5.タルトを七箱
「ご旅行ですかな?」
明けの日差しの中、ベンチに腰掛けた老紳士が声を掛けると、振り向いた男は不思議な薄笑いを浮かべていた。ついぞ出会ったことがないような熊の如き巨躯だが、その顔を、通りすがりの女性が頬を紅潮させて盗み見た。紳士が見ていた限り、これで五人目だ。長い脚、黒いワイシャツと黒いズボンに包んでいる逞しい体つき、そして今また六人目を引っ掛ける美貌の男は、無造作な黒髪と、黒を尚塗り潰したような目をしていた。潮風に混じって、嗅いだことのない森のような香りが漂う。
女性たちは気付いていまいが、たおやかな白い顔に開いた深い穴のような目は、まともな人間のそれではない。
老紳士は緊張しつつも、杖を握り直して闇を見上げた。
首に銀のプレートを引っかけているので、正規の手続きを通ったばかり――管理官に認められた上、危険な武器の類は持っていない『大人』で間違いない。
先日の旅行者ほどの荷物は無く、黒い手提げ鞄ひとつ。こんなリゾート地に対し、黒いズボンと揃いだろう、ロングコートらしき上着を持っている。ご丁寧に靴も黒。少々寛げた襟元から、何によるものか――複数の古そうな傷痕が見えた。
「失礼ですが、ご不幸でもありましたか」
問い掛けに、男は闇をおっとりと瞬かせた。今気付いたが、その顔は不自然スレスレのラインで、ずっと微笑んでいる。男は笑んだまま、女ではなくてもぞくりとする低音で答えた。
「いや。俺の周りには無いな」
妙な回答に、紳士は生唾呑んでから微笑した。
「そうですか。黒をお召しなので、もしやと思いましたが……この歳になりますと、不幸が多いもので」
ずっと見ているには深すぎる闇から目を逸らすと、彼は思った以上に静かに隣に腰掛けた。長い脚が前に突き出て、ベンチが小さく感じる。
「ミスター、人を捜しているんだが」
正面の街並みを見つめながら、男は言った。紳士も同じ方を見つめたまま答えた。
「……なぜ、私に?」
「貴方は、俺が船を降りるのを見ていた」
「はて……そうでしたかな」
男は木陰に吹き込む潮風の中、ほんのり笑みを浮かべた。
「話す気があるのなら、早い方がいい。貴方も見られている」
紳士は帽子の下でハッとしたが、周囲を見渡すより早く、男がくしゃみをしてそちらに気を取られた。
「失礼」
ハンカチで押さえてやんわり苦笑した男に、紳士は声も出ない。男は口元を押さえたまま、バリトンで素早く囁いた。
「左端のカフェの
ともすれば動いてしまいそうな視線を、暗闇が捉えて離さない。笑んでいるらしい闇を見つめながら、紳士はどうにか頭を動かさずに言葉を紡いだ。
「三番街の703。詳しくは、そこで――……」
「了解した」
闇は微笑んで頷くと、あくび混じりに立ち上がった。去り際、静かに言い添えた。
「……すぐ傍で、ずっと見ていたご婦人が居るんだが、彼女は知り合いか?」
視線が促す先を見ると、遠慮がちにこちらを見つめる年配の女性が居た。食料品を詰め込んでいるらしい大きな紙袋を前に抱え、紳士と目が合うとしゃちほこばって会釈した。
「あの人は――……ええ、知り合いです」
紳士がそう答える頃には、男は何も言わずに立ち去っていた。代わりに、女が躊躇いがちに近寄って来る。
「も、もし、ミスター……ミスター……ええと、ミミ、ミスター・ブエノで、ですか……?」
女はひどい吃音だったが、紳士は帽子を掲げて穏やかに微笑した。
「――ええ、マダム。良い日和ですね」
女は挨拶もそこそこに、まるで犯罪を犯した後のように周囲を気にしながら言った。
「わ、わわ、私……は、話を、き、き、聞いて――……あああなた様ならら、き、聞いて頂だだけるて…………」
「そうでしたか。さあ、こちらにお掛けなさい。大丈夫、落ち着いて」
ベンチの隣に腰掛けるなり、
菓子店『プレゼント・アマレッロ』は、ガイドブックに必ず載る人気店だった。
老紳士やホテルマンも勧めてくれた小さな店先では、朝っぱらから黄色い庇の下のショーケースにずらりと並んだカスタードクリームのタルトを求める客で盛況していた。さぞやサクサクしているだろうパイ生地に香ばしい焼き色の付いた黄色いカスタードが詰まった愛らしいタルトは、老若男女問わず愛されているものらしい。
揃いのまっさらな白シャツに黄色い水玉のスカーフをした女性たちが販売しているのも、爽やかな印象だ。タルトは奥の方で作られているらしく、微かに頭を巡らせて覗くと、熟練の技を見せるご婦人や、お人形のように愛らしい娘が一心不乱に作業しているのがちらりと見えた。
「おいくつ?」
フレンドリーに訊ねてきた女性にニムが数を告げると、傍らの青年がぎょっとした。
何ら動じることなく六個入った箱を七箱も買った作家に、女性スタッフはにっこり微笑んだが、ソレルの胡乱げな視線はそのままだった。
「先生の腹の牛は甘いものも好きなのか?」
腹を見下ろす青年の首には、今日は銀のプレートがある。
何のことは無い、彼が持っていたものだ。『その他』のプレートの方を何者からか借りていたようだが、誰なのかは聞いていないし、彼も話そうとはしなかった。
ニムは日差しに目を細めて首を振った。
「先生も牛も勘弁してほしいな。甘いものは好きだけれど、僕は一つで十分だ。君が五つ頂いても構わないよ」
「じゃあ、こんなにどうするんだよ。六箱はイカれてる」
「三箱は君の勤め先に、一箱はマダムに、もう一箱は受付の彼女に渡そう」
「最後の一箱は?」
「昨日、これを勧めてくれた人にあげようと思って。まあ、それは後だ。これを食べたら、僕は読者が此処に殺到したくなるコラムをしたためなくてはならない」
当然のごとく差し出された三箱が詰まった紙袋に、ソレルは両の手を腰にやって呻いた。
「配達員も仕事の内ってこと?」
「その通り。『君から』という
雇われお坊ちゃんはしぶしぶ受け取ると、大人しく配達に出掛けて行った。貸してやった服の為か、自分が立ち去るような背を見送り、ニムはホテルに身を翻した。
幸い、今日の受付もジェニーと呼ばれた彼女だった。今朝、出て行く時も緊張気味の様子だったが、それでも笑顔は慣れたものだ。
「これをマダムに渡してほしいんだけど」
「オーナーに……かしこまりました。お預かり致します」
こういうことは珍しくないのか、すんなり受け取った彼女に、もう一箱の袋を手渡す。
「これは君に」
「まあ……私に?」
受け取れませんわ、と呟きつつも、確と甘い香りを吸い込んでいる表情に、可能な限りの愛想笑いを向けた。
「口説いているわけじゃないんだ。昨夜、迷惑を掛けてしまったろうから。叱られていたら、もう一箱買わなくちゃ」
「そんな……お叱りなど受けていませんから、お気になさらないで下さい」
「……それじゃ、図々しいけれど、一つ聞いてもいいかい?」
声を潜めると、ジェニーは不安げに細く引いた眉を寄せた。
「この町で一番、ラグジュアリーなホテルは此処『ホテル・マルガリータ』だよね?」
予想外の質問だったらしく、彼女は目を瞬かせてから頷いた。
「も、もちろんです」
「では、次に豪華な施設は何処だろう? 人を招けるほどの個人宅だと――……やっぱりオーナーの邸宅かな?」
「あ、いえ、オーナーは当ホテルのプライベート・ルームにお住まいですわ。離島に別荘はお持ちですけれど」
「別荘か。さすが、マダムだ。……すると、あの“大きな家”は、どなたの持ち物だろう?」
とぼけた引っ掛けに、サービス精神の鏡たる受付嬢はすぐに答えてくれた。
「九番街の邸宅でしたら、クランツ様のお屋敷だと思います」
「というと、ソレルお坊ちゃんの家?」
『お坊ちゃん』の響きにか、受付嬢はくすりと微笑んだ。
「その通りです。あのお屋敷も、オーナーが外装から内装まで手配したと伺っています。お父様のダグラス理事長とは昔から親交があるそうですから。私は中の様子までは存じ上げませんが、当ホテルの次と申し上げても宜しいかと」
「ははあ、どうりでセンスがいいわけだね」
さも知った風な感想と礼を並べて退散しようとすると、彼女は遠慮がちに訊ねてきた。
「あの、ミスター・ハーバー……当方に何か気になることでも、ございましたか?」
「とんでもない。ここ最近で一番快適な時間を過ごさせてもらっているよ」
受付嬢は心底ほっとした様子で胸を撫でおろし、ようやく初日のように微笑した。
「何かありましたら、遠慮なく仰って下さいね」
とりあえず、彼女の笑顔には文句の付けようもない。受け取ってくれたタルトを前にお辞儀をする姿に片手を振り振り部屋に戻ると、放蕩坊ちゃんが戻る前に電話を掛けた。
〈リゾートを楽しんでいるようね〉
さっそく降って来た皮肉にもめげず、状況を説明すると、麗人はしばしの沈黙の後に答えた。
〈ソレル・クランツは、確かにこの町の病院理事の息子よ〉
「二年前まで父親の元で働いていたそうなんだが」
〈ええ。学歴も素行も悪くない。揉み消された可能性を除外すれば、何か問題を起こして辞めたわけじゃない。気になるのは、彼が子供の頃に母親のエルバ・クランツが死亡していること〉
「……事故か病気かい?」
〈いいえ。殺人〉
「殺人?」
只ならぬ一言に驚くが、麗人は至って冷静に答えた。
〈犯人は精神障害を患っていた無職の男と記録されている。モンス・マレに『子供』、『大人』、『その他』のシステムが導入されたのは、この数年後の事よ。以前は町長も居たけれど、此処を自治区に仕立てたのは病院理事のダグラス・クランツと、資金や社交面をフォローしたマルガリータ・クラヴィス。当時の警察機関と役人を買収して、システムをシンプルな司法にして成り立たせた。王の居ない二人の執政というところかしら。王が居るとすれば、システムそのものと言ってもいい〉
「なるほどね。その何不自由ないお坊ちゃんがどうして、親に反発しているんだろう?」
〈反発と受け取るのは早合点よ。親子間の問題なら、私たちの知るところではないけれど、彼が父親の事業に気付いていたのなら、話は別〉
「やっぱり、此処には『
〈居る〉
「それは君の勘?」
〈統計的な予測といえば満足なの?〉
「……いや、奴らに関する君の勘は信頼できる。この圧政にはとんでもない予算が入用だろうし、今のところマダム・クラヴィスがアコギな商売をしている様子はない。連中が居る中で、僕は予定通りベック・ランと接触していいのか?」
〈こちらが口を挟まない限り、貴方の好きに動いて頂戴〉
「わかった。他には何かある?」
〈昨夜、貴方の担当編集者がクレーム電話を寄越した〉
のど輪を締められたような声が出たが、咳込みそうになりつつ答えた。
「ごめん。大丈夫、それは解決したから……」
正確にはまだなのだが、答えた辺りでノックが響いた。電話を切り上げてドアを開けると、仏頂面のソレルが、タルトの代わりに豪奢な花束を抱えて立っていた。
「皆、俺が配達員になったと思ってるみたいだ」
人気のスイーツの差し入れに、いたく感動した女たちが店に飾っていた花を持っていくように指示したらしい。
「気持ちが嬉しいね」
「店長の投げキッスも受け取ってるけど、要る?」
丁重にお断りして、フロントに電話をかけて花瓶を頼むと、背の高いスタッフが運んできてくれた。帽子を目深に被った男が渡してくれた、葡萄が彫られた分厚いガラスの花瓶を受け取って礼を述べると、相手は口元に温和な笑みを浮かべて退室した。
その様子を窓辺から眺めていた青年は、呆れ顔で呟いた。
「また、新しい男だ。マダムもイイ歳して懲りないね……」
「そういえば、君は声を掛けられないの?」
「恐ろしいこと言わないでくれよ」
「不思議だなあ……僕が言うのも何だが、今のところ、この町では君が一番ハンサムなのに。昨日、宝飾店も見たが、マダムの好みは一般的な美的感覚に乗っ取っているようだし……」
「さあね、鼻たれガキの頃を知ってるからじゃないのか……あんた、仕事は終わったのかよ?」
いい具合に引っ叩いてくれるにわかアシスタントが淹れてくれた茶と、期待を裏切らないタルトのおかげで、コラムは思ったより順調に書けた。
それほど美味しい菓子を知っているわけではないが、幸福度を押し上げる黄色いカスタードのコクといい、バニラが香る滑らかさといい、パイ生地タルトのサクサクと程よい歯ごたえといい、時が時なら権力者に献上されたことだろう。待ちかねている編集者に送ってやると、彼女は永久に取り立ててくる闇金業者のように別の締め切りの話をしたが、どうにか宥めて切った。
「おかげさまで終わったよ。ベックの家はどうだった?」
「両親は居たが、俺が聞いてた以上のことは知らなかった」
答えたソレルは釈然としない顔だ。
「嘘や脅迫の匂いはしなかった。中の様子も調べたけど、ベックは居なかったし、荒らされた様子も無い。……ついでに、女が居た形跡もナシ」
一体どんな手を使ったのか気になったが、嫌な予感がしたので聞かないことにした。
「彼の行く先に心当たりは無いんだよね?」
「無いね。悪い女に捕まってなけりゃいいんだけど」
茶を一服喫して、ニムは顎を撫でた。
気になるのは、ベック・ランが何故、既婚者を偽ったかだ。更に仮想の妻は『その他』に分類された後に、彼と別れさせられて消えたシナリオ。
SOSを送るだけなら、少々くどい悲劇だ。何かのメッセージの可能性が高い。
「ソレル、正直な意見を聞きたいんだけど……」
切り出したニムに、ソレルは訝し気に眉を寄せた。
「この国の『大人』が『その他』に関して良い印象が無いのはもうわかったが、『子供』は『その他』をどう思っているんだろう?」
「……最近の『子供』の感想は知らない」
「君の見解で構わない。この制度が施行された頃、君は『子供』だった筈だから」
「最初に言った通りだ。『その他』は社会のはみ出し者。徹底的にそう教わる」
鋭い見解に、ニムは頷いた。軍事国家や社会主義国家のやり方と同じだ。
特定の『敵』を教わる様に、『その他』に良いイメージを抱かせない教育をし、『その他』にならない様に努力させ、『その他』は社会のはみ出し者――底辺として認識させることで、成長を促す。
「ベックもそう思っていたのかな?」
ソレルは物憂げに押し黙り、ひじ掛けについた手に頬をのせて下方を見つめた。
「……あいつは賢かった。システムの本質を理解していたと思う」
「僕もそう思う」
彼は顔を上げ、窓から降る光で金に輝く琥珀色を瞬かせた。ニムは言葉を続けた。
「こちらに既婚者を名乗った理由は、子供と侮られたくなかった可能性もあるけれど、それは正直、あまり意味を感じない。僕が馴染みのある社会では子供の意見が尊重されない場面があるから解るが、この国の『子供』は大人より優遇される立場だ。彼がそこまで見越すほど賢いならともかく、こちらには既婚者を名乗り、君に恋人の話を持ち出したのは違和感がある。何か別の理由……或いは見落としが有ると思う。彼は、君が『その他』を差別しないのを知っていたんだろ?」
「知っていた。店に来たこともあるし、女たちはあいつを可愛がってた」
「それなら、君との会話に何かヒントがあるかも。恋人に関することとか……」
「恋人……」
色恋沙汰に事欠かないと思われる青年は、髪を弄いながら光にぼんやりとした。
「あんまり聞かなかったからなあ……お人形みたいに可愛いとか、綺麗だとかは聞いたけど、そんなの惚れた奴は皆言うだろ?」
「確かに。『子供』の恋愛は違法じゃないんだろう?」
「ああ。性的な話は他国とそんなに違わないと思うが、双方が十八歳になれば結婚できるんだから、歓迎される。この国じゃ、限りなく『その他』から遠い『子供』は肝心なんだ」
観光客だとしても、カップルが歓迎されるのはその為か。この狭い環境では、一定数の人間――働き手である歯車が欠けると、システムは無論、暮らしが断絶してしまうからだろう。一方で、土地が狭い分、無作為に多すぎても困る。できるだけ優秀且つ、『その他』に転落しないだろう人間が必要というわけだ。更に、近親者ばかり増えてしまうと遺伝的に弱体化していくので、移民を受け入れるのは良い政策だ。
そして、生まれた子供を大切にする。この点、飛び級するほど優秀な十五歳のベックに、町の人間が危害を加える可能性は低い。
彼の恋の相手が同世代なら、その相手も――……
「ちょっと待った……ソレル、この町では歳の差婚はあるのかい?」
「ほぼ見かけないが、マダム・クラヴィスが合法なんだから問題ないだろ」
肩をすくめた彼に、ニムは頭を掻いた。
多感な年齢の暴走を見咎められたのではない――か。豪奢な花の方を見つめ、未だ手をつけていない最後のタルトの箱を見た。
「仕方がない。先に他を当たるとしよう」
そう言った割に椅子にもたれた作家を、放蕩息子は呆れ顔で見た。
「本当に捜す気あるのか?」
「あるとも。だが、東方のことわざでは『急いては事を仕損じる』と言うからね。何事も焦らず取り組まないと」
「俺には、ひと仕事終えて休みたい奴のセリフに聴こえるけどな」
「まあ、そう言わず、君も配達の疲れを癒してくれ。良ければ本もある」
彼は鼻で笑ったが、ふと悪戯を企む子供のような顔をした。
「あんたの作品はある?」
「僕の? いや、まさか……自分の出版物を持ち歩くなんて、健康診断結果を持ち歩くようなものだよ」
「ふうん。じゃあ、いいや、こっちで探そう」
自身の端末を弄り始める男に、作家は椅子に身を縮める様にして茶を啜った。
その頃、マルガリータ・ホテルのロビーに入って来たタイトなスーツ姿の女は、受付嬢に萌黄色のマニキュアをした手をかざし、勝手知ったる風でオフィスに入って行った。自身のデスクで待ち受けていた女社長を見るなり、女は両の腰に手をやって溜息を吐いた。
「呼び出すなら、バーかレストランにしてほしいんだけどねえ」
この町の経済王にこんな言い方をする人間は他に居ないだろう。
女社長が何も言わずに、席に座るよう促すと、女は豪奢なウェーブの金髪を掻き上げて、ソファーにて足を組む。
「わざわざ呼び出したご用向きはなあに?」
「マスカット、例の『子供』の件はどうなったの?」
果実の名で呼ばれた女は、ちらりと薄緑色の目を女社長に向けた。
「マダム・クラヴィス……その件はこちらに任せる筈ではなかった?」
「そう願いたいわね。私は仕事ができない者には投資しない主義だから」
ひと回りは年上の社長の催促に、女は目玉を上方にぐるりと回して足を組み替えた。
「まさか、お説教の為に呼んだんじゃないでしょうね?」
「貴女が仕事ができるなら、そうはならない筈よ――あなた達『
「部外者?」
女社長がデスクに滑らせた紙面を、女は面倒臭そうに立ち上がって覗き込んだ。
「あら……何処かで見た冴えない顔」
「とぼけなくてもいいわ。この作家、調査会社『BLEND』のエージェントですってね?」
「ええ、そうよ。オマケみたいな男だけど、この間も仲間の邪魔をした」
長い爪先でついと紙を押し戻し、女は席に戻って改めて足を組んだ。
「でも、ヘンね? 喪服女より先にニム先生が来るなんて。誰がリークしたのかしら」
「自分たちの商売道具でイカれてるの? 例の『子供』よ。違う?」
女は少しも慌てずに自身の萌黄色の爪先を撫でた。
「別に構うことないわ。先生は望遠鏡ぐらいの役にしか立たないもの」
「私の話を聞いてた? こいつは町の有力者の息子と一緒なのよ。貴女が取り付いてるダグラスの息子と!」
虚空に叩き付ける様に突き出された写真には、薄い金髪の下で琥珀色の目が麗しい青年が写っていた。女はソファーにもたれたまま、流し目でそちらを見て唇を歪めた。
「フフ……いい男ね。理事長もいい男だけど、女に死なれた男はダメねえ……」
「どうするつもりか、教えて」
蠅を払う様に片手を振り、女は唇を尖らせた。
「そんなにカリカリなさらないで。ちゃんと探させるわよ。新しい護衛も入れてあげたんだし、少しは落ち着いたら?」
「どうして落ち着いていられるのよ? ブレンド社は業界一、まずい――……」
尚も言葉を紡ごうとした唇は唐突に閉じた。女社長の目が注がれるのは、女が片手に掲げていた拳銃だ。女性が持つには大きすぎるLAR グリズリーの黒い銃口を向け、女は笑った。
「マダム、私ねえ、命令されるのは性に合わないの。この町は『その他』なら死んでも気にされないユートピアで大好きよ。でも、ちょっと退屈なのよねえ……遊びすぎて、山からは誰も来なくなっちゃったしね。たまには遊ばせて頂きたいの」
「……正気じゃないわ。自分が殺される不安はないの?」
「あのねえ、使う気が無かったら、こんなもの持ち歩かないでしょ」
大型拳銃を手元で軽々と回転させて、女は嘆かわしそうに首を振った。
「あいつらは害虫なのよ。私たちの事業で腐った場所を見つけるや、律儀にたかりにくるコバエたち。叩いて潰すに限る連中なの」
「ああそう……一匹でも叩けたことが有ると有難いわ」
女は手品のように拳銃をしまうと、鼻を鳴らして立ち上がった。
「それで? 先生はこちらにいらっしゃるの? お部屋で仕留めましょうか」
「絶対にやめてッ! いいこと? 私の城で人殺しなんか――いいえ、血一滴でも壁や床に垂らしたら許さないわ!」
凄まじい剣幕で怒鳴りつけた女社長に、女は呆れ顔で片手を上げた。
「あら、そ……悠長なのはどちらかしら」
ふいと踵を返し、肩をいからせる女社長を肩越しに見て、女は冷たく言った。
「マダム、私たちに作法を求めるのはムダよ。貴女だって、独占したいものがあるでしょ? 全てのものが対価で入手できるとは限らない。だから貴女も“そうしてる”」
冷笑を含んだ視線が貫くのは、歯を食い縛った女の耳元にある夜のような青い石だ。
「……“もう”血が流れるのは御免よ。私はあんた達みたいに血なんか欲しくない」
「わかったわよ。……もうよろしくて? 私だって暇じゃないんだから」
萌黄色のマニキュアの爪先をひらひらとなびかせ、女はヒールの音も高らかにオフィスを後にした。
残された女は、額に手を当てて溜息を吐いた。
「……エルバ、これは呪いなの? ”男”も”子供”も手放したのに……許してくれないの……?」
答える者は居ない。代わりに、打ち合わせ時刻を報せるアラームが鳴った。
急き立てる様な音を、ハエでも叩くように繊手が止めた。
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