9.降参

 港の傍に、ぽつんと佇む白い聖堂がある。モンス・マレの古い信仰の中心的な施設だが、今は細々と営まれ、観光の目玉となっているステンドグラスを見に訪れる者の方が多いという。遅い時分だが、ソレルを認めた管理人は快く通してくれた。

「君は、信者なのかい?」

尋ねたニムに対し、ソレルは暗がりに薄く笑った。

「付き合い程度。嫌なことがあると来る場所の一つってとこ」

「なるほど。僕にも覚えがある」

聖堂は、微かに波音がするだけの静かな場所だった。

夜間は稼働しないらしく、非常灯らしきランプがひとつ、ふたつ揺らめく以外には月明かりを頼むほかない。高い天井の下には古ぼけた木の長椅子が並び、静寂に包まれた聖堂を見守るのは、巨大なステンドグラスだ。青白い光に透けるガラスで描かれているのはマリア像に似ているが別の神らしい。ローブを纏い、柔らかな微笑を浮かべた女性の胸には太陽か菊の花のようなモチーフが掛かっている。神秘的なブルーやグリーン、イエローの光が落ちる中を抜けると、海に面した小さな庭が在った。

野草こそまばらに生えているものの、丈の揃えられた芝生が広がるそこは、木が囲むように生え、海からは少々見づらい。

暗がりにも、墓地だとわかった。多くの墓石が並んでいたが、その中に際立って大きな墓石の前で、ソレルは膝をついた。古めかしい文字は風化したのか掠れ、暗い中では確とは読めない。

「立派なお墓だね。どなたのもの?」

「子供だ」

「子供……?」

「さっき、セオドアが言った通りだ。俺が生まれた辺りのモンス・マレは、腐るところまで腐ってた。山を越えた国家に属していた頃、国のトップや豪商、そこに寄生した悪党連中は此処を法の抜け穴に使っていたそうだ。『パラダイス・フィッシュ』に似て異なる店が幾つも在って、今は無い娼館や、人身売買の専用オークション会場まであったらしいぜ。此処に眠ってるのは、その過程で無作為に生まれて、色々な理由で犠牲になった子供の墓だ。勝手な都合で捨てられた子、障害や病気を持って生まれた子、そういう子供たちが」

ニムは首を振って瞑目した。

孤児を受け入れる施設が無かった、或いは追い付かなかったか。

病院も、役人も、規模の大小に関わらず、手を打てなかったということだ。

「むご過ぎる」

「……ああ。この事実だけでも、此処は呪われて然りだ」

墓石を撫で、ソレルは立ち上がった。木々の合間を海からの風が吹き抜け、青年の髪を梳いてゆく。振り向いた彼の目が、月明かりに猫のように煌めいて見えた。

「先生は、信じる神は居るか?」

幻想的な立ち姿からの意外な問い掛けに、ニムは戸惑いがちに頷いた。

「うん、居るには居る」

釈然としない解答に眉を寄せた青年に、軽く両手を挙げて首を振った。

「すまない。話した通り、僕は捨て子で、ブレンド社に拾われた身だ。当社の傍にはその地で崇められてきた古い神が居るんだが、これが何というか……若者には見向きもされないというか、忘れ去られているというか、信仰を失いつつある神でね」

興味を引かれたのか、青年は大人しく清聴している。辺りは暗い筈なのに、月明かりは仄明るい。何だか、墓の下の子供たちにも聴かれているような気になりながらニムは続けた。

「大抵の信仰は人間の為のものだろう? 人間が崇め敬い、人間が教えを守ってこそ成り立つ。それが薄れれば加護や利益が無いと思われ、捨て置かれる。まあ、本当に利益が無いのかもしれないけれど、勝手に祭り上げられた神様も迷惑な話だと思うんだよ。僕はブレンド社で拾われた時、目立った怪我も病気もなく五体満足で、天気も穏やかな日だったそうだ。それを神様のお陰だと鵜呑みにするわけではないが、何の頼みもない僕にとっては小さな奇跡であり、守られたのかもしれないと感謝するのは悪いことじゃない――そう思って、ささやかに信仰する次第だ」

信仰と呼ぶには些か弱い理由に、青年は理解した風に二、三頷いたが、闇の向こうから可笑しそうな含み笑いがした。

「あんたはやっぱり面白い人だ。話すほど、勘繰る気が失せる」

「そのまま返すが、やっぱり君は僕を何度か”料理”するつもりだったんだね?」

「ああ」

しれっと肯定すると、ソレルは墓の方に向き直る。

「最初にマッドと居た時も、店でも、ホテルでも、八番街でも、セオドアの家でも、……此処でも、俺は思うところがあれば、あんたを拘束するつもりでいた」

「だよねえ……君は常に僕より先に出口に行くし、配達の時は難色を示した。わざわざお茶を淹れてくれたのも、自分が一服盛られるのを防ぐ為だよね?」

「そうやって気付いてる癖に、あんたは隙だらけで参ったよ」

背を向けていたが、彼は笑っているようだった。

「俺なんか気にしない余裕があるのかと思ったが、なんだか鈍臭いし、夜はしっかり寝ていやがる。とんでもない同僚を出してきて焦ったのに、あっちもあんたを放ったらかすし」

「彼は、僕が本当に危ないときは近くに居てくれるさ。そうしなかったということは、君が良い人だと判断したからだよ」

「獣の勘かよ……全く、出来た友人関係だ」

何処か羨ましそうに言うと、彼は墓石を見下ろして押し黙った。風だけが吹き抜け、木の葉と海が穏やかにさざめく。

「君が僕の存在を危ぶむのは、この街……この国の為かい?」

物言わぬ背に問い掛けると、彼は振り向かずに首を振った。

「……よく、わからない」

「そう……でも、君からは、“何か”をどうにかしようとする意図を常に感じる」

「ごめんよ、先生。本当によくわからない。俺は親父のやり方に反発して、『その他』に働きかけたが何も変わらなくて……親友は説得に応じないし、他国に情報を流しても、大規模な反乱でも起きない限りはマスコミなんかぴくりとも動かない。『果樹園フルーツ・パーク』の奴等と一人で戦う気も起きなくて……だからって、此処を探りに来たあんたを見たとき、急に不安になった。もしかしたら、この現状はそれなりに平和で……あんたらがつついた途端に、あらゆるバランスが崩れて、昔みたいにひどい街になるんじゃないかって……」

きっと、この場所で何度も苦悩しては奮い立ち、奮い立っては苦悩して戻るのを繰り返してきたのだろう。

「ねえ、ソレル……親無しの僕が言うのも変だけれど、君の葛藤は、とても健全で当たり前のことだと思う。お父さんは二人といない肉親なんだから、どんなに反発しても、その身を案じるのは当然だ。それに、話を聞いてもらえなくても君はジェファーソン医師のことを『親友』と呼んでいる。優しい君が、近しい二人に迫る危険を警戒するのは、自然なことだよ。何かが変わる事だって、大抵の人は恐れるものだ」

「……よしてくれ。俺はベックのことを聞いても、迷い続けた。あいつが死んでいないにしても、危険な目に遭うかもしれないのに、あんたのやる事を見ながら、中途半端にフラフラするしかできなかった」

「そんなことないよ。君はずっと誰かの為に一生懸命だ。訂正するなら、ブレンド社が排除したいのは『果樹園』で、君の大切な人達じゃあない。警察と違って、当社のボスは国家権力じゃない」

彼は振り向いた。咎めるか嘲笑うか、どちらともつかない目がこちらを見つめた。

「……じゃあ、良心で動いてるとでも? そうでなけりゃ、あんたらの給料は何処から捻出されるんだよ?」

「うーん、良心がメシより美味いというスタッフも居るには居るが……僕らの給料は主に、調査会社としての報酬と、悪党が捕まると嬉しい人達から支払われてる。その中には国家権力級の人物も居るけれど、彼らに命じられてやっているわけじゃないから、上司じゃないね。更に言うと、僕らも完全なる正義じゃない。必要に応じて汚い手も使う」

当の自分もそこまで詳しくはないが、ブレンド社は“あくまでも”調査会社だ。

当然、その性質に相応しい依頼の方が圧倒的に多い。現在のような任務に当たるのも、備品調達やサポートをするスタッフを除けば、ほんの数名だ。

「もう一つ言い添えるなら、ブレンド社は自主的に悪党と対峙する組織だから、各国への発言権が少々強い。それは悪党に対しても同じ。此処が自治区としてお株を奪われない様にするぐらいの声は上げられると思うよ。君さえ良ければ、代表とアポイントをとれるよう計らおう」

青年は首を捻り、腕組みをした。

「疑うわけじゃないんだが……旨い話は詐欺の常套句だ。だから教えてくれよ先生、どうして何の関係もない俺に親切にするんだ?」

「僕が“とても親切な人間”、というのはジョークになってしまうかい?」

一笑に伏しつつも、彼は頷いた。

「いいさ、それが第一としても。他には何がある?」

「では、僕が自分のルーツを探しているのを理由にしよう。手掛かりは、良すぎる視力と珍しい緑眼。この視力が異常なのは言うまでもない。常に広大な景色を眺視ちょうしして高い視力を持つ人間とは、どう考えても出所が違うんだ。視力が極端に良い方の遺伝は例がない。ほぼ百パーセント、僕の視力には人為的な細工がある」

「あの病院で、そんなことが行われたかってことか……?」

「可能性の話だから、何も無いかもしれない。ただ、そうした方面の想像がしやすいというだけ。例えば、モンス・マレが『その他』を生むシステムを用いる一因は、少ない人口で最も高い利益を算出する為だよね。『ROMOロモ』という過剰労働を可能にする薬物も、『子供』に高等教育を与えるのも、その為だ。それなら、赤ん坊の段階――或いは、出産前の段階から都合が良い方にしようと考えてもおかしくはないと思う」

赤ん坊に手を加える作業ができるのは病院に限った話ではないが、非合法を隠す森は合法であることが多い。見るからに怪しいものを見える所には置かないし、それとわからないようにするのは当たり前の事だ。

「こういうタイプの国は、外国人の受け入れに慎重な閉鎖環境になるものだけど、此処がそうではないのも気になる。単に遺伝的な問題や労働力としての需要なら、恋人同士や夫婦じゃなくても歓迎されて良い筈なのに、女性の単独入国は奇妙に映るそうだね。どうしてだろう?」

「俺は気にした事は無かったけど……そういえば、そうだな……シングルを望むにしても、此処で一緒になりたい奴と出会わないとは限らないよな?」

「うん。僕はこの話の出どころが、あの紳士ではないかと思う」

ピンと来ないらしいソレルが首を捻る。

「彼は殆どの日を、あの港が見えるベンチで過ごしている。一番の理由は『その他』への医療提供や相談を受けているのが主体のようだけど、それなら、あんな監視されやすい場所じゃなくても――それこそ、彼の自宅付近や八番街でもいいはず。最初は、情報を流した手前、うちの社員を探す為かと思ったけど……『その他』の人たちは事前連絡なしにあの場を訪れていた様だから、前からあそこに居たと考えるのが自然だ。と、いうことは、何を目的にあそこに座っているのか。……もし、以前、誰かが何かの悪意をもってモンス・マレに女性を呼び込んでいたとして、その意図や策略を彼が知っていたら、それとなく忠告する筈。何らかの旨い話を信じてやって来た女性としても、優し気な紳士に、危険、或いは架空の怪談でもいい、良からぬ情報をもたらされたら、妄信することはなくても気味悪く思う筈だよね」

「じゃあ、あんたがセオドアを相手にしたのは……」

「そう。彼は過去のモンス・マレを見ている。その多くは病院。そして、女性一人の入国に関して噂が広まったのはここ数年のこと。『何らかの旨い話』は、システムの施行や『果樹園』の来訪より前のことだと思うんだ」

「病院が、何かの為――……あんたに関わることだとすれば、『目』を狙って、女性を呼び込んでいたのか……?」

生徒の回答に満足するように、「そのとおり」と答え、ニムは暗がりにはにかんだ。

「まあ、こんなものは作家の妄想で、憶測の域を出ない。僕のルーツで捉えれば目を考えるけれど、口に出すのが憚られるような目的も考えられる。ベックの件が済んだら、あの紳士とはもう少し話してみたいけどね。時系列からして、ジェファーソン医師が院長になる前の出来事だろうし」

「……そう言われると、キナ臭い話なら無くもない」

墓石を振り返り、ソレルは重苦しい声で言った。

「オギーの前の院長は職を退いた後、出国している。それまでは親父と仲良くやってたと思ったが、急にそりが合わなくなったって、院長職をオギーに押し付けて、うちの隣の豪邸もあっさり放り出した。今思えば、何かから逃げたように思えなくもない」

「ふむ。その空き家はジェファーソン医師が使っているの?」

「まさか。オギーはうちの近所に家を貰ってるが、殆ど病院に住んでるようなもんだ。大体、あんな悪趣味でバカ高い豪邸、誰も買わないぜ」

「なるほどね……」

どうやら現在の行方不明者も、『果樹園』とは無関係かもしれない。

もしかしたら、病院と――その言葉は一旦飲みこみ、ニムは付け加えた。

「ところで……どうだろう、ソレル。まだ僕を何処かに縛って閉じ込めておきたいかな?」

いい具合に吹いたしっとりした風に目を細めたが、不思議と彼が苦笑するのがわかった。月明かりに曖昧に光って見える、琥珀色。

両手を掲げて、ソレルは言った。

「降参だ、先生。あんたに協力させてくれ」




 「……ジョン、貴方――夕方は何処で油を売っていたの?」

威圧的に問い掛けたつもりだが、向かいに腰掛けた男はまろやかな笑みを浮かべた。

初対面の頃から、こんな調子だ。本当に麻薬組織の関係者か疑わしい笑顔をするが、既に女性スタッフの多くが憑りつかれたように目で追う容貌は、一種の毒物かもしれない。無造作な黒髪の下で、闇は声もなく笑い、緩やかに首を振った。

「マダムに聞かせるようなことじゃない」

「うまい言い逃れね。その顔で、一体どんな悪いことをしてきたのかしら」

「顔は生まれつきだ。許してくれ」

肩をすくめた男は、本格的にホテルに勤めさせてもいい仕草でワインを注いだ。

すぐ傍のベランダの先に広がる、自身のホテルご自慢の眺望は、今は月明かりを溶かす暗い海が横たわっているだけだ。

「『果樹園』は……外でもこういう感じなの?」

すっと寄越されたグラスを指先で摘まむと、マルガリータ・クラヴィスは溜息混じりにひと口含んだ。男は自身のグラスに注いで、軽く掲げてから少量含んだ。

「此処の商売は、余所とは違う」

「どの辺りが?」

「至って静かだ」

「田舎ということかしらね」

「ジャンキーがたむろするクラブや、そいつらの脳天をぶち抜く気満々の警察がうろついていないのが田舎なら、そういうことになる」

「フフ……貴方はそういう場所で、優しい女に囲まれて暮らしていたんでしょう――」

からかうつもりで言って、女は押し黙った。会ってから一度も絶えることのなかった男の薄笑いが吹き消すように失せていた。その黒い――何もかも呑み込んでしまいそうな目が、此処ではないどこかを見て、再び……薄い膜が浮かび上がるように笑みを刻んだ。

「マダムは、他所へ行きたいと思ったことは?」

穏やかな低い声に変化は無かった。女は心なしかほっとしつつ、海に広がる闇を見つめて頷いた。

「有るわよ。いつだってそうかもしれない」

「なぜ。何不自由なく、邪魔者も居ないのに」

「……田舎だもの」

置いたグラスのフットを指でなぞり苦笑すると、男は同じような笑みを刻んだ。

「わからないな。それこそ、行きたいのなら、いつでも行けるんじゃないのか」

冷たいガラスに触れていた大金持ちの指に、長く温かい指が触れた。小娘のような震えを感じて、動じるまいともたげた視線の間近に、闇が迫っている。

「貴方、思った以上に悪い男のようだわ……」

「よく言われる」

「……何を知りたいの?」

「マダムのこと以外は、何も」

「嘘は下手ね」

噛み付くように切り返す女に、男は優しく笑った。

「じゃあ、これについて」

長い指が触れたのは、女の耳から下がった深く青い玉だ。

「ナイト・パール? これは希少だから高額だけれど欲しいなら――……」

「いや、俺が欲しいのは、これを作る生きた巻貝」

「……あの女、オーガストに断りなく、FIBOフィボを作るつもり?」

咎める視線を包むように受け止めて、男は軽く首を傾げた。

「……“FIBO”の原材料に興味があるだけだ。海に来たのに、動いているところを見ていない」

「子供みたいなこと言うのね」

ほんの少し、警戒心を和らげた女の目が微笑んだ。

「離島の施設に行けば見られるけれど、面白くないわよ。殆ど動かないぐらいにうすのろだし、材料の中身はそのまま食べられるものじゃない。取り出したばかりの内臓だって気味が悪いわ。中を除いた内側は美しいけれど」

「死んで初めて、美しさがわかる貝か」

微かに、触れた指先がぴくりと動いた。

「……そうね。そういうところも……薄気味悪い生き物かも……」

どこか危うい視線でグラスを満たす赤い液体を見つめ、女は首を振った。

「FIBOは他所で使うにはリスクの高い薬物よ。此処はこのホテルと、病院、警察の三者が連携して事なきを得ているけれど、外でこのシステムを構築・維持するのは難しいのではなくて?」

「確かにな。賄賂だけでは人の口は閉じられない」

「そうでしょう。お金だけで動くものはロクでもないし、下手に使った者が夜道で倒れたら事でしょ……外は大抵の人間は自由なんだから……」

グラスに唇を付け、女は憂鬱な溜息を吐いた。

「どうかしたのか。顔色が悪い」

「……疲れているの。私だって、急なトラブルが多いのは疲れる」

「例の『子供』のことか? それとも、此処に居る作家のことかな?」

「全部。『子供』の件は――……頭が痛いけれど、子供自体はどうでもいい。いくら賢い子でも、外では子供の通報はさほど重要視されないでしょうし……データも盗んだものなんだから、誰かやって来ても揉み消しが利く」

溜息混じりに女が乾かしたグラスに、男は当然のように注ぎ入れた。

「作家の方は……掴みどころが無くて気味が悪いわ。貴方は知ってるの?」

「ああ。彼は『果樹園フルーツ・パーク』以外でも有名だ。何の力も無さそうなのに、何故か危険な環境からも無傷で生還するらしい。あの子犬のような見た目を侮って、煮え湯を飲まされた連中は多い」

幸運ラッキーというわけ……羨ましいこと」

「マダムの憂いになるのなら、俺が行ってこようか?」

気を利かせるように問うた男に、女は先ほどよりも強く首を振った。

「……やめて。マスカットにも言ったけど、私のホテルで血生臭い話は御免よ。そいつが暴れたり、粗相をしたら摘まみ出して頂戴」

忌々しそうな言葉を手元に吐き捨て、女はついとグラスを持ち上げて一息に呷った。白い喉が上下する様を見つめた闇が、すっと細められた。

いで」

やや慎重に注がれた赤い液体を、女は躊躇なく一息に飲み干す。次の一杯を所望するグラスに、男は注がずに苦笑した。

「マダムは、いつもこういう飲み方をするのか?」

「ええ、……貴方みたいな男が前に居ると……尚更……」

「それなら俺は退散しよう。そういう飲み方はやめた方がいい」

女が空咳と共に笑った。

「それは、毒をよく知っている人の忠告?」

「よく知っている人間は殆ど死んだ。多くは中毒よりも、事故や凍死、自殺で死ぬ。特に女は死にやすい。水に落ちてオフィーリアのようになりたいと言った女も居たが、実際は皮膚はふやけてたるみ、醜く腐る。死相の良し悪しはともかく、死んで美しい人間など一人も居ない」

「……そんなの、知ってるわ」

ぽつりと出た言葉に、闇が目を持ち上げるが、女は目を逸らした。

「飲まないと眠れないの……口説く気もない男が説教するのは迷惑よ」

座った目に向かって男は口端をもたげ、ワイン瓶を手に取ると、注がずにそのまま呷った。水のように流し込み、瞬く間に空になったそれをテーブルに置く。

「……ひどい男」

「そう聞かなかったか?」

「あの女が……丁寧に、説明すると思う……?」

物憂げな声がまどろむ。ゆっくり瞬く目を見つめ、男は低い声で囁いた。

「確かに、マスカットの眼中に有るのはボスだけだ。おかげで俺はマダムとお近づきになれた」

「……お世辞もひどいものね……ダグラスよりは、マシだ……けど……――」

虚ろになる視線を見下ろす闇が穏やかに笑った。

「ひどい男のうまい世辞なんて嬉しくないだろう。もっと良い男に頼んでくれ」

女は答えなかった。重そうに瞼は閉じ、深い寝息を立てている。男はその容貌をじっと見つめてから軽々と抱きかかえ、ベッドに横たえると、およそ悪党には見えない手際で周囲を整え、部屋を後にした。

わずかにおぼつかない足取りで廊下を歩きながら、低い小声で電話を掛けた。

「レディ、離島は当たりだ。少し寝たら行く」

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