10.コーヒーを淹れて
部屋に戻って来たニムとソレルは互いに顔を見合わせた。
正面のソファーに、夕刻に別れた男が死んだように横たわっていたからだ。巨躯に黒い上着を乗せた熊が仰向けに寝転んでいるのを思い浮かべ、ニムは顔をしかめた。
「まったくもう……また『あの手』を使ったんだな」
「あの手?」
「女の人と、睡眠薬で乾杯する手」
「なんだそりゃ……新手の心中方法か?」
確かにね、とニムは苦笑して首を振り、ベッドから上掛けを運んできて黒服の代わりに上に乗せた。
「なるべく、女性を傷つけずにベッドを共にしない為にやるんだ」
「ああ……マダムが相手じゃ、ぞっとしないってこと?」
「いや……彼はそういうことには頓着しない。“だから”なんだ。ブレンド社に来る前、高齢だろうが、それこそ男が相手だろうが、何でもないように相手が出来るように育てられていた」
今は閉じている目元に掛かった黒髪を軽く払い、ニムは溜息を吐いた。
「睡眠薬を使うように言ったのは僕らのボス。これはボスの気遣い。ブラックは育ちのせいで、常人よりも少し薬に耐性があるから……こっちの『寝る』の方が、相手の為にも良いって。わざわざ一緒に飲むのは、警戒されない為でもあるし、彼の紳士的な気遣いでもある」
呆れ顔をしたソレルは、綺麗にメイキングされたベッドを振り返った。
「どうせなら、あっちに寝ればいいのに」
「僕も何度か言ったんだけど、深く眠るのが怖いって言われて、それきりだ。ボスや彼の師匠が居る所なら、会議中でも呑気に居眠りするんだけど」
「……子供の頃に、大人に守られたことが無いからか?」
「君は察しが良い。僕も親無しだけど、社の大人たちも、近所の人たちも親切にしてくれた。……でも、彼の周りは最初からひどい大人ばかりだったんだ。ボスに拾われたとき、彼の精神状態は犬同然だったって話だけど、僕は良かったと思う。もちろん、非人道的な話だが……彼がひどい『大人』と同じものにならずに済んだから」
「同感だ。ひどい奴らに育てられた子供がどんな大人になるかなんて想像したくない。この色男サン、とんでもなく強いしな」
「僕も君ぐらい、腕を鍛えようかなあ……」
どこか力無く笑ったニムに、ソレルは苦笑を返して首を振った。
「先生が武装したら、それはそれで落ち着かないと思うぜ」
「……同感だ。先生は今の方が落ち着く」
唐突に響いたバリトンに、ニムはやれやれと溜息を吐いた。
「おはよう、ブラック。まだ宵の口だよ。何分ぐらい眠れたの?」
男は寝そべったまま、上掛けの下からずるりと腕を抜いて時計を確認した。
「……三十分程度」
「また、何処かに行くのかい?」
「ああ……レディと約束がある」
「人使いが荒いなあ。そろそろ君も断わるのを覚えなくちゃいけないよ」
「……先生も、レディの頼みは断わらない」
「うーむ、それは蛇と蛙の関係性だから仕方がない。君は断ってもいいさ」
ブラックは口角を緩くもたげて、体格の割に細い息を吐いた。
「先生、コーヒーを一杯くれないか」
「夜中にカフェインは感心しないなあ」
「頼む。蛇の前で海に落ちるのは困る」
「はあ……それは困るね。リゾートでも、君に水を被らせるのは気が進まない」
ぼやきながら腰を上げた作家を見送り、ソレルは首を傾げた。
「色男サンは水が苦手か?」
「いいや。先生は気を遣っているだけだ」
「あんたら、気遣いだらけだな……」
「俺が異常だからだ。人間は本来、気を遣い合うものだと師匠は言っていた。普通は失敗した人間に水を掛けないし、何かを聞き出す為に頭を水に浸けたり、冬の湖に投げ込んだりすることは――……」
「ああ、待て待て……俺が悪かった。あんたの過去を抉るのはどうも始末が悪い」
大きく手を振った男に、薄笑いを浮かべた男は半身を起こしてあくびをした。子供のように目をこするのを、琥珀色の双眸が不思議そうに見た。
「酒も苦手か?」
「苦手ではないが、酔う前に眠くなる。疲れた時に飲むなんて信じ難い」
「その方が健全だな。俺は飲まないと眠れないこともある」
「……さっき、同じ言葉を聞いた」
黒い双眸に見つめられ、何やら気まずくなったソレルはキッチンを振り返った。
芳しい香りが漂ってくるが、作家はまだ戻らない。
「ソレル、あんたの目は裸眼か?」
「は? ああ……今はコンタクトはしていないが――……それが何?」
「いや……何でもない」
そう答えた割に、底の無い穴のような目は離れない。口元にだけ浮かぶ控えめな笑みは、常にそうだと聞いて尚、勘違いをしそうになる。
「おいおい、色男サン……俺はそっちの趣味はないんだが?」
「俺も無い」
低い声と共に笑む仕草は、濃密に香る花を思わせた。
「……あんたは何と言うか……不思議な人だな、ブラック」
掴みどころのない男は「そうだろうな」という顔で緩く双肩を揺らした。
「何もかも理解した大人にも見えるし、でっかい子供にも見える」
事実、今の言葉に対するニコリとした笑顔は幼子じみているが、闇色の双眸には危うい大人の色香が匂う。ちぐはぐで、正体がわからない。
「うまく説明できないから、先生に聞き直してほしいんだが、」
「何を……?」
「『子供』から『大人』になる瞬間は、年齢じゃないそうだ」
「ん?」
「ボスや師匠によると、俺は『欠けた大人』なんだ。欠けている部分を埋めないと、大人にはなれないと言われた」
「はあ……欠けている部分……? 例えば?」
「抱いた回数とか」
柄にもなくぎょっとしてしまったソレルに、はたと思い付いた顔で半端な大人は微笑した。
「すまない。男女の意味ではない。親兄弟や家族、赤ん坊などを抱擁することだ」
「あー……ああ、なるほど……? 他には?」
「数を要するのは、誕生パーティーの開催数や参加数、男女年齢問わず好きな人間、共に食事をした人間、営利目的のない会話をした人間……」
「あんたの上司たちの意図は見えてきたが、どう見ても『大人』の姿じゃ難儀だな……自慢じゃないが、俺も顔を無いものとして話してくれる相手は少ない。あんたもその気が無くても誤解されるクチだろ?」
「多分な。俺はその違いについて、先生にもよく叱られる」
「惚れられてるのかわかんねえのか……そりゃあ、殆どそうだろうけど、相手も――いや、あんたはつくづく気の毒なタイプだ。さぞかし、親を恨んでるだろ」
男は微笑を浮かべたまま、首を振った。
「恨もうにも、想像がつかない」
「……知らない相手は、憎めないもんか」
「俺がその面影を鏡に見る頃には、向こうが老いてわからなくなるだろうしな」
「会いたいと思ったことは?」
「漠然と。今はよくわからない。できれば酔っていないときに会いたいと思う」
「賢明だね。俺なら……灰皿で殴っちまいそうだ」
互いに苦笑したところへ、作家が良い香りのコーヒーと、ミルクたっぷりのラテを運んできた。
「なんだか、楽しそうだね。お砂糖は要る?」
「要らない――楽しい話に聞こえたのかよ? ブラック、先生の感受性がどうかしてると思ったことは?」
似合いのブラックコーヒーを嬉しそうにひと口喫した男は頷いた。
「何度もある」
「おや、二人揃って僕を扱き下ろせるぐらい仲良くなったのか」
良かった良かった、と笑いながら自分のカップを傾ける男を、胡散臭そうな琥珀色が見た。
「……妙だな。喋る毎に先生はとんでもなく狂ってると思うんだが、株を下げる気にはならない」
「そうなんだ、ソレル。先生と喋っていると、世の中が肝心だと思っていることは下らなくて、些末だと素通りされることが面白くなってくる。凄まじい才能だ」
「あのねえ、君たち……仲良くなるのは素晴らしいけどね、僕を利用するのは程々にしたまえよ。ハンサムが揃って僕の話で盛り上がっていたら、僕が夜道で淑女に刺されるかもしれない」
「そうなったら、俺たちは警察か法廷で先生の人生談を披露する羽目になるってか」
「答弁は構わないが、先生は刺されたら命に関わる」
嫌そうな顔をしたハンサムと、嫌な心配をするハンサムを交互に見やり、作家は頷いた。
「わかってくれて何より。さあ、ブラックはなるべくゆっくり飲むこと。 ソレル、君はさっさと飲んで休むんだ。この部屋で君たちの魅力が損なわれたら、それも僕の生命に関わるだろうからね!」
部屋を覗くと、薄い金髪の長い髪が見えた。
ゆるいウェーブの掛かった髪は上等な絹の束のようだったが、少年にとってその価値はどうでもよかった。肝心なのは、ソファーに座っている彼女が物静かで、落ち着いているかどうかだった。
午前中に割れたグラスはメイドがすっかり片付けたし、カーペットの染みも綺麗に
「……お母さん」
躊躇いがちに、少年は話し掛けた。彼女はぴくりとも動かずに座っている。
色素の薄い髪と同様に、袖の無いワンピースの肩は透けてしまいそうな白だ。レースカーテン越しの午後の日差しは薄ぼんやりしていて、彼女もその光に混じるように霞んで見える。
もう一度声を掛けようか、少年は迷った。近付いて、視界に入れば良いのだが、彼女が急に立ち上がったらと思うと足がすくむ。
「……あの、お母さん……」
再び、遠慮がちな声が響いた。彼女はゆらりと振り向いた。首だけ回る人形のように振り向いたブルーの目が、少年の琥珀色を見た。
「違うわ」
すらりと抜いた刃物のような声に、少年は委縮した。
「……でも、僕のお母さんは…………」
女は上から吊るされたみたいにすうっと立ち上がった。肩紐が一方だけ外れて下着が覗くが、直さずに歩いて来た。冷たい大理石の床を歩く素足も美しいのに――生気のない肉体の全てが、光に混じる様な、体重も体温も感じない足取りで歩いて来た。
抱き締めてほしい気持ちと裏腹に、少年は後退った。
女は無言で歩み寄り、細く冷たい両手で少年の頬を手挟んだ。
「ほら、違うわ」
女の薄い金髪が頬に掛かる。少年は目を見開き、女の目を見た。双眸の青が零れ落ちてきそうなくらい琥珀を覗き込む。
「……お母さん」
「違う。よく見て」
ぎちりと爪が食い込み、少年は顔を歪めた。
「違うでしょ? 違うわよ、違うって言いなさい。私は違うの。違うの。ねえ、言いなさいよ、言いなさいよ、ねえ――」
瞬かぬ青がどろどろと落ちてきそうだ。少年は声が出なかった。いっそう、女の指に力が籠もった時、背後で悲鳴が上がった。
「エルバさま……! いけません……!」
年かさのメイドの声がしたかと思うと、ふくよかな腕が女から攫う様に少年を引き離し、女は紙で出来たもののようにふらりと床に座り込んだ。
少年は、優しく抱き留める柔らかな腕の合間から女を見た。顔を上げた女の目は青い。薄曇りの空のような、浅い湖のような、透けそうでいて、今にも濁って色を失いそうな危うい青。
「気持ち悪い色」
ぽつりと女は呟いた。
目を開くと、森が覗き込んでいると思った。
朝の陽ざしが差す室内は、いつかのようにぼんやりしていたが、透明なのに息苦しい空気も、無機質で冷たい呼吸もなかった。白いシーツとラタンで整えられた清潔感のある部屋は、昨夜と同じ芳しい香りがしている。
「先生……俺、なんか言ってた?」
掠れ声で尋ねると、森は小首を傾げ、きらきらした木漏れ日みたいに笑った。
「いや、何も。だけど、うなされていた」
「……そうか、悪かった」
「気にすることないよ。僕の寝言とは比べられない」
「自分の寝言を聞いたことがあるのかよ」
「あるとも。寝言がひどいって、同社の女傑に録画されたんだ。音だけならまだいいのにさ、どうやら夢の僕は海かどこかを泳いでいたらしくて、壁に頭を押し付けて、『あれ、進めない、進めない』とかぶつぶつ言って、だんだん……壁際を沿ってずるずる行って、『あ、行けた行けた』って、手足をカエルみたいに動かして、壁を伝いながらベッドを軟体動物みたいに落ちて、部屋をぐるぐる回るんだよ。それはもうひどいコメディ映像で、クリスマスパーティーで社員に披露されたときは死にたくなった。……ま、今じゃ僕がそれ見て笑っちゃうけどね」
「帰る前に生で拝みたいな」
髪を搔き上げて笑みを浮かべたソレルに、ニムは笑った。
「顔を洗っておいでよ。朝食は部屋に頼んだんだ。今日もお砂糖は要らないかい?」
「ああ、要らない。……コーヒーもルームサービスしてくれるだろ?」
今朝も自分でコーヒーを淹れる男に首を捻ると、作家はキッチンの方へ向かいながら尤もらしく頷いた。
「もちろん。でも、これは僕の習慣でね。やらないと落ち着かない。豆を計るところから始めて、コーヒーを挽く。フィルターにセットして静かに細く湯を注ぐ。豆が膨らむのを見て、良い香りがすると、散らばっていたものが整う感じがするんだ。行き先で新たな豆を買うのも楽しいよ」
「旅にコーヒーミルを持ってくる奴は初めて見た。そういうの……作家っぽいな」
健全な空気を吸い込むと、溜息にも似たあくびが漏れた。
「色男サンは戻らなかったんだな……」
「いつものことだ。僕らは仕事で一緒になることは多くても、行動自体は単独が多いんだ」
「ふーん……」
確かに、この男はエージェントには向いていない。
いや、潜伏先でこの落ち着きようはむしろ向いているのだろうか。呑気にコーヒーを注ぐ姿は、その辺りの一般人よりもゆったりしている。
――そういえば、こういう人間を久しぶりに見た気がする。
子供の頃は、メイドのモリーがキッチンで小休止するのに押しかけていた。彼女がケトルで湯を沸かしたり、摘んできたハーブを選り分けて袋に詰めたり、鼻歌混じりに食器を磨いたりするのは妙に安らぐ光景だった。彼女は仕事は丁寧できちんとしていたが、あくせくすることもなく、どこかのんびりしていた。自分も、整った居間でお茶を飲むより、彼女が仕事をするのを眺めながら、シナモンシュガーの掛かった揚げ菓子を齧る方が良かった。
「先生、今日はどうするんだ?」
含んだコーヒーは習慣にするだけのことはある。まろやかでライトな味も香りも上等だった。
「君のお父さんにも会いたいけど、先にベックに会いに行こう」
コーヒーを吹き出しそうになるのをどうにか抑えた男が、目を白黒させてカップを置いた。
「は……?」
「お、いいねえ、その反応。嬉しくなっちゃう」
「朝っぱらから気味の悪い発言はやめてくれ。いつ見つけたんだ?」
「昨日までの行動で、彼が何処に居るかはわかるんだよ、ソレル。消去法というやつさ」
「消去法? バカ言え……あんたが行ったのは、何ヶ所もない筈だ」
「僕はそれでいいんだ。僕が見なければいけない範囲は、もう『見た』。この国は狭く、特殊なシステムが有る。その何処にも彼が居ないということは、ベックが居る場所はこの国ではもう一つしか無いんだよ」
「……何処だよ……?」
「彼の家だ」
確信に満ちた一言に、ソレルは嘲笑にも似た笑い声を立てた。
「そんなバカな。俺はあいつの部屋も見た。疑ってるのか?」
「違う。君が信用できる人間だからこそ、確証が持てるんだ。君は担がれたのさ。恐らく、ベックの両親に」
「何が何だかわからない」
「ベックが失踪して最も困るのは、両親だからだよ」
琥珀色がぱちぱちと瞬いた。
「君が教えてくれた通り、この国では身内が失踪した際のリスクが大きい。親子のどちらが発案かはともかく、留学の件はベックの身に何かあった場合の保険だろう。仮に、本当に息子が行方不明だったり、誘拐や脅迫されている場合は、休みの日だからって両親が揃って家に居るのはおかしい。役人に相談できない以上、自分たちで捜すしかないんだし、どちらかは外出するさ。それに、当局にはその事実を絶対に隠す筈だけど、親しくしていた君や近親者のブエノ氏には打ち明けると思う。信用できる『大人』は貴重だもの。もし、ベックが居なくなった場合の話だけど」
ソレルが額を手で覆って呻いた。
「俺が見に行った時、両親は揃ってた……」
「吉報だ。君が見たのは彼の部屋だけ?」
「入ってすぐがリビングとキッチンだが、さすがに棚や貯蔵庫は覗いてない。あいつの部屋のクローゼットぐらいは開けてみたが、そんなもんだよ」
「隠れていると思わなければそれが普通だ。ベック少年は小柄だそうだし、子供は思いもよらないところに隠れるものだからね」
「両親が閉じ込めている可能性も?」
「彼がやろうとしている事に反対していたら、有るだろうね。例えば、君が通された部屋が、彼の本当の部屋ではないかもしれない」
ソレルは面白くなさそうな顔でパンに噛みついて咀嚼した。
「おチビちゃんは、何をする気なんだろうな?」
「さあ……ブエノ氏の話では、システムに意見するつもりだろうけど」
「他の『大人』ならともかく、親父は『子供』の意見だからって優先したりしない。オギーは話ぐらいは聞いてくれるだろうけど、それ止まりだぜ、きっと」
「ジェファーソン医師も、このシステムに意見できる人物なんだね」
「そりゃ、親父に比べれば弱いだろうけど……もともと、病院有っての理事会だ」
「確かに。他に彼らと同じレベルで話が出来る有力者は?」
肩をすくめた靴先がトントン、と床を叩いて、ニムは頷いた。
「マダム・クラヴィスか。彼女の意見が強いのは、この国の経済王だからかい?」
「ああ。親父の幼馴染だしな……マダムは病院の運営に協力的だよ。俺が居た二年前より以前から、かなりの額を出資している」
幼馴染の有力者たち、消えた前院長、革命を起こそうとしている少年……ストーリーにするには少々わかりやすい構図を作家が思い浮かべた時、その電話が鳴った。
発信者の表示を見るなり、ニムはうんざり顔をした。
「うわ……編集者からだ。ちょっと失礼するよ」
作家がテラスの方へ電話片手に歩いて行くと、今度は部屋の電話が鳴った。振り向いた作家が申し訳なさそうにちょいちょいと指先で電話を示すので、ソレルは立ち上がって受話器を取った。
「はい」
〈――おはようございます。お寛ぎ中、失礼いたします。フロントのコックスです〉
「なんだ、ジェニーか。何か用?」
〈あ、クランツ様でしたか……あの、ハーバー様は?〉
電話越しに可愛らしい戸惑いを見せる受付嬢に、ソレルはテラスを振り返った。作家はこちらに半ば背を向けて、編集者という名の取り立て屋と戦っているようだ。
「電話中。かけ直そうか? 伝言があるなら伝えるよ」
〈左様ですか……〉
一言呟くと、彼女はどこか周囲を
〈……あの、ソレル……? 伝言はいいの。ちょっと聞きたいことがあるんだけど〉
「なんだ、俺に用事? デートは今日は無理だけど明日なら――」
〈からかわないで聞いて。大事なことなの。……ねえ、何日か前から、マダムの所にすごくハンサムな人が来ているの。理事会の方からの出向ということなんだけど……〉
「ああ、ハイハイ、見たよ。黒髪に黒目の背のでかい男だろ?」
〈ええ、そう! それが……さっき、彼と同じ名前を名乗る別人がフロントに来たのよ……〉
「はあ?」
〈その人、すごい怪我で……俺が本物のジョン・ノックスだって叫んで……オーナーを呼べって言うんだけど、あんまりひどい怪我だから、警備に頼んで病院に連れて行ってもらったの〉
ソレルは作家を振り返った。彼は日差しに透けるベージュの髪を弄いながら、しきりにもごもごと何かを喋り、あちこち向き直っては頷いたり、そこらをうろうろするばかりだ。
「……マダムは、なんて?」
〈お伝えしたら青い顔をなさって、オフィスに閉じこもってしまって。今朝は起きるのが辛いご様子だったし、私たちが知っている方のジョンは今朝から見当たらないし……私、オーナーが心配で……〉
「それで、俺に? ジェニーがそんなに頼りにしてくれるとは思わなかった」
電話越しの受付嬢は微かにくすりと微笑んだようだったが、返って来た言葉は厳しかった。
〈ごめんね、違うのよ。私、ジョンが何処に居るか探そうと思って、監視カメラ映像をチェックしたの。そしたら……昨晩、その部屋に出入りする映像が有ったものだから……〉
「そういうことか。とりあえず、誓ってこの部屋には居ないぜ。それと、あの色男は悪い奴じゃない。むしろ後から来た奴の方がまずそうだ」
〈やっぱりそうなの……? オーナーに報せた方が良いかしら?〉
「マダムは男の良し悪しはすぐにわかるさ。後から来た方がやばい奴だと気付いたから雲隠れしたんだろ。君が気にすることはないと思うけど、色男サンは見掛けたら伝えとくよ」
〈ええ、そうね……ありがとう、ソレル〉
「いいんだよ、ジェニー」
ここ一番の優しい声で言ったつもりだったが、通話はそこでぷつりと切れた。
口説き文句ひとつ言う間もない対応に、受話器を見てぼんやりしていると、作家も溜息混じりに電話を切った。
「ありがとう。誰からだった?」
「あー……えーとだな、」
かいつまんで説明すると、作家は珍しく目を見開いた。束の間、顎を撫でて床を見ていたが、ひょいと顔を上げて朝食のテーブルを振り返った。
「少し急いだ方が良さそうだ。朝食を片付けてしまおう」
急にせかせかし始めた男を胡乱げに見つつ、食事という作業を手伝ったソレルは、ナプキンで口を拭ってから首を捻った。
「先生は大丈夫だったのか? また、緊急の仕事を忘れてたのかよ?」
「いや、そっちは上手く丸め込んだ……と、思う。ところでソレル、ベックの所に行く前に、『パラダイス・フィッシュ』に寄りたいんだけど」
「店に? こんな朝っぱらから開いてないぜ」
「オーナーに用事が有るんだ。頼めないかな」
「いいけど……出るかなあ」
どうにかコールに応じた相手に怠そうに喋ると、すぐに作家に振り返った。
「先生の頼みなら良いってさ。何をすりゃいいか教えてやって」
電話を渡すと、作家は悪党みたいにニヤッと笑った。
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