7.八番街
「あっ、オギー先生!」
病院に入るなり響いた可愛らしい声に、オーガストは憂鬱な表情を微笑に切り替えた。松葉杖をついてきた子供は、満面の笑顔で院長を見上げた。先週、バイク事故に巻き込まれ、足の手術を受けた少年だ。大抵の『子供』は、この若い院長を親しんで愛称の方で呼び、院長もそれを好んだ。
「先生、僕、だいぶ調子が良いんだ。今日のリハビリでは掴まらないで歩けたよ」
若い院長は小柄な少年の前に膝を折り、目線を合わせて微笑んだ。
「それは良かった。君が頑張っているからだね」
「うん! 早く歩けるようになって、勉強したいなあ」
少年の意外な願望に、院長はおっとりと首を捻った。てっきりスポーツや友人との遊びを切望していると思ったが、座っていてもできそうな勉強とは。
「学校に行きたいということかな?」
「うん、勉強したいんだよ」
「……そうか、偉いなあ。僕なら先に海で遊びたいと思ってしまう」
「先生が?」
何年か前の『子供』なら笑っただろう言葉に、システム導入後の『子供』は目を丸くした。不思議そうに医師を眺め、気遣う様な顔をして頷いた。
「きっと、先生は疲れてるんだね? 忙しそうにしてるもの……僕も先生みたいに、沢山の人の役に立てるようになりたいんだ。だから勉強しなくっちゃ」
「……君には頭が下がる。でも、焦ってはいけないよ。ロビーは人が多いから気を付けて――リハビリは無理せずにやろう。いいね?」
「はい、先生」
にっこりと頷いた子供の肩をそっと叩いて笑い掛け、院長は立ち上がった。
――疲れている、か。
そうかもしれない。なんだか頭痛がする気がした。少年から離れるや否や、待ちかねていたと見えるスタッフが近寄って来た。『子供』を優先させたらしい。
早速切り出される仕事の話題に頷きながら、執務室に向かって歩いて行く。
足が重い気がする。廊下やあちこちから見えない腕が伸び、捕まえてくる気がする。
執務室に戻ると、チェックを待つ書類が積まれ、この数十倍の案件がパソコンに収められている。今からこれを処理するのか。処理する間にもぶくぶくと肥え太るデータの山を。
「院長、どうかなさいました?」
電子パッド片手にくっ付いて来た事務員と、用事があるらしい新米医師たちが、静かすぎる目をこちらに向けている。
「……少し、頭痛がするんだ」
「おや、熱は有りそうですか」
「それは……無いと思う」
「そうですか。頭痛薬を用意させましょう」
事務員がパッドを操作する中、他の連中はお構いなしに書類や資料を持ってきた。
あれはどうする、これはどうだ、一時間後の予定、明日の指示、半年後の話――矢継ぎ早の質問に答える内、正体不明の頭痛は頭を押し潰そうとしてくる。いや、押し潰そうとしているのは……何だ? それとも……誰だ?
若院長はうんざりした顔のまま、指示だけは的確に通し、突っ立ったまま判を押した。水を飲んだ方がいいかもしれない。何故か、誰かの声が耳に響いた。
――オギー、大丈夫か。お前は頭はいいけど、体は弱いんだから無理しちゃダメだ。頑張るのもいいけどさ、『子供』なんだから、程ほどにしなくっちゃ。
「――……もう、違う」
「はい?」
顔を上げると、盆に水を満たしたコップと錠剤を載せた事務員が目を瞬かせていた。
「どうぞ、院長。この後も立て込んでいますから、早くお飲みになって下さい」
「……ああ、わかった」
――『子供』は無理しちゃダメなんだよ。
何の味もしない錠剤を水で流し込み、眉間を押さえてから、間髪入れずに突き出される書類を見た。こんな時でも自分の目は書類を読みとり、頭は正確に理解し、口は弱音でも恨み言でもない指示を喋った。
――オギー、お前もやめちまえよ。こんなこと続けて何になるんだ?
そんなわけにはいかないよ、ソレル。困っている人が居るんだ。僕の助けが必要な人が大勢居るんだ。
――どうかな。お前、やらなくてもいいところまでやってるんじゃないのか。頼られることを全部やってたら、絶対に倒れるぞ。必要とされるのと、利用されるのを間違えるな。
そんなことわかっているよ、ソレル。必要か利用かなんて、僕にはどうでもいいんだ。僕ができることがある。僕にやってほしいという人が居る。僕は、望まれたいんだ。“望まれなかった”僕が、今は皆に求められる。
それは素晴らしい事だろう?
――俺は……お前が『その他』だって構わない。
そんなこと言わないでくれ、ソレル。
僕もお前も、“あんな連中”とは違う――『大人』なんだから。
「こちらを見て頂けませんか、次の会議の内容で――」
薬が効いてくるのを待ちながら、反対に胃の奥が捻じれてくる気がした。
ようやく座った椅子の上には五分と居られなかった。今度は手術、次は会議、関係会社の挨拶もある。
『大人』なんだから。
『子供』には掛けられる言葉が、有る筈もない。
用心して開けた扉の向こうは、思った以上に損傷が激しかった。
……と、思ったが、実は損傷は元からで、先程の衝撃音とは無関係らしい。
八番街はいわば沈み込むような峡谷の町だった。一番街である海岸沿いから見上げた時、如何にも傷んだこの界隈が見えなかったのは、七番と九番の建物に挟まれたⅤ字の谷だった為だ。並んでいる家々はこれまで見てきたよりもずっと小ぶりで、先程歩いて来た通路と遜色ない路地が長く伸びている。パイプや電線が危ういラインを交差させ、薄暗い道は汚れ、壁が剥落した破片が散乱し、配管から零れる水が垂れ落ちる排水溝は黒ずんでいる。
錆び付いた音を立てて開いた鉄扉の先には誰も居なかったが、すぐ近くで小麦袋が叩き付けられるような音がした。誰も居ない狭い道を抜けていくと、野太い悲鳴が聞こえてきた。
「なあ、先生……どうも、知り合いみたいだ」
「じゃあ、あの声は――」
角を曲がったとき、ようやく人の姿が見え始めた。木製タグを付けた数人の人々が、大人が四人並んだら一杯の道で起こった騒ぎを、怯えた目で見つめている。
洗い過ぎてヨレたシャツや、擦り切れたジーンズの人々の見る先から、不意に誰かがぶっ飛んだ。こちらの足元に背から滑り込むように落ちてきたのは、見るからにアウトローと思しき面構えの大男だ。
「こないだのブタじゃないか」
両腰に手をやったソレルが覗き込むが、男は苦悶に顔を歪めて返事もままならない。
視線を上げると、揉めている――というより、一方的にぶん投げられた男と、ぶん投げた男が立っていた。そのすぐ傍らで青い顔で立ち尽くすのは、マードック・モロウだ。彼はこちらに気が付いたが、先に声を上げたのは、全く別の人物だった。
「ソレルじゃない! ねえ、どうにかして!」
近付いて来たのは壁際に立ち尽くしていた女だ。花柄のワンピースに包んだふくよかな体形を弾ませる様にやって来ると、すかさず男の腕を抱き寄せる。
「マッドがね、あたしがあそこの良い男に色目使ったとかバカ言うから、この有様! ねえ、そんな言いがかりヒドイと思わない? 色目じゃなくたって良い男が歩いてたらそりゃあ見るわよ! でしょ? あんな良い男、ホテルにだって滅多に居ないんだから!」
ピンクの口紅でまくし立てた女に、うんざりした顔を隠しもせずにソレルは首を振った。
「わかってるから落ち着いてよ、ミリー。つまりさ、俺はどうしてやればいいの? あの良い男にマッドが殴られるのを阻止しろってこと? それともあの男の代わりにマッドを殴れってこと?」
「そんな恐ろしいこと、あんたに頼めないわ。とにかく、あいつらの喧嘩を止めて。あたし、こんな往来でさらし者になるのは嫌なの!」
さらし者の意味を彼女が理解しているか気になったが、内容は穏便な淑女の頼みだ。
一方、マッドの方は振り上げた拳を下ろすのに難儀しているらしい。圧倒的に強い相手を前に虚勢を保ち続けるのは大したものだが、殴り掛かる為の気迫は足りないようだった。
ニムは、女が散々褒めちぎった良い男を見た。
黒い上下に身を包んだ大柄な長躯は、廃墟に立たせた俳優かモデルのようだ。無造作な黒髪の下、こちらを見た双眸は吸い込まれるような闇をしている。薄暗い中でうっすらと浮かべた笑みは、今は温かさよりも得体の知れない酷薄さが勝っていた。
「こ、……この……! 何処見てやがる!」
讃嘆すべき勇気を奮い立たせたマッドの拳が振り上がるが、男はそちらを見なかった。決まると思われた拳だが、見向きもせずに大きな手が掴んだ。豪速球がミットにぶち込まれたような音が響き、コンクリートで固められたようにぴくりとも動かなくなった己が拳にマッドが息を呑む。その青い顔が、鉄拳という言葉がぴったりの拳に殴られる――と、周囲が緊張した時だった。
「ブラック!」
響いた声に、美男の拳が止まった。口から心臓を吐きそうな顔をしているマッドが衝撃波を感じたろうパンチを取りやめ、男はこちらを見た。
「もういいのか、先生」
数多の女の耳を溶かしてきたバリトンに、ニムは頷いた。
「彼に話した。その人も離してあげて」
にこりと微笑んだ彼は、間髪入れずにぱっと片手を離した。レスラーめいた大男は風船が萎むみたいにふらりふらりと後退して、ついには座り込んだ。
すっかり意気消沈したマッドが、励ましか文句かわからない声を立てる女に引っ張られる様に去っていった後。路面に放り出されたかわいそうなアウトローを軒下に収めると、ソレルは両腰に手をやった。
「何処かで見た色男だな」
薄笑いをしている色男に顎をしゃくった彼は不機嫌そうだった。
「俺の記憶じゃ、ホテルじゃないかと思うんだが」
その通り。
まあ、無理もない。我々は一度顔を合わせたが、その時は互いに知らん顔をした。
花瓶を運んできてくれたとき、すぐに彼だと気付いたが、潜伏先で出会ったときは慎重に声を掛ける決まりだ。ブラックの場合、彼から注意喚起がない場合は、こちらが名前を呼んだ時と決めていたので、黙っていたのだが。
「……ったく、マダムの男にしちゃ上等過ぎると思ったが、エージェントとはね」
「すまない。あの時は、君に情報を開示するか決めかねていて」
「別にいいけどさ……お仲間は随分、タイプが違うんだな」
すらりとしたソレルさえ仰ぐ高身長の男は、薄笑いのまま首を振った。
「仲間というか、先生は親友だ」
魅力的なバリトンから出た余計な一言に、ソレルは訝し気にニムを見た。
「ひょっとして、くしゃみの人か?」
頷いたニムに、今度は黒い美男の方が首を捻る。
「くしゃみ?」
「あー……後で説明するよ、ブラック」
彼が何か言い出す前に、非常勤は久方ぶりに会った頭一つは高い長躯を仰いだ。
「レディは来ていないの?」
「さあ。俺は師匠に急かされて、前の仕事から直行したから」
「それは悪かった。疲れているだろうに」
以前の任務先を彼は口外すまいが、この地に近い可能性の方が低い。悪びれるニムに、ハンサムな親友はいつまでも微笑んだまま軽く首を振った。
「気にしなくていい。仕事だ」
女性ならイチコロだろう笑顔に頷いていると、苛立ち混じりの咳払いがした。
「先生、そろそろ、その色男が誰なのか紹介してくれ」
腕組みして言ったソレルの琥珀色には、微かに警戒が滲んでいる。確かに、知らぬ者からすれば、この色男はバカ力が常人のそれではない。おまけに、この理由有って常に浮かべている笑みは勘の良いものほど怖いだろう。
「ブラック・ロス。ブレンド社ご自慢の実力派社員だ。――ブラック、こちらはソレル・クランツ。この町の有力者のご子息で、僕から協力を頼んだ」
「はじまして、ミスター・クランツ。先生が世話になった」
「どう見ても兵士かSPだなあ……」
ぼやきながらソレルが差し出した手を大きな手で包むと、ブラックは微笑んで小首を傾げた。
「間違ってはいない。俺は元・民間軍事会社の兵士だ」
「軍事会社?」
あまり良いイメージを抱いていないらしい青年は、明快にタイプが異なる二人のエージェントを見比べて眉を寄せた。
「各地で暴れ回る戦争屋が、なんで調査会社に居るんだ?」
「もう組織とは関係ない。某国の皆殺しに遭った際、残った俺をボスと師匠が拾って――……」
壮絶な過去をすらすら喋ろうとする男の前に、ニムが手をかざして立ち塞がった。
「ブラック、前から言ってるが、その話は安易にするものじゃない。ソレルも、すまないが彼の過去を掘り返すのはやめてくれ。心配しなくても、彼は良い奴だし、バーで殴り掛かって来たジャンキーにアイスクリームを驕るような男だ」
二人の男が妙なものを見る目でこっちを見た辺り、話題の選択をミスしたかもしれないが、事実だ。正確には、幻覚症状で暴れた男を彼は有無を言わさず灰皿で殴り、相手が連行される前にアイスクリームを食べたいとかべそべそ泣き出した為、望み通り買ってやった。……仰向けに倒れた腹に置かれたアイスを食べられたかどうかは知らないが。
「よくわからないが、俺たちより年上だよな? なんでいつまでもヘラヘラして……」
薄気味悪そうな問い掛けに、ブラックはいつもそうである笑顔の口角をむしろ引き上げた。
「気に障ったのならすまない。癖なんだ」
「女を引っかける為か?」
「女? それは別に笑っていなくても――……」
「こらこら、お互い真っ向からぶつかるんじゃない。いいかい、ソレル……彼は僕と同じく出生が不明で、気付いたら軍事会社に居たんだ。笑顔で居ることが都合が良かったからそのままになってしまっただけで、他意は無いんだ。同情しろとは言わないが、勘違いしないでやってほしい」
鋭い琥珀色と、深い闇はしばし見つめ合い、琥珀の側が先に逸れた。
「……確かに、無礼なのは俺の方だな。不躾な言い方して悪かったよ、ミスター」
「謝ることはない。慣れている」
慣れる程言われているのかと、ソレルが苦笑したところでニムはほっとした。
全く、規格外のハンサム同士、大らかにしてほしい。
「ところで、どうしてマッドと揉めてたんだ? 本当にミリーの所為じゃないだろ?」
「そうだと思うんだが……」
気絶したままの男たちに向けてやんわり苦笑しながらのブラックによると、八番街で聞き込みをしていた際、ミリーと呼ばれた女性に話しかけたところ、突然、マッドらが絡んできたらしい。
「それこそ、よくあることだな」
ソレルが呆れ声と共に首を振る。
「ブラックは此処で何を聞いていたんだ?」
「ベック・ラン“以外”の行方不明者について」
「以外? ベック本人ではなく?」
顔を見合わせたニムとソレルに、男は小さく首を振った。
「ベックに関しては先生が居るから、控えていた」
「そう言われると、僕はレディにしばかれなくちゃならないんだけど……」
影さえ見ずにカスタード・タルトを頬張っていたと知れたら、平手打ちぐらいは飛んでくるだろう。敏腕エージェントは苦笑してかぶりを振った。
「良いんだ。別方面で動いてくれただけで俺はやりやすかった。彼も目を引く」
笑いかけられたソレルが、居心地悪そうに頭を掻く。
「……行方不明者の話は俺も聞いてるが……誰とも交流しなかった奴も居て把握しきれなかった。何人ぐらい居たんだ?」
「確認できただけで、72名。住民リストの整合性が怪しいが、本格的に消え始めたのは二年前だ」
これにはソレルが何か言うより早くニムが唖然とした。
「72! 多いな……ひと月に三人は消える計算だ。二年前というと、君が親父さんの所を出た辺りからか」
黙って頷いた面持ちは、何か思案するようにも見えた。
「ミスター・ロス……その中には、『大人』に格上げた奴も居ないんだよな……?」
「ブラックで構わない。――ああ、居ない。リストを渡してくれた人物がそう言った」
「リストを……? うちの社が調べていたんじゃないのか?」
「今回の情報提供者が渡してくれた。先生も会っていると思うんだが」
「? ……ちょっと待ってくれ、ブラック。今回の件をリークしたのは、ベック・ランだろう? 四番街に住む『子供』で……」
「違う。情報提供したのは、セオドア・ブエノ元医師だ」
『なんだって?』
声をハモらせた二人の青年を、幾らも光らない目が見やり、微笑んだ。
「ミスター・ブエノが、ベック・ランを名乗ってウチに情報を流した」
「いや、そうじゃなく――レディは……気付いて――……」
狼狽えるニムは、ようやく気付いた。
先程、ブラックは「前の現場から直行」と言った。
女性一人では怪しまれるからと単独潜入を渋った女は、うってつけの男と同伴して来なかったということだ。……つまり。
ブラックはあっけらかんと答えた。
「いつもの手だろう。彼女が先生で釣りをしながら投網を放るのは。事前調査でベック・ランが『子供』という調べはついていたんだ。その上で、子供らしからぬ文体を疑わないスタッフは居ない。すぐにミスター・ブエノに行き着いた。彼がその名を騙ったのは、その名前に反応する者を炙り出す為だ」
「いつもの手、ねえ……」
ソレルの半ば呆れた視線に耐えかねて、ニムは脇を向いた。
仰る通り、何度やられたかわからない、いつもの手だ。餌、囮、……言い方は色々あるが。
「……じゃあ、顔も知ってたんだ……?」
「ああ。優秀な学生だったから、他国の生徒と通信での文化交流に参加していたそうだ」
天を仰ぎたくなる気持ちを抑えて耳を傾けると、交流会を主催した学校に映像データが残っていたという。ニムには『大人』と思わせたまま現地入りさせ、その手掛かりを探させる。不審に思う現地人が現れてもヨシ、本物の彼を知る人物と接触できればヨシ、この件が陰謀なら、ベックの名、若しくはこちらの顔で釣れる。
……伊達に囮生活は長くない。しっかり油断して泳いだぞ、レディ。
「大丈夫か、先生?」
背をさするような優しいバリトンが響き、端末に映る少年の姿を確認したニムはどうにか頷いた。
「大丈夫。話を戻そう……ブエノ氏はベックとどういう関係だったんだ?」
「度々、相談を受けていたと聞いている。彼らがベンチで話している姿を何度か見た人も居た」
「相談というと……それは所謂、恋愛とか、結婚の?」
無論、ベックの結婚相手云々の話を思い出して聞いたのだが、ブラックの薄笑いが消えた。彼は驚くと笑顔の膜が一瞬剥がれるのだが――まあ、とにかく見当違いも甚だしい発言をしたということだ。彼にしては困った様子で眉を潜めつつ、微笑を浮かべ直して答えた。
「恋愛ではなく……世間で言う『進路相談』だな。ベックは医師を志していたそうだから」
「医師ねえ……そんなら、セオドアに相談するのはわからなくもないが……」
ソレルが顎を撫で、訝しそうに言った。
「……だったら、なんで俺に言わなかったんだろう?」
「君には言わなかったのか? 病院に出入りしていたのに」
「……親父のことを気にしたのかもしれない。……或いは、病院を……」
思案顔になった青年は、すぐに思い直した様子で首を振った。
「いや、そんなことよりあいつを捜した方がいいんだろ? 色男サンは何か掴んでないのか?」
「俺は彼を捜しに此処に来たわけではないが、八番街には居ないと思う。制度上、此処に『子供』が住まないなら、一歩でも踏み入れば目に付く。此処の人たちが、『子供』を誘拐しても損にしかならないし、匿う余裕が無いのも明らかだ。精神面からの誤りだとしても、目立つことには変わりない」
「先生と同意見てわけか。尤もだな。じゃあ、次はどうする――」
ソレルが言い掛けた時、ふとブラックが腕時計を確認した。
「すまない、先生。俺はそろそろ戻らないと」
「へ? 何処に?」
てっきり合流したものとばかり思っていたが、彼は薄笑いのまま「しっかりしてくれ」と幅広の肩の上で首を捻った。
「ホテル・マルガリータに。オーナーのマダム・クラヴィスの傍に『
「『果樹園』と……」
思わず、辺りに人の気配がないか見渡してしまうが、闇のような目は落ち着いていた。『果樹園』のスタッフが傍付きになるということは、彼女が関係者である証だ。この自治区では屈指の経済王であろう彼女が関わりない筈が無いが、身近に奴らの仲間を招き入れるということは、何かを――というよりこちらを警戒しての行動か。
その彼女の間近に居るということは、呑気に宿泊客を装っている自分とは異なる。
危険では、という言葉を言い掛けて呑み込んだ。この男にそんな言葉は愚問だ。
「連中の余計な気遣いでマダムは得したな」
ソレルのぼやきは仰る通りだ。ホテルや宝飾店に居た誰よりも、彼はハンサムだ。
――その分、全く気のない裏切りも凄惨なのだが。
「じゃあ先生よ、俺らはどうする?」
作家は自身の時計をチェックした。午後五時。そろそろ視界が薄暗いが、まだ夜と呼ぶには早い。ニムは伸びている男らを振り返り、首を捻った。
「彼らのボスに話を聞きたいな。……ブラック、行く前に少し手伝ってくれるかい? 野晒しではかわいそうだ」
闇に沈み始めた美男は、にこりと微笑んで頷いた。
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