12.ステラ
少女は、ぼんやりと空を見ていた。スクールバッグを背負い、両足の踵を伸ばし、そのまま飛んで行きそうな姿勢で見上げている。真っ白な肌と長くふわふわした金髪、空を映す青い瞳。首には『子供』の為の金のプレートと、数珠状の首飾りを下げている。太陽か菊のような金貨の如きそれは、キラキラと光を反射した。
間もなく『大人』と呼べる年齢の容貌は愛らしいが、その目には、青い空だけが映っていた。
天使みたいだ、と誰かが言った。
少女は聞いていない。放っておいたら、いつまでもそうしていただろう。
少女にそっと声が掛けられた。
「ステラ、遅れてしまうわ。行かないと」
肩を叩いても良かったが、それが少女を必要以上に驚かせるのを知っていた為、声を掛けた少女は先に立って歩き始めた。こくりと頷いた少女は心此処に在らずと言った顔で付いていく。空を見ていた時はふわりと舞いそうに見えた足取りは、翼が折れたように緩慢だった。
「おはよう、ステラ」
「おはよう、ステラちゃん」
店先を掃いていた女や、横道から来た同級生に声を掛けられるが、少女は人形のように曖昧に頷くか、または見向きもしなかった。それを咎める者や、無理に振り向かせようとする者は居なかった。ステラ・ターナーにとって、世界は決して厳しくはなく、むしろ優しいぐらいだったが、返事をするのは難しかった。
そういう生まれだと誰かが言っていた。仕方がないと誰かが言っていた。顔が可愛くて良かったと誰かが言った。誰かが言う事に、ステラが何を考えていたのかは、誰にもわからなかったけれど。
校舎に入ると、ステラは付き添ってきた女子生徒と別れ、別のクラスに入ろうとして、しばらく躊躇した。そこに行くこと自体はわかっていたし、入ろうとも思っていたのだが、入りたくもなかった。しかし、入りたい気持ちもある。入らなくてはと駆り立てる気持ちもある。
実際に入るまでには時間が掛かった。うろうろと教室の前を彷徨い、一度は来た廊下を引き返した。やがて、他にも同じように向かう生徒を見ると、つられるように、ようやく教室に入った。一部始終を見ていた教師も居たが、生徒同士のトラブルにならない限り、助け船は出さないことになっていた。ステラは自分の席に座ってみたが、何となく落ち着かなかった。それはいつものことで、周囲の音は何となくうるさく感じるし、室内を照らす光は眩しくて鬱陶しい。彼女は間髪入れずにふわっと立ち上がったが、また程なくして座った。既に教師が黒板の前に立っていたのだが、座れと強要したり、彼女が立ち上がったことを指摘したりはしなかった。彼はいつも、教室で何かが宙を舞おうとも咎めない。
「今日は、高名な作家先生がお見えになっています。見学にいらっしゃいますが、皆さんは気にせず、いつも通り過ごして下さい」
頷くような仕草を見せた生徒もいれば、妙な声を上げた生徒も、黙って机の上を見ている生徒も、自分の持ち物を眺めるばかりの生徒もいる。
ステラは外に出たかったが、漠然と何をすべきかわかっていたので座っていた。立ち上がりたい気持ちを抱きつつ、実際は何度か立とうとしたが――授業は滞りなく進んだ。この教室では、たとえ上手くいかなくても滞ることはない。何年か前までは中断や、別室に移されることはあったが、この教室ではそういうことは無かった。
以来、ステラは何となく落ち着いている気がしていた。
突然、何かが変わるのは気持ちが悪いし、居心地も良くない。此処が青空の見える外ならば、もっと良いのだけれど。
「おや、先生……良かったらどうぞ」
促された人物が、ひょいと顔を覗かせた。
見たことのない緑色の目がこちらを見て、ステラはそわそわした。爽やかな季節に緑の葉を茂らせる木を見上げたときのような目だ。
その若い男はぺこぺこしながら入ってくると、こちらにも頭を下げた。銀のプレートを下げた首は白く、まっさらな白いシャツとラフなジーンズの姿は全体にほっそりしている。知っている『先生』とはイメージが違う。ステラの知る『先生』は何が有っても動じなくて、何を言われても、誰が騒いでも、決まった言葉と、決まった顔をする。笑顔のときも、角ばったパーツで作られたロボットみたいな感じ。
この『先生』は違う。
どこがどうとは言えないけれど、毎日見る、あのカスタードクリームみたいに柔らかそうだ。日向ぼっこしている猫みたいで、両の目の中には森があるみたいで……みたいで……それから……
「授業中にお邪魔してすみません。僕は居ないものと思って続けてください」
……前に屋根で見かけた小鳥が喋ったら、こんな感じかな?
パンくずも丁寧に断わってから食べそうな小鳥は、視界に入らない後方に移動して壁にもたれた。居るとわからぬほど静かにしていたので、居なくなった瞬間もわからなかった。
「ねえ、君、ちょっといい?」
廊下で話し掛けられたとき、ステラは自分の方が小鳥みたいだと思われていたとは知らなかった。森を目に閉じ込めた小鳥は、やや高い位置から身を屈めて微笑んだ。
「学校は楽しいかい?」
その問い掛けは、何故かとても珍しい言葉のような気がした。此処は毎日行くところで、毎日言われたことをするところ。楽しいか。楽しいか。楽しいか?
「あ、ごめん、不躾な質問かな? えーと……君は此処で何をするのが好き?」
言い直した小鳥を、ステラは本物の小鳥のような目で見た。何も言わない少女に対し、小鳥も屋根でピチュピチュと囀るように続けた。
「皆に聞いてみているんだけど……僕が知っている感想と違うものだから。時代なのかなあ……なんだか感心してしまってね」
小首を傾げながら喋る仕草がますます小鳥に見えてきて、ステラはなんだか落ち着いてきた。この先生とやらは、どこかで見たオルゴールの上で踊る人形にも似ている。空をふわふわと浮遊する雲にも似ている。水槽の水草の合間をキラキラと泳ぐ小魚にも似ている。
「あの、先生……ステラは話すのがちょっと苦手なんです」
見かねて声を掛けた同級生を、二羽の小鳥はきょとんと見返した。同じような視線を受けた生徒が微かにたじろぐが、森を閉じ込めた目は「そうなのか」と穏やかな様子でステラに移った。
「急に声を掛けて申し訳なかった。君も教えてくれてありがとう」
同級生がぺこりとお辞儀をする中、ステラは森を見上げた。静かで豊かな森だ。
きっと、風は穏やかで、柔らかい光が降り注いで、良い声の鳥や羽のある虫が沢山住んでいる。
「せんせい」
不意にステラが声を発し、同級生の方が驚いた顔をした。
「何だい?」
森の小鳥は陽気に聞き返した。
「目に、森を入れてるの?」
問い掛けに、小鳥は瞬いた。同級生の方は困惑した顔をしていたが、小鳥ならぬ作家は小さく笑った。
「驚いた。ステラ、君は詩人だ」
意味が解らずに小首を傾げた少女に、作家は笑い掛けた。
「何か居るか、覗いてみるかい?」
片眼に指を当てて広げてみる目を、ステラは臆す様子もなく覗き込んだ。しばらくじっと見つめた後、彼女は首を振った。
「なんにも居ない」
「そうかい。食事にでも行ったのかもしれないね」
「食事?」
「うん。君も行く時間かな?」
小鳥の視線に振り返ると、話が終わるのを待っていたらしい生徒が居た。
「食事をしたら、何処に行くんだい?」
「プレゼント・アマレッロ」
「ああ、パステル・デ・ナタのお店だね。君が作っているのを見た気がする」
「うん。作ってる」
「そうなんだね。僕も食べた。とても美味しかったよ」
ステラが少しだけはにかんだ。笑うと、その魅力はいっそう増した。
「その歳で働いているなんて凄いなあ。いや、呼び止めて悪かったね、気を付けていってらっしゃい」
陽気に片手を振った小鳥に、ステラも片手を振った。彼女がこういう態度を示すのは珍しい――驚いた様子の生徒に連れられ、ステラは背を向けて歩き出した。
振り返ってみると、小鳥は他の生徒にも話し掛け、楽しそうに囀っていた。キラキラした森だ。何も居なかったけれど、きっと素敵なものが住んでいる。
そう思いながら、ステラは学校を出て行った。
離島の空は、程近いモンス・マレよりも青が濃く、浮かぶ雲は真っ白だった。
宿泊施設は無いというが、日帰り客向けの設備を備えたヴィラがビーチに面して幾つも並び、ホテル・マルガリータの宿泊客を中心に、家族連れやカップルが海水浴やアクティビティを楽しんでいる。ヴィラの背後にはヤシを中心とした熱帯の植物が広がる山が高くそびえ、美しいが、立ち入りを阻む雰囲気はモンス・マレの山岳部に似ていた。
その別荘は、ちょうど山の反対側に在った。
海から上陸するしかないそこは、モンス・マレの住人でも存在を知らない者が居るかもしれない。白と木材を基調としたラグジュアリーな施設がプライベートビーチに面し、幾つかの建物で構成されたそれは一つのホテルのようでもある。
中でも、プールを手前に置いた建物は極めて優雅だった。
広々としたリビングはアーチ状の窓に囲まれ、コバルトブルーの海が見渡せる。
さぞや良い休暇が過ごせるであろう室内は、ゆったりとした大きなソファーを配し、南国らしいラタン家具や見事な観葉植物を、滑らかに回るシーリングファンが見下ろす。白い砂浜にも青い空にも全く似合わない喪服を纏った麗人は、その大きなソファーに腰掛け、斜に被った男性向けの黒い帽子の下で灰色の眼を鋭く細めた。
見つめる先――ガラステーブルに載せられていたのは、二つの瓶だ。片方は夏の思い出を閉じ込めたような内側が真っ青な巻貝が詰められていたが、もう一方は砂或いはブラウンシュガーじみた顆粒が、厳重な蓋をした中に有った。細かく何かが書かれたラベルを見てから、女は巻貝の方を一つ、黒手袋に覆われた手で摘まみ上げ、仔細に眺める。その足元には――若い優男が両腕を縛り上げられて転がっていた。
「あ……あんたら……こんな事して只で済むと――」
男が首を伸ばして呻くと、女はうんざりした目を向けた。
「また、それ?」
「は……?」
今初めて言った言葉なのだが、女の声は聞き飽きたそれだった。その灰色の眼ときたら、見ただけでこちらの身を切り裂くように鋭い。
「よく聞くのよ、そのセリフ。あんたで何人目か数えるのも嫌になるくらい」
「……な、何を言って――……」
「他の話をしましょう。このシェル・ラズリ――
巻貝を自身の傍らに掲げ、女は言った。
「その薬物はどこ?」
「そ、それは……」
喋っても喋らなくても痛い目に遭うに決まっている。そのどちらが良いか天秤にかけているらしい顔を、女は無感動な目で見下ろした。
「顔に自信が有りそうね」
「……?」
「例えば、その鼻」
男が息を呑んだ。すっと腰を上げた女が、目の前に腰を屈め、無造作に手を伸ばした。黒手袋に包まれた手が、男の鼻にひたりと触れる。と、いきなり蟹の鋏に挟まれたように男がくぐもった悲鳴を上げた。
「や……やめろ‼」
女はぴくりとも動かぬ表情でミシミシと力を籠める。黒い帽子の下、既に死体を見るような目。血の気が引いた男が打ち上げられた魚のようにもがいて尚も叫んだ。
「やめて! やめて下さい‼ 話す! 何でも話す……‼」
「レディ」
入口から響いた低い声に、女は手を離した。男が息を切らして涙目で見た先には、こちらも肌以外は頭の先から爪先まで真っ黒な美男が立っていた。移動すると、深い森が花を抱いて移動するような香りがした。
「あちらは済んだ」
身の内がぞくりとする声が紡いだ言葉に、男は飽和していきそうな精神で考えた。
この館には、十人以上の警備員が詰めている筈だった。数名は自分を含めて、巻貝に関わるスタッフだが、多くは単純に力と強靭さを買われた男たち。今朝、チャイムを押されて訝しみつつ扉を開けた後、瞬く間にこの女に張り倒されて今に至るが、誰一人来る気配はないし、外で騒いだ気配など無かった。
……そもそも、こいつらはどうやって此処に来た?
夜にモンス・マレから渡って来たとしても、モーターボートやジェットスキーのエンジン音は隠せない。明るい内なら尚更だ。一日中、拳銃を持った見張りは立っている筈なのに――……
「何処に閉じ込めたの?」
何でも無さそうに聞く女に、男は薄笑いで答えた。
「食糧庫」
「大した慈悲ですこと」
「腹を空かせてはかわいそうだ」
「時々、あんたの教育を間違えたと反省するわ」
鬱陶しそうに眉をひそめると、女は腰を上げた。
「コイツを運んで」
「了解した」
男は口を挟む間もない。美男が大熊のように迫ると、あっさり肩に担がれた。
「お、俺をどうする気だ……?」
問い掛けに、女はちらりと振り向いた。
「大人しく喋ればそれだけで済む。喋らないなら途中で海に捨てる」
それ以上は何も聞くなという顔の女が二つの瓶をバッグに詰め、先に部屋を後にする。その後を何も持っていないような歩調で付いていく美男に、もう男は何も言えなかった。鼻も、最初に蹴られたところも殴られたところもシクシク痛い。雇い主に何を言われるかなど、頭に無かった。
今、出来るのは……この女に大人しく従うだけだ。
それが一番いい。それ以外なんて――恐ろしくて考えたくもない。
「ああ、忘れていた」
女は振り向き、ぎくりと頬をひくつかせる男に言った。
「表のジェットボートの鍵はどこ?」
「先生……呑気にメシ食ってていいのか?」
ソレルに言われて、ニムは魚介のリゾットから顔を上げた。
「一応……僕に求められたミッションは終了したからね」
弊社の魔王――じゃない、喪服の麗人に依頼されたのは、ベック・ランと接触すること。そのベックは今、同じテーブルで、海老だの白身魚だのがパプリカやトマトと煮込まれた大皿のリゾットをシェアしている。
「ホテルはそれほど安全じゃない。無論、警察に駆け込むのも危険だろ」
「そうは言うが、危険ってことは隠れるべきなんじゃないのか? あんたが今朝急いだのは、
いつかマルガリータ・クラヴィスに披露した口八丁でまくし立て、両親が何が何だかわからない顔をしている間にブレンド社の名刺を差し出し、如何にも敏腕エージェントの顔でベックの保護を申し出た作家である。不思議なのは、この男は頼り甲斐は無さそうな一方、人柄を疑う気は起きない。
「心配しなくても、僕が雇った助手は見た目よりすごく強いから大丈夫さ」
「俺頼みかよ……冗談キツイぜ。ベックの親父さんがブレンド社を知ってた分、信用に関わるんじゃないか……?」
「ソレル、君は実に良い助手だねえ。ついでにお父さんと和解してくれると、協力を頼めるんだけどな」
「……親父が俺に協力するわけないだろ」
「と、言うと思ったので、僕は先にお腹の牛にランチを与えることにした」
「あっそ……」
釈然とせぬ顔で、タコのフリットをつまみにワインを傾けるソレルが見たのは、海岸沿いの通りだ。視界に入る『プレゼント・アマレッロ』の黄色い店先は、今日も盛況している。店先がちょうど臨める付近のレストランは、通りにせり出すウッドデッキの上、揺れるヤシの下、白いパラソルの席が何とも素敵なお店だ。
「見た感じ、何も起きちゃいないが……ガールフレンドが居るのは厨房なんだろ? さすがに先生でも見えないんじゃないか?」
「一応、僕は厨房の窓から見える。顔も確認できたし、大丈夫だ」
信じられないと、ソレルは店に目を細めた。店には横長の細い窓は付いているが、せいぜい何かが通っているのがわかる程度だ。皆同じ格好で作業しているわけだし、個人の区別など付きようもない。唯一優れた身体能力というが、本当に目玉に望遠鏡でもくっ付いている精度だ。
「スゴイや、先生」
スプーンでリゾットを掬いながら尊敬の眼差しを向けるベック少年に、ニムはフフフと怪しく笑って首を振った。
「ベック君、先生はやめてくれたまえ。僕は只の作家というだけだよ」
「なーんか俺の時と反応が違うなー……」
「気のせいだ、ソレル君」
そりゃあ子供に褒められるのは気分が良いものだ。何故か? 子供は忖度しないし、素直だからに決まっている。まあ、諸外国では彼の年齢で大人ヅラで街を闊歩し、悪さをする子供も居るが……この少年は実に純粋無垢な印象で、頭の回転の割に言動は愛らしい。
「それにしても、海沿いは長閑だねえ。麻薬組織が根付いた町には見えないな」
ぼやいたニムに、わずかに表情を曇らせて、ベックは頷いた。
少し前――この少年が話した内容はセンセーショナルなものだった。
ブエノ元医師に相談した件、紹介状を手に病院に向かったところまでは、彼が話してくれた通り。だが、その後の少年の行動は些か無謀だった。
「……紹介状は、何か有った時の為だったんだ。最初から出しちゃうと、ミスター・ブエノに迷惑が掛かると思ったから……」
謙虚なのか大胆なのか不明な少年は、ソレルと懇意だったが為に『パラダイス・フィッシュ』で女物のショートヘアのウィッグを拝借し、普段はしない眼鏡を掛け、簡単な変装を試みると、仮病を使って院内に潜り込んだ。通常通り、窓口に学校帰りにちょっとお腹が痛くなってきて自分で来たと申し出る。仮に嘘を疑われても『子供』を無下にする人間は院内には絶対に居ない――すんなり中に入れた。
診察を受け、薬を処方されてから立ち去るフリをし……あらかじめ目を付けていたスタッフに声を掛けた。
「あの、リヨン博士ですよね?」
今しもバックヤードに行こうとしていた白衣の若者が振り向いた。ここらではあまり見かけないアジア人系の痩せた男は、眼鏡の向こうで、少年が知り合いだったかどうか考えるような間を置いた。
「失礼。どこでお会いしたかな?」
「デニス・ワイルドと申します。ご挨拶するのは初めてです。あの、僕、薬学に興味があるのですが……お若いのに凄い薬を作っている博士を尊敬していて……サインを頂けないかと思って……」
「それはそれは。こんな素敵なファンが居たとは知らなかった」
ニムもそうだが、子供に尊敬の眼差しを向けられて嫌な顔をする大人はそう居ない。
サイン如き幾らでもと胸ポケットのペンを取り出す博士に、少年は嬉しそうに手帳を差し出して書き留めてもらった。満足そうに眺めてから、少年はこちらも優越感を見せた博士に笑顔を向けた。
「博士、ちょっとだけお仕事を見せて頂けませんか?」
「仕事を? うーん、それは――……」
「お願いします! 大人しくしていますから!」
急に大きな声を出して頭を下げる少年に、周囲の視線が集まり、若い博士は明快に焦った。『子供』が絶対的存在である社会で、下手に断っては都合が悪い。明晰な頭脳でそれに気付いた博士は、辺りを気にしながら少年に手を伸べた。
「き、君……わかったから、病院では静かにね――」
少年と共にそそくさと裏に入ると、博士は見学だけならと仕事場に伴った。数名の出入りスタッフにのみ断り、少年にも自ら説明した。
「本当はダメだから、此処で見たものに関してはご両親やお友達にも秘密にしてくれるかい? 置いてあるものには勝手に触らないように頼むよ」
「はい、もちろんです」
瓶やファイルを詰め込んだ棚の合間、子供らしく楽しそうな顔で椅子にちょこんと座って、ベックは大人しく博士たちの作業を眺めた。パソコンやら顕微鏡、何かわからない機械の数々を眺め、私語はおろか、くしゃみ一つしない少年を大人たちはすぐに気にしなくなったようだった。……案外、ROMOを飲んでいたのかもしれない。
じっとその時を待つと、それは割合、早く訪れた。
博士は打ち合わせで席を外し、スタッフはそれぞれ別の用事で出て行った。
少年は椅子から降りると、博士が見ていたパソコンから狙いのデータを取り出し、ポケットに入れていたメモリーに移すと、何食わぬ顔で椅子に座り直した。
わずか5分とない出来事である。後は博士が戻るのに合わせ、来た時と同じように挨拶して病院を出た。此処までは計画通りだったのだが、このデータを元に理事長に談判するつもりが、一度家に戻ったところ、何処に行っていたのかと尋ねる両親に捕まってしまい、半ば監禁され――ニムたちに発見されるまで、身動きがとれなくなっていた。
普通ならとんでもない話だが、呑気な作家はこの顛末に感心した。
「君はスパイの素質が有りそうだ」
ベックは恥ずかしそうに頭を掻いて微笑んだ。
「そうでもないよ、先生。『子供』としての特権を利用しただけだから」
「いや、目的の人物に狙い通り接触し、データを取り出すのに分単位というのはなかなかだ。盗むという行為自体は良くないが、僕よりよっぽどハイレベルだよ」
作家の賛辞に、少年は嬉しそうな顔をした。
「そのデータってのが、ガールフレンドに関わる情報だったんだよな?」
胡乱げなソレルの問い掛けに、ベックは頷いた。
「……うん。僕が欲しかったデータは、
「FIBO……それが
ちら、とベックがソレルを見た。ああ、そういうことかと腑に落ちた顔になるニムに、テーブルに頬杖ついたソレルはそっぽを向いた。
「ソレル君? 前に知らないって聞いた気がするけど、白状してもらおうか?」
ふざけた調子で聞いて来る作家に、ソレルは嫌そうな顔をした。
「ガールフレンドを見てなくていいのかよ?」
「今見た。大丈夫、ちゃんと居る」
舌打ちしたソレルが、大げさな溜息と共に椅子にもたれた。
「……『
さりげなく友人を擁護するソレルにニムは微笑みつつ頷いた。
『爆弾で満たす』とは物騒な名のドラッグだが、可愛い名前ではないのはかえってマシな方だろうか。
「そんな話を子供にするなんて迂闊だなあ」
「俺だって喋りたくなかったよ……仕方ないだろ、FIBOの
「おや、軽んじて悪かった。君はやっぱり良い人だな、ソレル」
褒めたつもりだが、青年は嫌そうに首を振ってワインを呷った。それに苦笑してから、ニムは少年に振り向いた。
「ベック君が襲われたのは偶然かい?」
「わからないよ、先生……あの時は教会の傍でステラと夕方の海を眺めていたら、ガキの癖に色気づきやがって、って難癖つけてきたんだ」
「なるほど。外なら有りそうな話だが、此処では異常な話に感じるね」
「うん……『子供』が危険なことをしたら叱る人は居るけど、こういうのは初めてでびっくりしたよ。無視して行こうとしたら、掴み掛かって来て――その時、ソレルが助けてくれたんだ」
「それはいつ頃の話?」
作家の問い掛けに、グラスから唇を離した青年は素っ気なく答えた。
「二年前。……前に言ったろ、嫌なことがあると教会に行ってるって」
さては、父親と決別した日か、病院を辞めた日といったところか。
怒りは無論のこと、後ろめたさや苛立ちに染まっていた青年が、『子供』に突っかかる『大人』を見てどう思うかは想像に難くない。
「自分より弱い者に突っかかる感じは、『パラダイス・フィッシュ』で見た騒ぎを思い出すねえ……その中毒者も、病院の前に捨てて来たの?」
「……ああ」
「本格的に出回り始めたのはその辺りからなんだろうな。それまでは普通のドラッグも横行していそうだけど」
「普通のドラッグ? いや、まさか――……」
青くなるソレルに、ニムは綺麗な緑色のそら豆とサラミのサラダを口に入れてから頷いた。
「だって、君やミスター・ブエノが教えてくれた通り、かつて此処にはならず者が
「……俺が生まれる前の話だ。知らない」
素っ気ない返事をする青年に、ニムは気にした様子もなく頷いた。
「それはそうだね。ベック君はその辺りの歴史は習うかい?」
「町が荒れていたことは習ったよ。先生ほど詳しく話す人は居ないけれど」
「うーむ、経緯や前後を習わずに事実のみか。その辺りは外の教育と大差ないなあ」
「今度は何を気にしてるんだよ、先生は」
鬱陶し気に言ったソレルに、ニムは朴訥とした調子で言った。
「現行システムを敷く直前のことが、見当たらなくて」
「は……?」
「ほら、此処が自治を勝ち取る前は役人も腐ってたから荒れていたんだろう? ということは、ならず者連中を追い出すか、大人しくさせた経緯があるじゃないか。さっき学校を見に行った時も色々見せてもらったけど、この地を住みよくした事に関する歴史が指導されていない。普通は誇って良い事なのに、どうしてその部分が伏せられているのか、気になるね」
「本当だ。先生が言う通り、変だね?……気にしたことなかったよ」
不思議そうに首を捻る少年の手前、ソレルは渋い表情でワインを喫した。
「先生はどう思うの?」
少年の問い掛けに、ニムはフリットを摘まんで首を捻った。
「さて、お金で解決するのは難しい。無法地帯というからには、悪党は様々なグループが居ただろうし、結局は居座って、永続的に金銭要求をするだろう。かといって、此処には力に訴えるほどの軍事組織や勢力も無い。戦った連中が居るのなら、先祖の功績を語り継ごうとするからね」
美味そうにフリットを食べてから、作家は町の一番高い場所を見て言った。
「そうだな……僕は、貢献したのは病院じゃないかと思う」
傾けたワイングラスの向こうから、琥珀色の目が作家を見た。
少年が茶色い目を瞬かせ、白い要塞めいた建物を見上げた。
「病院が……どうやって悪い人と戦うの?」
「ベック君、君なら――自分より強い相手を静かにさせる為に、金銭、武器、睡眠薬のどれを使うのが確実だと思う?」
純粋な知性に余計な情報を与えるのはどうかと思ったが、少年が気付いた顔をしたのでニムは頷いた。
「睡眠薬だよね。非力な僕もそうする」
「眠らせている間に……もしかして……」
怯えた目をする少年に、ニムは軽く両手を挙げて苦笑した。
「おっと、ベック君……そんな恐ろしい想像をしちゃあいけない。ま、FIBOやガールフレンドについては、レディにデータを渡せば調べて貰えるさ」
さらりと人任せにして食事を楽しむ作家を、少年は頼もしそうに見たが、にわか助手はワインを傾けながら気怠そうに眺めた。
「じゃあ、先生はこのままストーカー行為を続けるのか?」
「ソレル君、体裁の悪いことを言うんじゃあない。のんびり食事をとる内に、ブラックと悪魔……じゃない、レディが来る筈。それから動けば充分だよ」
そう。既に彼らが現着している以上、荒っぽいことには100%不向きな自分は役には立つまい。彼を保護しつつ、危険が迫れば一緒に逃げれば宜しい。
そう思っていたら、警察らしきサイレンを鳴らす車が数台、港の方へ行った。
「警察が港まで来るのは珍しいね?」
ベックの不思議そうな視線の先――何か船着き場で話し合う連中をじっと見て、ニムは顎を撫でた。大体想像がつく以上、口唇の動きで内容は読みやすい。
「うーむ、二人とも……けっこう強引なことをしたんだなあ……」
ぼやいたニムは、眉を寄せるソレルとベックを交互に見た。
「食べたら移動しようか。二人とも――」
「あら、ゆっくりなさっていいのよォ、センセ」
急に頭の上から降って来た声に、ニムはリゾットを吹きかけた口に手をやった。
見上げた先で、豪奢な金髪をした長身の女が、血のように濃いルージュを歪めていた。
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