むかい?」

「先生が淹れたコーヒー」

「君、僕が普段から道具を持っていると思ってないよね?」

ホテルに戻ったら淹れてあげようと請け負ってから、それも一体何処から調達したのやら、ティーポットにケトルから湯を注いでお茶を淹れた。

コポコポと小さな水音が響くのを聞く中、淡いリンゴとハーブの香りが立ち上る。

ぼんやり眺めて、再び、既視感のある光景だと思った。

キッチンでマダム・モリーの仕事を眺めていた時だとすぐにわかった。どうしてこの男と、彼女の姿が被るのだろう。鼻歌混じりにお茶を淹れるところ、丁寧だけれどゆとりのある様子、休憩をするときのほっと一息つく空気感。

――さあ、坊ちゃんもどうぞ。熱いから気を付けて下さいね。

優しい声。穏やかな言葉。あの頃、命綱のように求めた温もり。

「どうぞ」

過去を見ていた目を現実に戻すと、作家が湯気を立てるカップを差し出していた。

「……どーも……」

「どういたしまして」

にこりと笑って、少年にもカップを渡す男を眺めながら、ソレルはぼやいた。

「……そういえば、よく個室が取れたな?」

「そればっかりは君のファミリーネームの力を借りた」

即座に眉を寄せた青年にニムは苦笑した。

「仕方ないだろう? どのみち名前は名乗るんだから。治療自体は、先に待っていた緊急の方やお子さん、ご高齢の方を優先してもらったよ」

「……はあ、もう済んだ話ならいいけど……」

うんざりとカップを傾ける中、ソレルはハッとしてベックを振り返った。

「ちょっと待った、病院? じゃあ、お前――……」

「あ、うん。ちゃんと名乗り出たよ」

ポカンとしてしまった青年に頷くと、ベックは落ち着いた様子で続けた。

「此処に来る前に、ブレンド社のミズ・ショーレと相談したんだ。ジェファーソン院長の所に一緒に来てくれて、データを盗んだことを謝罪して、僕の考えも全部話したよ」

「オギーは……なんて……?」

「盗難についてはデータを返したから、公言しないことで不問にしてくれた。僕の意見は、一緒に理事長に話しに行こうって」

「あいつが……そんなこと言ったのか……?」

信じられない、という顔をする青年をニムの森のような緑眼がちらと見た。

少年は頷いて言葉を続けた。

「その代わり、此処に勤めない限りはバックヤードへは何が有っても立ち入り禁止。ステラに関しては、研究対象だって話してくれた。他にも何人か居るんだって」

「研究対象……?」

「発達障害や精神障害の脳機能を改善する為に、FIBOが役に立つかもしれないんだって」

「何だと……!」

思わず身を乗り出し、鋭く入った痛みに表情を歪めると、ニムがやれやれといった様子で近寄った。

「興奮しちゃダメだよ、ソレル。最低でも半日は大人しくしていなくちゃ」

「悠長なこと言ってる場合か! FIBOを子供に飲ませるだと……⁉ あんなものはダメだ……! あれを飲んだら――」

そこで喉につかえた様に黙った青年に、ニムは静かに言った。

「君のお母さんのようになるって?」

作家が放った一言に、琥珀色の目が信じられないものを見るように開いた。

脳裏に浮かぶ、床に広がる金髪。血飛沫広がる窓辺。風にそよぐ、ふわりとした白い服。天のその先を映す、瞬かない青い目。

「なんで……先生が、それを……」

森のような目は穏やかだ。包まれるようでもあり、うかと迷い込むほどに深い色だ。

「八番街でブラックと話した時のことを覚えているかい? 僕はエージェントには向いていないけど、その敏腕エージェントのおとりにかけちゃ、まあまあの玄人なんだ」

「ブラックと……?」

あの低い声が甦る。


――いつもの手だろう。彼女が先生で釣りをしながら投網を放るのは。


作家はあくまで囮であり、餌。

その裏で釣り竿を垂らしつつ、投網を放る上司――……

それは……おかしくはないか……?

ブラックは、釣り竿を持つ人物から、ベックを名乗ってリークしてきたのはセオドア・ブエノだとあらかじめ聞いていた。だからあの男は、『果樹園フルーツ・パーク』や薬物、行方不明の『その他』に関わる情報を集めていた……

しかも、当のベックが逃げ隠れていたのは似て非なる理由だった。

では、ニムは何のための囮だ?

『果樹園』の目を向けさせる為? それもひと役買っていそうだ。

現にマスカットは、目立つ容貌のブラックよりもニムの方を狙った。それはニムがベックを連れていたからで……彼の方が邪魔になる動きをしていたから?

いや――ニムが連れ歩いていたからこそ、悪党はベックの存在に気付いた顔だった。

危険を顧みずに注意を向けさせて……何の得がある?

囮の相手は『果樹園』じゃないのか?

この男が、モンス・マレをうろつき……呑気な顔で、食いつくのを待った相手は?

これまでずっと一緒に居た人物は?

釣ろうとしている獲物は……――

「先生……あんたは恐ろしい”囮”だ……」

顔を上げて呻いた青年に、作家は例の人畜無害な表情で微笑んだ。

「気付いたかい? 僕で釣りをするのが趣味の魔王――じゃない、レディが釣ろうとしているのは――君だよ、ソレル」

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