6.紳士と院長
タルト片手に行く海岸沿いの街並みは、平日だというのに今日も賑わっている。
休憩中に人の作品を散々冷やかした同行者は、何やら考え事をしている。
ベック・ランと失踪前に話した内容について引っ掛かっているようだが、思い出せないそうだ。
初日に降り立った場所は変わった様子もなく、波音をBGMに観光客と地元住民の楽しげな往来が見て取れた。つい、首元に注目してしまう人々の中には、プレートを下げたネックレスの他に、ロザリオにも似た数珠状の首飾りを下げている人が居る。
太陽か菊のようなモチーフをぶらさげた見たことのないそれは、日差しに金貨のようにキラキラとしている。そういえば、信仰は『大人』となる条件に加えられていたし、港の一等地に見える古い聖堂はステンドグラスが見事だと聞いた。土着の信仰が失われつつある世の中で、いまだに信仰を集めているようだ。
「こんにちは」
声を掛けたニムを、老紳士は帽子の下から仰いだ。
「おや、貴方は……」
「こんにちは。今日も良い日和ですね」
手にしていた新聞をそっと折り畳んだ老紳士は物柔らかな皺を刻む。考え事をしていたソレルが「おや」という顔をした。
「あれ、セオドアじゃないか」
老紳士もまた、同じような顔で二人の青年を見比べた。
「ソレル坊ちゃん……これは奇遇な。ご友人でしたか」
青年らは顔を見合わせてから、曖昧に頷いた。
「まあ……そんなところ。久しぶりだな、セオドア。さっさと引退しちまうから、オギーは苦労してるみたいだよ」
「はは、おかげさまで隠居生活をのんびり過ごしております」
「隠居するような腕じゃなかったと思うけど。先生とは、どういう知り合いなんだ?」
「先生はよせ。初日に声を掛けられて、あの菓子店を、紹介してもらったんだ」
「もしや、こちらの方も医師ですか?」
意外そうな声に、先に首を振ったのは何処に行ってもお坊ちゃんの方だった。
「彼は作家だ。編集者に催促されるくらいの売れっ子」
あれは催促というより脅迫だが、ニムは気恥ずかし気に頭を掻いた。老紳士は、合点がいった顔で頷き、感心した様子でこちらを見上げた。
「それはそれは……お若いのに物を書かれるとは素晴らしい」
「いえ、貴方の方が偉大なお仕事をなさっていたようです。お医者様だったんですね」
そう意識すると、品の有る装いも賢そうな目もそうとしか見えなくなる。
「とんでもございません。せいぜい、決まった薬を頼るぐらいですよ」
謙遜する姿勢まで、名医の貫禄がある。
「セオドア・ブエノと申します」と、紳士はにこやかに名乗った。握手を交わした手は、同世代のそれよりも艶があり、しっかりしているように思えた。
「何のお医者様だったのか伺っても?」
「しがない麻酔科医でございます」
「それはすごい。手術には欠かせない方だ」
「いえいえ、私は直接、治して差し上げることはできませんから……」
「しかし、多くの分野の知識を要するでしょう? 薬物は当然でしょうし、呼吸器学や解剖学にも通じる必要があると聞きます」
「いやはや……作家というお仕事は医学にも造詣が深いのですか。さよう、万に一つのミスも許されない仕事ですから、
ちっとも
「彼と親しいようですね」
「はい。坊ちゃんは生まれた時から存じております。最近はよく下でお見掛けしますが」
「遊び歩いてるって言うんだろ。お説教は勘弁してくれよ」
肩をすくめた男を紳士は眩しそうに仰いで微笑んだ。その視線の先には銀のプレートがある。
「今日はご様子が異なるようですね。先生の影響ですかな」
「滞在中、取材の手伝いを頼んだんです」
微かに、紳士の目が揺らいだようだったが、彼はすぐに微笑した。
「取材……はて、私は作家のお仕事には詳しくないもので」
「ただ、周囲を歩き回ってお話を伺う程度のものです。この町のシステムに興味が有りまして。『その他』なんて括りを公的に設けているのは此処、モンス・マレだけですから」
「『その他』の……そうでしたか」
動じた風もなく頷いた紳士は、山の方を見上げた。家を積み上げて出来たような山の上には、巨大要塞のように白くそびえる病院がある。
「ミスター・ブエノは、『その他』を、どのようにお考えですか」
ニムの問いに苦笑した紳士は、苦笑混じりに首を振った。
「こんな老いぼれの意見なぞ、参考になりますまい」
「ご気分を悪くなさったのなら謝ります。……でも、貴方はこのシステムが施行される前を経験なさっている『大人』の世代です。変化を感じておられるのか、気になります」
「……なるほど、人気作家とは鋭いご賢察をお持ちの様だ」
紳士のうっすらと青い目は、白い施設に細められた。
「ミスター・ハーバー……医師をしていた私にとって、『人』は等しく『人』です。そこには『子供』も『大人』も『その他』もありません。どんな人間だろうと、病院に運ばれてくれば、何者であろうと治す為に尽力してきました」
「病院に運ばれてくれば、ですか」
元・医師は、ひどく切ない微笑を浮かべた。
「賢い御人だ」
その優しげな視線が、ふとニムたちの背後に送られた。そこには、買物帰りだろうか、大きな袋を抱えた男と、同じように何かの袋を抱えて帽子を目深にかぶった女が立っていた。男は観光客よりもラフな恰好にサングラスをかけ、足は健常に見えるのに杖をついている。女はぽっちゃりとした体つきをもじもじとさせ、落ち着かない視線を周囲にやり、ニムと目が合うと慌てて逸らした。
「恐れ入りますが、知り合いが来たようです」
申し訳なさそうな紳士の言葉に、ニムはタルトが入った紙袋を差し出した。
「不躾に色々と聞いてすみませんでした。教えて頂いた店に行きましたので、宜しければ、親しい方とご一緒にどうぞ」
思いもよらぬ贈り物といった顔をしたが、紳士は嬉しそうに受け取った。
「これはこれは……お口に合いましたか?」
「今まで食べたカスタード・タルトでは一番です。女性誌のコラムに書かせて頂きました」
「先生のファンが殺到しそうですね」
お話しできて良かったと言ってくれた紳士は、大人しくしていた青年を振り返った。
「坊ちゃん、たまにはお父様のお顔を見に帰ってあげて下さいませ」
「……気が向いたらね。セオドアも体に気を付けろよ」
深々と頭を下げた紳士と離れると、待っていた二人がそろりと近付き、何事か話し掛ける。その様子を肩越しに見てから、ニムは先を行くソレルに並んだ。
「さっきの人たち、誰だかわかるかい?」
今は金に輝いて見える目が、視線だけこちらに向き、すぐに前に逸れた。
「知らない」
「そうか」
彼は建物の陰で立ち止まると、体ごと確とこちらを向いた。陰った琥珀色には金の代わりに咎める色が差している。
「なあ、先生……わかっていることを確認したがるタイプか?」
「なんのこと?」
「とぼけんなよ、さっきの連中が『その他』だって気付いてる癖に」
「そりゃ、僕じゃなくてもわかるさ。男性は目の病があるようだったし、女の人は心に何か抱えているようだった。此処では個性が一つ目立っていれば、『その他』の確率が高まるからね」
「……視力が良いだけにしときゃいいのに」
舌打ちした男がぷいと背を向けて歩いて行くので、ニムは苦笑混じりに追った。
「心配しなくても、あの人がどんな『人助け』をしようと、通報したりしない」
「その方があんたの為だ」
「思った通り、君は良い奴だな、ソレル。雇って良かった」
彼は再び立ち止まり、背を向けたまま両の腰に手をやって大きな溜息を吐き出した。
「男に褒められるのは薄気味悪い。何を企んでるんだ?」
「作家が企むことなんて、『如何に締め切りを引き延ばすか』ぐらいじゃないかな」
「だから、とぼけるなっての。俺があんたを見張るつもりで協力してるのは、もう気付いてるんだろ?」
「うーむ、君は勘も良い。じゃあ白状するが、散歩がてら、物見遊山をしたいんだ」
「物見遊山ねえ……」
勘のいい男は、ホテルの方向とは別の――山の方を仰いだ。
「嫌な予感が三つ浮かぶな」
「気が合うね。僕の選択肢も三つだ」
ソレルは嫌そうな顔で振り向き、雇い人を指差して忠告した。
「足が遅いくせに欲張りだな。一つにしなよ。できれば、“此処から一番近いところ”に」
地元住民のアドバイスに、作家はにこりと笑い返した。
「そうしよう。八番街に案内してくれ」
「……やっぱり『その他』の住む場所狙いか。ベックのことはいいのかよ?」
周囲に配慮してか、密やかに呟く声に、ニムは首を振った。
「良くないから行くんだ。君が思い出せる情報があれば何よりだが、それが見込めないなら、彼の手掛かりは八番街に有ると思う」
「なぜ?」
「『子供』を大切にしている町で、当局は『子供』の味方に決まっているよね。それなのに、彼は両親を含む『大人』を頼らなかった。外部の人間に正体を隠して連絡を寄越し、『その他』に理解有る君に遠回しなメッセージを残している。その真意は不明だけど、わかるのは、彼が『大人』に話せない事情があるということだ」
「あいつを……『その他』が誘拐したかもしれないじゃないか」
「それならそれで八番街に行くのが丁度いい。ただ……思うに、『その他』にとって誘拐はハイリスクだ。この国は脱出経路が限られているし、『その他』には他国で通用するパスの発行も無いんだろ? 犯罪歴で『その他』に転落するなら、『その他』が犯罪を犯した場合は更に厳しい処分になるはず。誘拐の線なら、『その他』に罪をなすりつけられる側の方が怪しいが、この振り分けルール自体、『その他』を差別すると同時に、『子供』への教育と『大人』と『その他』の犯罪抑止になっているのは明らかだ。自ら進んでその道を選ぶなら、誘拐よりもやりやすい犯罪を選ぶと思うね。――その『子供』に特別な理由がない限り」
一定の配慮をしたつもりだが、ソレルは周囲を見渡して更に声を潜めた。
「先生は……誘拐だと思うか?」
「狙われた可能性はあるけれど、彼が捕まった可能性は低いと思うよ。ベックが直接、親に嘘を吐いている点も含めて。そうでないと、『その他』でもないのに、僕らのように真昼間からうろうろしている『大人』が多すぎる」
「……観光客に紛れてるんだな?」
「ああ。この国は人種が多種多様だから、僕にはどちらか判別し難いけれど」
「地理的に見づらい……なんて、あんたには通用しないか。見える範囲は見えるんだろ?」
「透視じゃないから、隠れていれば見えない。でも、こっちを見ている人間は比較的、見やすいんだ。先程の紳士が居る場所はかなり見られていた。悪意のある視線ばかりじゃないようだけどね」
「セオドアが……そうだろうな――……」
何か思い当る節があるように、ソレルは顎に手をやり、頷いた。
「……わかったよ、先生。お望みの場所に案内してやる」
青年は高台に向けて顎をしゃくった。
「だけど、八番街は距離は近いが一番遠回りだぜ。俺の言い方が悪かったが、あそこはケーブルカーが停車しない。一度、十番まで行って下る必要がある」
「君の家には停まらないのか?」
彼は頭が痛そうに眉間に拳をやると、首を振った。
「停まる。……が、九番と八番の間はフェンスで隔たれて、通行できる道はない。八番に繋がる道は、十番と七番との直通通路だけなんだ。七から上がっても構わないが、十から下る方が楽。どうする?」
迷うことなく後者を選んだ作家は、気怠そうな案内人を連れ、意気揚々と黄色いケーブルカーの方へと向かった。
「理事長、貴方のビジネスパーソンが半狂乱よ」
部屋に入るなり言い放った女に、二人の男が振り向いた。
マダム・クラヴィスのそれとよく似たオフィスの主人は執務椅子に座したまま、刃物のような灰色の目を細めた。薄い金髪の下、五十をとうに過ぎて尚衰えを知らぬ面差しを女に向ける。
「マスカット、来客中だ。後にしろ」
厳しい声の男の前に立っていたのは、息子ほど若い男だ。スーツにきちんとネクタイを締め、癖のある赤毛は少年のような印象を受けるが、その下の色白の面はどこか病みやつれたように老けて見えた。
「あら、失礼。ミスター・ジェファーソン、いらしてたのね」
上司の叱責をものともせず、ソファーに腰掛けた女に、若者は軽い会釈をした。
女はその中身を見透かすように見つめ、背もたれに身を預けて萌黄色の爪を撫でさすった。
「この時間に院長が出歩くなんて……何か問題でもありまして?」
「後にしろと言った筈だ」
先程よりも強い調子の声に、若者の方がかぶりを振った。
「いいんです、クランツ様。僕はそろそろ仕事に戻ります」
「……オーガスト、あまり無理はしないように」
頷いた若者を、女は金髪の隙間からちらりと見る。
「もうお帰りなの? お茶もお出ししていないのに」
「お気持ちだけで十分です。ミズ・マスカット」
愛想笑いもそこそこに退室していく背を見送った女は、椅子から微動だにしない上司の方を向いた。
「秘書の私を差し置いて内緒話をなさるなんて、どういうおつもり?」
「気になるなら、盗聴器から聞き直せばいい」
厳かに答えた男に、女はフンと鼻を鳴らし、再び自身の指先を眺め始める。
「マルガは何だと?」
「理事長が電話で聞いた通り。自分のホテルに厄介な虫がたかって、頭に来てるの」
男は重苦しい溜息を吐いた。
「ブレンド社の噂は聞いている。君たちとはどういう関係だ?」
「私たちの仕事にたかりに来るコバエ。所謂、猫と犬の関係ね。こういう閉鎖環境にはあまり口を出してこないのだけれど……血気盛んな年増がいるのよ。今回も、あの女が焚き付けたんでしょうね。先生が来ているし」
「先生……それが例の作家か。何者なんだ?」
「名前はニム・ハーバー。うっすいベージュ髪と緑色の目をした白アスパラよ。確か三十くらいで……ああ、お宅のお坊ちゃんか、ジェファーソン医師と同じくらいじゃない? まあ、この男は調査会社に捨てられた正体不明の人間だから、本名や出身国は不明。作家活動をしながら、取材と称して、調査会社の仕事もしている。作家としてはまあまあらしいけど、ブレンド社としては他のスタッフの足元にも及ばない。唯一、長所を上げるなら、目がずば抜けて良いの」
「目が良いぐらい、そこらに居るのでは?」
「常人とは一緒くたにできないわねえ……先生は目だけが規格外。目ざといのは別の才能でしょうけど、高層ビルの上から個人を見分けられるとか、十メーター以上離した本の文字が読めるとかって話。でも、それだけよ。夜目は利かないし、見えるからといって、ハンティングやバッティングセンスが有るわけじゃないわ」
「では、その男は斥候か。他のスタッフはもう来ているのか?」
「まだ未確認だけれど……先生には必ずと言っていい程くっついてくるヤバいのが居るわ。それらしいのを部下が見たけど、背格好に騙されている可能性もあるから、マダムには黙っていて。騒がれちゃ堪らない……外見が女好みで厄介だから」
「……成程、マルガには毒だ。名は」
「ブラック・ロス。でかい図体をした、黒髪に黒目の男よ。三、四十ぐらいの……某国の軍事会社出身で、武器の有る無しに関わらず、腕が立つ。できれば近付かずに仕留めたいけれど――そう上手くはいかないでしょうね。ブレンド社に関しては、理事長は知らぬ存ぜぬがいいわ……煙には、火が要るもの」
「目の良い斥候と、軍事会社に居た男か……」
嫌な組み合わせだ。力技で退けようとも、最終的にはペンの火力が待っている。女は指先を眺めるのに戻り、足を組んで言った。
「理事長、私が言うのもナンですけど、マダムの言う通り、お坊ちゃんを呼び戻した方がいいんじゃないかしら? ブレンド社に取り入って、何かするつもりなんじゃなくて?」
男は椅子を回し、窓辺を見上げた。
「……あんな息子如きに何ができる。放っておけばいい」
「ふうん……うちの者が誤って殺しちゃうかもしれないのに?」
「マスカット、何度も言っているが、街中で殺しは許さん。『
女はふっと前髪を吹いて、ひじ掛けに頬杖をついた。
「そうよお……理事長。うちは稼ぐことが第一。だから、ビジネスを妨害する者は排除する。作物を食べる虫を始末するのといっしょ」
そこで初めて、女はルージュを引いた唇を笑ませた。
「害虫が何処の生まれかなんて、いちいち調べないでしょ? 息子が大事なら、用心なさい。せっかく作ったシステムが、自分の子供を殺す羽目になるのは嫌でしょうから」
返事の代わりにきつく眉を寄せた男をたっぷり見つめ、女は背を向けた。
「何処に行く」
「例の『子供』を捜すわ。マダムもうるさいし、ほっといても良かったんだけど、ブレンド社に見つかると面倒なことになるかもしれない」
男は再び、窓辺に目をやった。
そこからは、白い城のような病院が見えた。
モンス・マレに二つ路線が有るケーブルカーは、パステル・デ・ナタにも見た黄色いボディが愛らしい。先にお目に掛かった十番街は、山頂に両翼を広げる白い巨鳥のような病院が全てを占めていた。旧い城を思わす白煉瓦の柱やアーチが各所に立ち並び、入り口に向かって伸びる道の左右には、綺麗にカットされた生垣や、ヤシの木が生えた庭もある。病院よりも、城や寺院の趣がある建物には、用が有るらしい人々が、それこそ巡礼者のようにぞろぞろと歩いて行く。
「先生、こっちだ」
気を取られていたニムをソレルが手招いた。ケーブルカーの停留所から病院を右に見る通路は狭く、病院に立ち入るのを阻むような高い塀とフェンスがある。向かう人間は誰も居ない通路に歩み出そうとしたとき、後ろから声が掛かった。
「ソレル? ……ソレルじゃないか?」
振り返ると、スーツ姿の赤毛の青年が立っていた。じっくり見てようやく同世代の若者とわかる男は、病院に向いていた足をよろめくようにこちらに向けた。
「久しぶりだ……お前、何処で何をしてるんだ?」
美青年は肩をすくめた。歓迎しているとは言い難い琥珀色の目を若者に向け、小さな溜息を吐いた。
「オギーこそ、こんな所で何してるんだ? 院長が留守にしていいのかよ」
病院に顎をしゃくる青年に、相手はゆるゆると首を振った。
「僕は……君の親父さんの所に行ってきたところだ」
そこまで言うと、彼は事の成り行きを見つめていた作家をちらりと見た。
「ソレル、こちらは……」
「ミスター・ハーバー。諸外国に人気の作家だ。今は取材旅行中で、俺の雇い主」
話す度に過大評価になるのが気になったが、訂正する間もなく、若者から丁寧な会釈を受けた。
「オーガスト・ジェファーソンと申します。高名な文学者の方にお会いできるとは光栄です」
「ニム・ハーバーです。高名だなんてとんでもない、つまらない道楽作家です。それよりも、先程、院長と聞こえましたが……」
「あちらの病院で院長を務めていますが、お飾り程度ですよ」
「さぞ、優秀なお医者様なのでしょうね」
「……スタッフが優秀ですから」
苦笑混じりにさらりと言うと、若院長はそっぽを向いている男に振り向いた。
「何をしているかと思えば……まさか、作家になるなんて言い出さないよな?」
「オギーさあ……俺に文才が有ると思う?」
「無いとは思わない。お前は“優秀だった”」
ソレルは顔を背け、面倒臭そうに頭を掻いてから両の腰に手をやった。
「俺たち、用事があるんだ。お前も仕事があるだろ?」
若院長は眉を寄せて、まともに向き合おうとしない琥珀を覗き込んだ。
「……ソレル、いい加減、戻って来い。親父さんには僕が話してやるから――」
「はあ? お前、何様のつもり? 俺にまで院長ヅラするのはやめてくれ」
些か乱暴な返事に、院長も負けじと眉吊り上げた。
「何様はどっちだ……! 親父さんの気持ちも考えろ!」
「知るか! 金欲しさに町を売った奴の気持ちなんて……知りたくもねえよ!」
「ソレル……!」
激高した若院長の手が、ソレルの襟元を掴もうとした時だった。
横で雷鳴のようなくしゃみが響いた。二人の若者がぴたりと動きを止めた。
離れた往来の人々さえ振り返るほどの粗相をしでかした作家は、慌ててハンカチを取り出し、気まずそうに苦笑した。
「失礼。どうも慣れない土地に来るとむずむずして……此処には耳鼻科もありますか?」
「……もちろんです、ミスター」
くしゃみに出鼻を挫かれた院長の手が下ろされ、物言いたげな愛想笑いを浮かべた。
「いらっしゃるなら、担当医に紹介しましょう」
「いやいや、院長殿のようなお忙しい方にそんなお手間を取らせるわけには参りません。さっさと用を済ませて帰るのが一番です」
「そうですか……」
院長はちらりとソレルを見たが、琥珀色の双眸は作家の方に逸れた。
「先生、待たせて悪かった。行こう」
「良いんだ。――では、失礼します、ミスター・ジェファーソン」
置き去りにされる子供のようにこくりと頷いた男に背を向け、二人は誰も居ない道へと歩き出した。院長はしばらく見送っていたが、病院へと足を向けたようだった。
前を行くソレルの足は、これまでよりも速い。
ニムは急ぎ足で追いながら、興味深そうに道を観察した。塀とフェンスの向こうが整備されているのに対し、こちらの道が適当なのは明らかだった。少し歩いただけで傍らの白かった塀は黒ずみ始め、
しばし進んだ先に、開けることが躊躇われる程度には危険な様子の鉄扉が有った。鍵は掛かっていなかったが、全体は茶色く錆び付き、鉄格子の扉との二重になっている。こんな扉には一生触れそうにない手が躊躇わずに開けた先は、建物に挟まれた暗く細い階段状の路地が続いていた。地獄か牢屋に通じると言われても驚かない通路に足を踏み入れると、微かにひやりとする。
「……わざとだろ」
古びた階段を降りながら、ソレルはぽつりと言った。ニムは峡谷のように壁に覆われた景色を見ながら、事もなげに「ああ」と答えた。
「親友が、相手の気を引くときに使う手なんだ。大声や手を叩くよりも自然で良いって」
無論、声を掛けられる状況ならばそうするが、先程のような気まずい場面には重宝する。ソレルは呆れたように呟いた。
「変な友達……――いや、きっと良い奴なんだろうな……上手い手だ。助かった」
トン、トン、と長い脚が階段を降りる動作は急に気怠い。ニムは小首を捻って振り向かぬ背に呟いた。
「さっきの彼も悪い人には見えなかったな。君を心配しているようだった」
「……わかってる。オギーはガキの頃から知ってるから」
「幼馴染か。いいなあ」
「どうかな……『大人』になったら、馬が合わなくなった」
壁が分厚いのか、隔てた九番街からは何の音も聴こえない。生活音や人の声ぐらい有りそうなものだが、階段は別世界のように静かだ。手を掛けられそうな場所もなく、屋根に届く上部には棘の生えた鉄柵が見える為、壁を登るのは無理そうだった。
「ソレルは、病院で働いていたの?」
「半々。親父の――ダグラス・クランツ理事長の跡継ぎ訓練ってとこ。もっぱら、病院に関わる事務処理で、会議に挨拶、打ち合わせ……書類とパソコン画面とスーツか白衣の奴ばかり見ていた気がする」
「君が居なくなって、困っている様だったね」
「……どうかな」
二度目のセリフを呟いて、琥珀色が肩越しに振り向いた。
「先生は、どうして作家になろうと思ったんだ?」
「エージェントの才能が無かったから」
苦笑いをした顔を、体ごと振り向いた青年がまじまじと見た。
「……この期に及んで、代理人て意味じゃないよな……?」
「もちろん。気付いている人に隠していても仕方がない」
作家は興味深そうに古びた壁を見上げた。
「赤ん坊の僕が放置されたのは、調査会社BLENDの玄関先だった。調査会社というのはまあ、表向きのそれで、なかなか危険な案件が多い職場だ。表じゃ、賭け事のレートや市場調査、売上げなんかのランキングを調べたりするんだけど、裏では麻薬組織のアジトや、違法な武器や密輸品の流通ルートを調べたり、此処のような閉鎖国家で怪しい動きがないか確認したりする。彼らは僕の出自を調べてくれたが、未だに僕は何処の何者だったのかわからなくてね。『世界の全てに通じる』をモットーにしている会社として、これは非常にまずいだろ? だから彼らは僕を余所にやらずに手元で育てた」
「先生も、苦労したんだな」
「そうでもないさ。まあ、そういうわけで育ててくれた恩に報いてもいいかと思ったんだけど……ご存じの通り、僕はどうも鈍くて、足を引っ張るのは目に見えてたんだ」
「だが、あんたには異常な視力がある……だから協力してるのか?」
「非常勤扱いで、たまにね。僕は自分の生まれはもうそれほど気にしていないけれど、彼らなりに気を遣って、手掛かりが有りそうな場所に送ってくれる。此処のように特殊な制度を用いる所や、妙な薬物が出回っていそうな所なんかに。とはいえ、彼らのすねを齧るのもどうかと思って今の仕事に就いた。こっちのきっかけは、さっき話した親友だ」
「くしゃみの人?」
「そう。僕も本は好きだけど、彼は何というか……
「才能が有ったわけか」
「とんでもない。いっそ逆じゃないかな。持ち込んだ先じゃ、最近の生成AIの影響で、人間が書くものが消えていくと半狂乱だったんだ。彼らが僕に求めたのはステレオタイプの上手さや面白さではなく、
琥珀色の瞳が瞬き、彼はようやく笑った。
「確かに、先生とは気が合いそうだ」
「まあ、作家になったとはいえ……未だに編集者にはどやされる」
「知ってるさ。食虫植物とカメムシだもんな」
「ううむ……それは向こうがどうかしてるんだ。灰汁だらけのスープを出す男に、今さら澄んだコンソメスープを出せと言うんだから」
笑い合ってから、ソレルは目を伏せて首を振った。
「あんたと話してると、親父への反抗がバカバカしくなってくる」
「それは、さっきの彼に言った言葉が関係するのかい?」
「耳聡い作家だ。そうだよ、親父は自分が作ったシステムを利用して、これを維持する金を作るために、町を……『その他』を売ったんだ」
「『
「あいつらの事も知ってるのか……」
「ブレンド社とは因縁の仲なんだ。大抵はこっちが摘発して密造品やら構成員やらを一掃するが、あの組織は巨大過ぎるわ幹部の逃げ足は速いわで御健在。うちの社員が犠牲になった例もある」
「……だろうね。あいつら、金と誰かを殴る事しか考えてない感じだ」
「彼らが居るということは、
「悪いが知らない。奴らが入り込んで幾らも経たない内に、俺は家を出ているから」
申し訳なさそうな横顔に嘘は無さそうだ。
頭の中に、こと薬物に関しては鼻が利く女の言葉が浮かんだ。
「『果樹園』のやり方は、奴らが『
わかっていたが、警察に行かなかったのは正解だ。
ペトラの言う通りなら、彼の父親、或いはその周辺人物と、もっと以前から関係が有った可能性もある。
なにせ、この町の無茶なシステムを行使するには、絶対的に金が要る。
『子供』と『大人』を優遇する為の金も然り、教育費、インフラ整備費、『その他』を取り締まる為にも金が要る。更に、『子供』、『大人』、『その他』のシステム導入でモンス・マレで大きな騒動が有った記録はない。それはつまり、決起する人々が出なかったということだ。こんな制度に反発しない筈がないと思える点、抑えたのが直接的な力なのか、金に物を言わせたのかは不明だが、この場を見る限りでは半々というところか。モンス・マレの現状は、麻薬組織には願ってもない環境なのは間違いない。海側は時折耳にする離島を経由すれば抜け穴が生じるし、山側のルートはほぼ一般人が立ち入らない。
薬物に使用する植物の栽培はもちろん、新薬を開発、或いは生産拠点にできそうな巨大病院もある。何が妙といって、この町の規模に対して、あの病院は巨大すぎる。『その他』が高額な医療を受けることは少ないだろうから、数十%、或いは半分近くは『死』に関連する施設だろう。死人が出ようが、妙な動きが有ろうが、その辺りを取り締まる役人はおらず、問題が起きれば『その他』の仕業にすればいい。
「ソレル、お父さんを説得できないだろうか。奴らと手を切る様に」
「そんなこと、あっち側に居た俺に喋っちまって良いのかよ?」
「人を見る目は有ると言ったろ。子供や高齢者を気遣える男に、性根の悪さを問うのは野暮ってものじゃないかな」
「やれやれ……敵わないね。その話は後にしないか。お目当ての場所に着いたぞ」
入って来た時と同じような鉄扉の前で言うや否や、向こう側から大声が響いた。
「ソレル、今の声……」
「さあ、癇癪を起こす障害の人間も居るから――……」
が、響いてきたのは明快な怒号だ。はっきりした言葉で怒鳴るそれは、心のコントロールが難しい人間のそれでは無さそうだ。悪漢そのものの調子はどこかで聞いたような気もする。互いに顔を見合わせて、思い当る人物の名を言う前に、扉の向こうで何かが多くのものを薙ぎ倒したような音がした。
「先生は此処に居るか?」
是非そうしたかったが、ニムは首を振った。
「行こう」
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