8.清く正しく

 「テッドとラロの家? すぐ近くよ。左に曲がって最初の家がテッド、隣がラロ」

マードック・モロウの自宅から出て来たミリーは愛想よく答えてくれた。

柔らかい笑みで頷いたブラックが出て行くと、彼女は勘違いされても仕方のないうっとり顔で見送った。

「良い男ねえ……後で二人にどんな風に抱えられたのか聞かなくっちゃ」

恐らく、土嚢か粗大ごみの気分を味わっているだろうが、二人の青年は口は挟まなかった。

「ミリー、マッドはどうしてる?」

ソレルの問い掛けに、彼女は呆れ顔を浮かべて後ろを振り返った。

「奥に引っ込んでちびちびやってるわ。自信喪失とかいうやつよ」

「かわいいとこあるじゃないか」

「何処が? 湿っぽい男はキライよ。飲むならあんたみたいにガバガバ飲む方が好き」

「そう言ってやるなよ、ミリー。マッドだって人間だぜ?」

「あいつから自信を取ったら何が残るわけ?」

これにはソレルも返す言葉がないのか、曖昧な笑みを返して両手を軽く掲げた。

「慰めてやっていい?」

「酔狂ねえ……好きにしてよ。あたしは仕事に戻るわ」

ひらひらと手を振って出て行った女を見送り、ニムは首を傾げた。

「彼女、仕事があるんだね」

覗き見るには抵抗のある胸元に揺れていたのは木製プレートだった。ソレルは困り顔で苦笑した。

「ミリーは元・犯罪者だからさ。観光客やら警察からもスリまくってたらしいよ。アレはもう病気らしい。だから今はカウンターの後ろに居るってわけ」

思わず財布の存在を確かめたニムを笑いつつ、ソレルは奥に続く扉を開けた。ノックも無い開放だったが、背を丸めて座っていた男は微動だにしなかった。

「マッド、調子はどう?」

「……うるせえ」

「あんたが放っておいた手下は、あの色男が運んでくれたぜ」

舌打ちだけが返って来た。

「ミスター・モロウ……お話を聞いてもいいですか?」

遠慮がちにかけた声に、男は振り向かない。分厚い手で持ったグラスのウイスキーを、本当にちびちびと飲むだけだ。

「あのう……さっきの彼の事は気にしない方がいいですよ。僕もそこそこの付き合いですけど、最初の頃は一緒に歩くのも、外食するのも落ち着かなかったですし……あ、僕がどうというんじゃありませんよ? だって、あの顔ですからねえ……皆が見るじゃないですか。目立つからって前髪を伸ばして髪もぼさぼさにしてるんですが、アレだって何ならミステリアスに見えるというか、目を引くのはどっちにしたって変わらないんですよね。サングラスや眼鏡だって様になるんですから、もう対処の仕様が無いわけで――……」

文句だか誉め言葉かわからない話の途中、大げさな溜息が響いた。

「クソ、しつこい野郎だな……あんたも何なんだよ。何が聞きてえんだ?」

「ありがとう、ミスター……」

「やかましい! いいから要件を言わねえか!」

グラスを机にどかん! と叩き付けると、調子が戻って来たらしい男は太い首をぐるりと回してこちらを睨んだ。

「えーと……何故、貴方は『その他』なんですか?」

「ああ?」

この世で最も愚かな質問を聞いたような顔で、男は体ごと向き直った。

「あのな兄ちゃん、此処じゃ、俺らみたいなのは皆――」

「そう、そこがわからない。貴方の恋人も元・犯罪者と聞いたが、そうなる前が有ったはず」

「……だいぶ前の話だぜ」

「そうだ。あなた方は現行のシステムが施行された段階で『大人』だと思うが、『その他』に振り分けられるのを回避することができたのでは? もし、とんでもない犯罪を犯しているのなら刑務所に居るだろうし、貴方は心の病があるようには見えない。僕の目には、貴重な労働力が、不当な籠に収められているように見える」

「ハッ……買い被りが過ぎねえか? 根っからのワルとでも言えば納得できるかよ?」

「いや、今の情報内でそれはできない。できなくなった、というところかもしれない」

「はあ……?」

「さっき、ミリーさんの話を聞いたんだけど、彼女はとても巡りが良い感じがするんだ。アップテンポの会話で詰まることなく『自信喪失』や『酔狂』なんて言葉が出て来た辺り、無学という印象は薄い。貴方も、乱暴な言動はともかく、良い体格をしているし、屈強な男が二人も――あのブラックに先に歯向かうほど従っている。恐らく、貴方の面倒見が良いんだと思う。僕が知るシステムの中では、貴方のような人は働き盛りで重宝される。少なくとも、『その他』にするには勿体ない」

「……ベラベラ喋る男だな、まったく……」

忌々し気に呟くと、男はグラスの中身を一息に呷り、空のそれで黙していた青年を指した。

「そいつに聞きゃあいい。そいつは知ってるぜ、『大人』の生活がどんだけやべえか」

ニムが振り返ると、ソレルは気まずそうな苦笑を浮かべて首を振った。

「……俺は、十年も保たなかったよ」

「こいつはな、気付いちまったんだ。『大人』の連中の中に、ヤバい薬を飲んで仕事してる奴らが居るって。無茶な仕事はやめろってふれ回ってる内に、実の親父と揉めて家出したんだ」

「ヤバい薬?」

「こいつの親父が、今の院長に作らせた薬だ。俺ァ、見たことはねえが、飲んだ連中は一人残らずイカれちまった。テッドの上司は折れた腕で荷運びを続けたし、ラロの女は寝ずに働き続けて脳の血管が切れて死んだ。死んだ後も仕事中みてえな顔だったとよ」

「そんなことが……」

貴方も? と、呻くように尋ねたニムに、男は酒を注ぎながら首を振った。

「俺はクソ真面目な連中とは違うからよ……そこまでやってられねえ。一日中、喜んで地下に潜る配管工の連中とは、こっちからオサラバしてやった。後はミリーの悪癖に付き合う形で『その他』になった。それだけだ。後はそいつに聞くといいさ」

……過剰労働を強いる薬か。身体に影響が有って尚続けるということは、炭鉱夫がコカの葉で飢えや渇き、眠気を感じない興奮状態となって働くのに似ている。

このコカの葉を原料にした薬物が、世界で麻薬中毒者を量産するコカインだ。

「ミスター・モロウ、とても有意義な話だった。感謝します」

「やめろよ。俺ァ、あんたの連れの所為ですっかり滅入ってるってのに」

「彼のことは一刻も早く忘れるべきです。お礼は何が良いですか?」

男は手元のグラスを眺め、にやりと笑った。

「でかいジョッキを取ってきてくれ。マグでもいいぜ」




 グラスに有るだけのキャッシュを詰め込んで置いてくると、ソレルが入り口の軒先にぼんやり立っていた。雨でも気にするように空を仰ぐ琥珀色には何も映っていない気がした。

「後出しって、卑怯だと思うかい?」

問いかけると、彼は空を仰いだまま答えた。

「……後出しになっちゃえばね」

闇に、先程のマッドよりも深い溜息が出た。

「聞くかい? センセイ」

「名前だけでも」

ROMOロモ。語源はRollロールModelモデル

「君は、飲んだことは?」

「飲んだから、わかったんだ」

「だが、依存症にならずに済んだ。なぜ?」

「多分、先にアルコール依存症になってたからじゃないかな。医学的根拠とか言われると困るけど」

なるほど、毒を以て毒を制すということか。

こっちも医学は素人だが、否定はできない。依存症の危険度はアルコールも同様だが、彼の場合は常に飲まずにおかないという程ではないし、記憶や言語、感情のコントロールに難がない辺り、不幸中の幸いかもしれない。

「君が言わなかったのは……友達を庇ったからかな?」

「そんなに高尚じゃない」

振り向いたソレルは陽気に笑ったが、琥珀色の双眸だけが不安定に揺れていた。

「最近は、自分でもよくわからないんだ。最初は……とにかく嫌だった。親父の――子供を型枠に嵌めて矯正するやり方も、四六時中イエスマンをキープする薬を作った親友も、こいつらを利用して金儲けする悪党も、反抗せずに暮らす連中も、全部、はらわたが煮えるほど嫌だった。色々と抵抗してみたけど、大抵の『大人』はROMOでイカレてるか、親父に逆らうのを恐れてだんまりで、俺は逆に変人扱いだ。正確には『坊ちゃんはお疲れなんです、お休みください』って言い方でね。外の奴らは外の奴らで、『モンス・マレの人間は働き者で素晴らしい』だってよ……俺はもう煮えるものも無くなって、仕事を放り出して家を出た。後を引き継いだ奴は仕事が増えたって、むしろ喜んだってさ」

「労働が楽しいのは良い事だけれど……彼らは報酬が増えなくても、炎天下で休みなくゴミを集めたり、重い煉瓦を運んで積んでもニコニコしているのかな」

ソレルが声を立てて笑った。空っ風の中で響くような乾いた笑いだった。

「だろうね。それが清く正しいと言われれば……」

「悪条件でも懸命に働く人には頭が下がるね。正当な見返りは必須だが、第一には、不当な労働を見直すべきだよ」

「汚い金も……献身的な労働者に支払われれば正しいのかなあ……」

夜気に疲れた声を吐く青年の肩を、ニムは軽く叩いた。

「少なくとも、君の苦悩は正しいよ。今まで一人で抱えて辛かったろう」

「……何もできなけりゃ、同じことさ。『その他』に関しても、満足な労働を許されないのは差別だが、ROMOを服用した重労働は強いられない。俺にできたのは、ルールを見誤ったバカを蹴飛ばすぐらいだ。言葉にすると尚更バカらしいや」

「何もしない人とは違うさ」

「やめてくれよ。あんまり肯定されると調子に乗る」

暗がりに、豊かな森が揺れるようにニムは笑った。

「君に優しい紳士の居所を訪ねたいんだけど、今夜のお土産は何が良いと思う?」

勘の良い琥珀色の目が笑った。

「……いいね。確か腸詰めが好きだよ。買っていこう」




 「おや、今日はよくお会いしますね」

急に家屋を訪ねた若者二人を、老紳士は穏やかな笑みと共に出迎えた。

「セオドア、ディナーは済んだか?」

ワインと腸詰めが入った包みを子供みたいに掲げた男に、老紳士は微笑んだ。

「先生と坊ちゃんはまだですか」

「俺は飲めればいいんだけど」

「元・医師の前でそれはいけませんな」

招き入れてくれた紳士の家は、小ぶりながらも、秘密基地といった趣のある住まいだった。廊下には額に納められた小さな写真がいくつも掲げてある。殆どは紳士とその妻のようだ。結婚祝いと思しき写真、何かの記念日らしくめかしこんで佇む姿や、仲の良さを感じさせる笑顔のものもある。中には小さな子供や、美しい女性も居た。

わりと最近のものなのか、今とさして変わらぬソレルが、息子か孫のように夫人と写っている写真がある。メイド服に身を包んだ優しそうな夫人と、吸い込まれそうなブルーの目をした女性、その間で緊張した面持ちでカメラを見つめる少年の写真を、ニムは流し見た。

はりが見える家屋の中には、造り付けの本棚がはめ込まれ、壁にはコートや帽子、ほうきもぶら下げてある。和やかな橙色の照明の下、ソファーや飴色の椅子は良い趣味をしていると思った。

「坊ちゃんは御存じですが、私は十年以上やもめ暮らしです。大したおもてなしはできませんが、楽になさってください」

「そうでしたか……」

呟いたニムは壁に飾ってある写真のたおやかな笑みを浮かべる女性を見た。

十年以上と言ったが、部屋の中は彼女も暮らしていた当時のままに思えた。ソファーに掛けられたコットンレース仕立てのカバーといい、棚の上に飾られた小鳥の置物や可愛らしい絵皿には、まめまめしい女性の息吹が感じられる。

「マダム・モリ―は、俺がガキの頃、うちでメイドをしてくれてたんだ」

慣れた様子でソファーに腰掛け、ワインを開けている青年はしみじみと言った。

「マダムの緑のスープは最高だった。寒い日には恋しくなる」

「……ええ、坊ちゃんが来ると聞くと用意していましたね。本人に聞いた通りに私も作りますが、何故でしょうね、何度やっても彼女のようにはいかぬもので」

「セオドアは何でも上手だよ」

「さて、腸詰めを焼くくらいはわけもありませんが」

スパイスと肉の焼ける香が広がり、良い焼き色のそれに加え、紳士が温め直した干し鱈とじゃがいものグラタンが出てくると、素晴らしいディナーになった。

「……なるほど、やはり先生もブレンド社の方でしたか」

「僕は非常勤ですから、親友の様にはいきませんが」

酒が進む男をよそに事情を話すと、セオドアは切ない面持ちで首を振った。

「いいえ、今もこうして私を訪ねておられる。ベック君のことを聞きたいのでしょう?」

「話が早くて助かりますが、彼とはもともと、どういうご関係なんですか」

「妻の親戚の子なんです。私は此処に親戚の類は居ませんし、子供も居ません。彼女が可愛がっていたので、私のことも親しんでくれていたようです」

ちらりと琥珀色の目が持ち上がるが、すぐにグラスの方に戻って行った。

「一応、お尋ね致しますが、彼の行先にお心当たりは……?」

「ありません。無ければこそ、あなた方を頼りました」

「……当社のことはどちらで?」

「大学に居た頃、お噂を耳にしました。この国に大学は有りませんから」

「きっと、良からぬ噂なんでしょうね」

苦笑した作家に、紳士はにこやかに首を振った。

「そんなことは。そうでなければ、手紙を出そうとは考えません」

「こんな半端者が出てくるとは思わなかったでしょうに」

「なんの……私はこすい手を使いましたが、先生は賢明な御方の様だ。カードを持つ手が震えるでしょうね」

優しいお言葉だが、昨年末に同僚としたカードゲームでボロ負けしたのは黙っておこう。生憎と、駆け引きも苦手な方だ。

「では、お伺いしてもいいですか? ベック・ランと、最後に、或いはその前後に会った時、彼と何を話したのか」

何の抵抗もない様子で紳士は話し始めてくれた。



「ミスター・ブエノ……お願いがあるんです」

その少年は、勉強熱心な子供だった。モンス・マレには、そういう子は少なくない。勉強し、力を付けなければ、『その他』として落ちこぼれると徹底的に教え込まれるからだ。だが、ベック・ランは少し違っていた。学ぶことを楽しみ、成りたい自分を見据えていた。それは彼が優秀だからなのか、だから優秀なのかはわからないが、ともかく、脅迫されているように勉強している『子供』たちとは違っていた。

少年は焦げ茶の縮れ毛をぺこりと下げ、同じ色の瞳をきらきらさせていた。

「僕、どうしても病院の見学に行きたいんです。表側じゃなくて、裏側の。先生にはもうちょっと待つようにって言われたんですけど……」

セオドア・ブエノは、決まって座るベンチに腰掛け、目の前に立つ少年を見た。その年頃の子供よりも小柄だが、真剣な目は探求心を湛えて尚優しい。

「ベック君、私は元・医師だが、教育者ではない。先生がそう仰られるのには、理由があるのではないかな?」

穏やかに諭したつもりだったが、少年は首を振った。

「……僕に適切な時間が来る頃では、間に合わないんです」

「はて、間に合わないとは?」

「……仲の良い友達が居るんです。とても良い奴で。……だけど、読み書きが苦手なんだ。このままだと『その他』になってしまうかも。それは困るんです」

反射的に、セオドアは周囲を見た。視界に入るのはベンチから見えるいつもの光景だ。潮風の吹くマーケットで買い物をする人々、庇の下で他愛ない会話に興じる人々、バッグや大荷物を抱えて忙しそうに行き過ぎる人、冗談を言いながら楽しそうに歩く若者たち。

こちらを見張っている人物は居ない様だが、紳士は意識的に声量を落とした。

「君の憂慮はわかるが、読み書きが苦手というだけで『その他』になることはない筈だよ。幼い頃に不得手なことは珍しくないし、障害が有るとしても、努力や工夫で克服していくこともできる。それが苦手なくらいで仕事ができないわけでも……」

「違うんだよ、ミスター・ブエノ。その……あいつと僕が違うと……その……」

みるみる内に頬を赤くすると、少年は縮こまってしまった。

これには察しの良い人間ではなくても気付く。飛び級するほど優秀な少年。『その他』になる可能性があるほど読み書きが苦手な友人。他国ならいざ知らず――此処での学力差は、二人の住む場を隔てる。

「失礼だが、その友人とは女性かな?」

ぴんと背筋を立てた少年は、もじもじと身をよじり、頷いた。

「他の奴らが言うのを聞いたんだよ……優秀なら『大人』は確定だけど、結婚する相手を決まった中から選ばなくちゃいけないって……」

知らぬ情報に、紳士は声を失った。いや、しかし……有り得る話だ。

このシステムには、施行後に自然発生した暗黙のルールが幾つか有り、『結婚』は特にその傾向が顕著だった。例えば、モンス・マレの出身者なら、優秀な者同士の結婚は当然であると考える。他国に見られる実家の資産に左右されないので、一見、良い事かもしれないが、この相手選びに、総じて『大人』は意見しがちだ。

相手の親族に『その他』が居れば渋るし、その人物が如何に優れているかを重視する一方、優秀であればある程、相手に求めるレベルは押し上げられ、わりと歓迎される外国籍の人物も、知らず知らずの内に本人は勿論、親兄弟や親戚まで調べ上げられ、知能や作業効率、生活スキル等をチェックされる。

まるで『人間』ではなく、『遺伝子』を選ぶようなやり方なのだ。

これは『仕事』の場合も反映されるので、システム導入後、とびきり優秀だったオーガスト・ジェファーソンが、即座に病院の院長に選ばれたのも同じ理由である。

彼の時は、優秀さではひけをとらない理事長の息子がサポートした為でもあるが……

「僕は学力なら一、二段とばせるけれど、年齢はそうはいかない。『子供』として凌げるのは十八までだし、あいつは僕より二つ上だから、来年には十八になってしまう。学歴で何とかならないか一緒に勉強したけど、あいつに大学は無理そうだから……仕事に就くことになると思う」

「……ふむ、その友人が先に結婚する可能性も有り得るわけだね」

弾かれたように少年は顔を上げた。

「そう! そうなんだよ、ミスター! ……あいつ、その……顔は綺麗だから、きっと両親はそうするに決まってる。『その他』にしない為に……あそこの古い教会の信仰と結婚を利用して、あいつを守ろうとするに違いないよ!」

少年の叫びは真剣だった。一見、気弱げな瞳は燃え、友人の結婚式場に乗り込むぐらいはやりそうだった。落ち着かせるように少年の肩をそっと叩き、セオドアは静かに言った。

「君の気持ちはある程度わかったが、病院で何をするのかね? 研修に漕ぎ着けたとしても、本件の解決には至らないだろう? その友人の両親に頼み込む方が現実的な気もするが」

「……もう、頼んだよ。でも、断られちゃったんだ。僕が『大人』になれば、心変わりするって……」

寂しそうに呟くのを、老紳士は痛ましげに見た。この純粋で真っ直ぐな少年が疑われるのも辛かったし、心変わりしないと言い切れない自分も不甲斐なかった。

『その他』を取り巻く環境は、日々悪化している。……何せ、多くの『大人』が、彼らを足下に置く生活が楽だと気付いてしまったのだ。他国の感覚では不気味なことだろうが、実際……様々なことがスムーズになった。

社会ではみ出る者を『無いもの』と扱うことで、公共ルールは決めやすく、破るものも居ない。居れば、『その他』にすればよい。

『大人』は『大人』以外の何者でもないガイドブックを着て歩くような人間ばかりで、縦に並ぶのも横に並ぶのもわけもない。はみ出ようものなら白い目で見られ、すぐに注意される。反論や悪態は危険だ。すぐに役人がすっ飛んできて、引っ立てられる。ルール施行後にしばらく有ったこの手の混乱は、学びを終えた『子供』たちが中心となった今では見る影もなくなった。これまで、気を遣っていたと言いたげに、往来を歩く人々は誰もが堂々としている。一見、『大人』の犯罪者は減った。

『その他』に降格させられた者の中には、悪さを目論む者も居たようだが、殆どの場合は大した騒ぎも起きずに済んだ。

――『大人』と『子供』の間では。

例えば、マードック・モロウなどは特殊な例で、犯罪者として利用されているパターンだ。彼は生来、悪い人間ではない上、まともな『大人』だった頃がある。

『その他』に格下げられる前に国外に出れば良かったのに、彼はパートナーをおもんばかってそうしなかった。それを買われ、モンス・マレの『子供』と『大人』に損害がない程度に悪事を働くのを許されている。つまるところ、『悪』の見本なのだ。『その他はこういうものである』、『こういう連中になってはいけない』と見せる為の展示品として生かされている。

「ミスター……僕は病院に行って、やりたいことがあるんだ。僕が僕である内に、あいつが結婚しないで済む内に、一刻も早く」

紳士は徐々に不安を覚えた。飛び級するほどの知性を備えた少年が、何か突拍子もないことをする気なのは明らかだった。

「ベック君、良ければ私がその人のご両親と話そうか。幾分、君の憂慮を減らせるかもしれない」

「ありがとう、ミスター・ブエノ。……でも、僕に協力してくれるなら、どうかジェファーソン先生に紹介状を書いて下さい。あの人は貴方の意見なら聞いてくれると思うんだ」

紳士は迷った。あの若院長とは、ほんの二年程度、一緒に仕事をしただけだ。言葉の上では頼ってくれていたようだし、定年退職するのを惜しんでくれたが……それは表面的なものかもしれない。だが――いっそ、相談すべきではないだろうか。

この子供の考えをそれとなく知らせ、賢明な彼に委ねた方が良い気がする。

「わかったよ、ベック君。私で良ければ書きましょう」



「喜んで受け取った彼は、その後、姿を消しました」

懺悔するような調子で紳士は言った。

「病院に問い合わせましたが、来ていないとのことでした。ご両親に話しましたが、お二人は旅行に出ていると言いますし、事件性があるような素振りも見られず……私の取り越し苦労かと思いましたが……」

「旅行というのは、遊学のような感覚でしょうか?」

恐らく、と頷いた紳士の後に続いて、グラスを置いた酒豪が口を開いた。

「俺も行ったことがある。受け入れ先さえあれば、こっちの学業を差し置いて行くことも可能だ。自分から希望する学生も居るし、推薦されて行く奴も居る。珍しいことじゃない」

「でも……さすがに、期間はご両親に伝えていますよね?」

「まず、ひと月と言っていたそうです。上手く馴染めたら、更に引き延ばすとも。ですが、先生――……この件、ベック君自身が仕込んでいたようなのです。同僚の方が調べて下さいましたが、遊学先にはご両親を欺く為か、彼の代理をしていた生徒が居たそうです」

両親への連絡係として雇われた少年は、確かにベック本人に依頼されたと言ったという。電話越しの声を判別するのは肉親でも困難だし、メールの文面はあらかじめ用意されたものに近況を当てはめれば済む。

「しかし、行方をくらます為なら、私に相談した意味が無くなります。はっきりしているのは、彼が両親に隠れて何処かに行くつもりだったことです。ひと月以上の時間を要する遠方、或いは期間を要する目的で……」

「その行先が病院だったのか? 『駆け落ち』の可能性は?」

グラスの中身をくるくる回していたソレルの言葉に、作家と紳士は顔を見合わせた。

「例の友人と? ……だったら、その子も居なくなった痕跡が有ると思うけど……」

「ベックが連れて行ったとは限らない。その友人の方が連れて行った可能性もあるだろ」

ニムは首を捻った。十中八九、相手は女性だろう。ベックは綺麗だと表現していたが、相手が女性レスラーのように逞しいレディとも限らない。

……限らないか?

いや、世界は多様だ。美しいという表現を型にはめるのは良くない。

クジャクのブルーやグリーンに輝く羽根も美しいが、カラスのしっとり艶めく羽根もまた美しい。

「仮に坊ちゃんの仰る通りでしたら……一刻も早く見つけた方が宜しいかと存じます」

眉を寄せた紳士の言葉に、ソレルは頷き、ニムは首を傾げた。

「それはまた、どうしてです?」

「『子供』でも、許可のない出国は国外逃亡の罪に問われる可能性があります」

「こ、子供なのに……ですか?」

「……『子供』なればこそなんです。先生。この国では『子供』が何より重要なんです。故に、直接的な罪に問われるのはその親、或いは教育者、又は協力した者です。ベック君がそれを理解していなかったとは考え難い。理解の及ばないご友人による失踪ならまだ良いですが、やはり何かに巻き込まれた可能性が高いと思います」

作家は腕組みして押し黙ると、照明の淡い光が差す緑の瞳で紳士を見つめた。

「ミスター・ブエノ……正直なご意見を伺いたいのですが」

「はい、何でしょうか」

「貴方が少年の頼みに応じたのは、彼が『子供』だから、ですか?」

紳士は表情を変えなかったが、言葉に詰まった。

グラスに口を付けたソレルの目が持ち上がる。作家は物静かな森を湛えた双眸で、紳士の逸れようとする眼差しをじっと見た。

「この国で『子供』は重要であり、『失踪』も場合によっては死よりも周囲に影響を与えると聞きました。ベック少年の行動には、『大人』を陥れる可能性が幾つもある。それに貴方が気付かなかった筈がない。貴方がハイリスクさえ容認できる良識人という捉え方も悪くないですが、捻くれた僕には少し物足りない。『子供』には『大人』を動かせるだけの発言権が有ると言われた方が、しっくり来る」

「……先生のご賢察は正しい。現行制度は『子供』の為に作ったものと言っても過言ではありません。理事長――坊ちゃんのお父上は、以前のモンス・マレの荒廃ぶりを案じていらっしゃいましたから」

“荒廃”の言葉に、ニムはちらりとソレルを見た。琥珀色の両眼は紳士を見つめていたが、口を開かずに酒を呷った。紳士は少しも熱の無い声で続けた。

「私が若い頃のモンス・マレはひどいものでした。海にも山にも不埒者がのさばり、国から派遣されるのは賄賂にまみれた役人ばかり……現在の七番街は、当時のならず者らが跋扈ばっこしていた場所です。現在の『その他』の中には、当時、幅を利かせていた役人の成れの果ても居ると聞きます」

「では、あの古い鉄扉は、当時のものなんですね」

「そうです。あれは当時の者たちが、違法行為を隠し、周囲の嘆き苦しむ声を締め出す為のものでした」

「今はそれを、『その他』を押し込める為に使っている」

「優先順位を変えただけと言われれば、否定はできません。しかし、以前のモンス・マレでの『子供』の扱いを思えばこそです。無作為に、無計画に産み落とされ、誰が親かもわからない子や、医療や教育も受けられずに働かされる子、若くして妊娠させられる子、せっかくの命を幾度となく堕胎させる親も居ました」

「『その他』を差別するのではなく、『子供』を優先させたが為に、こうなったと? でも、現在のように不当に扱われる人が出るのは、容易に予測できる。それを黙殺してもこのシステムを適用したのは、他の意図が有ったのでは……?」

「外からいらした方には、不当に映るでしょうが……『その他』に該当するにはそれなりの理由がありますので。最低限、婚儀を交わし、仕事、或いは信仰を保てば振り分けられることはありません」

「『大人』はそれに納得して、反することなく準じたと。現状、『その他』から行方不明者が出ていますが……住民票のリストを提供した貴方なら、それも容認済みのことでしょうか」

「行方不明者……ええ……」

言い淀む紳士の表情は硬い。

「彼らの行先には心当たりがありそうですね」

「……恐らく、山でしょう。“収穫”か“製造”なのかは、私にはわかりませんが」

「ミスター……今、山に潜むのは、かつての不埒者とは比べ物にならない連中です。彼らは自分たちの利益しか考えません。利用できるものは何でも利用し、邪魔になれば排除します。人間と害虫の区別もつかないような者をのさばらせて良いものでしょうか」

「……私どもは、理事長を信頼しています。その意志が決めることに、異を唱える気はありません」

「信頼、ね……」

曰くありげに呟いたのは、空いたグラスを眺めていた理事長の息子だ。

「俺にはわからないよ、セオドア……どうして、お前みたいな人間が、あんな親父を信頼できるんだ」

「坊ちゃん……何が有ろうと、私も妻も、お父上に恩が有ることは変わらない事実です。此処が魔窟であったことも同じこと。より良い方を選ぶのは、人間のさがと存じます」

「お前もオギーと同じか。売られた恩を律儀に買って大事にする。それが親父の手だって……言っても無駄なんだろうな」

虚しく言うと、彼はそっとグラスを置いた。

「美味かったよ、セオドア。次が有るなら、マダムの味に会いたいな」

立ち上がった青年を、紳士は眩しそうに見上げた。

「いつでもお出でください。宜しければ、先生も」

こちらは返す言葉もなく苦笑した。

「こんな素晴らしいディナーなら、何度でも通いたいです。無礼を働いた男で宜しければ」

「無礼などとは思っておりません。正直に申し上げて、私は嬉しい。変われない自分を腹立たしく思う程度には、あなた方が羨ましい」

握手をした手は、まだ若者のようにしっかりしていて温かかった。

「どうか、あの子を捜してやってください」

ニムは頷いた。こういう時は、自信が有ろうが無かろうが頷くものだ。少しでも、やる気と意識があるのなら、応えるのが英国紳士だとボスは言っていた。

先に外へと出ていた青年は、ちっとも酔っていない顔で振り向いた。

「先生、一緒に来てほしい所が有るんだが」

同じようにニムは頷いた。

少しでも、確かに有る「やる気」に従って。

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