3.パラダイス・フィッシュ

 五番街の裏路地は、思ったより良い雰囲気だった。

裏路地というから、少々治安が悪いことも覚悟していたのだが、昨日ぶらついていた宝飾店の裏よりも賑わっていた。

狭い路地を挟む建物の壁には、等間隔に据えられた古い外灯が橙色の光をやんわりと灯し、古びた石畳を夕焼けみたいに照らす。アーチを描く入り口が幾つも並び、店を示す多種多様な看板が通りの頭上に揺れていた。道にせり出した椅子やテーブルでは、食事をしたり、カードゲームに興じたり、煙草を吹かす者が見られ、多くは銀のプレートを下げていたが、ごく稀に木製プレートが見えた。

『パラダイス・フィッシュ』は、赤と青の派手な魚が描かれた看板を掲げ、仄明るい店内に通じる扉は少しだけ開いていた。看板にも説明書きは無く、一見、何の店かわからない。幾らか緊張しながら、ニムはそうっと扉を押した。

中を見た瞬間、唖然とした。

まるで、サンゴ礁かアクアリウムの中に入り込んだような空間だった。

全て深い青に塗られた店内には、天井から泡粒を思わす照明が垂れ、各所に据えられた巨大な流木のオブジェにこれも巨大な観葉植物が生えている。微かに響く音楽はひどくゆったりしたリズムで、時間感覚を失いそうな落ち着きをもたらした。キャンドルの乗ったテーブルの合間を、目に鮮やかな黄色や青のドレスを翻す女性たちは、熱帯魚さながらの美しさだ。

「いらっしゃいませ」

ハスキーな声に振り向くと、すぐ傍で艶やかな唇を笑ませた女性が居た。

シャンパンゴールドからブルーに移り変わるドレスの女性は、ヒールの分か、こちらよりもわずかに背が高かった。金髪を結い上げたアラバスターのように整った美貌に気圧されていると、彼女はくすりと微笑んだ。

「此処は初めて?」

「あ、はい……ええと――……ソレル――いや、クランツさんという方に紹介されて――」

「知ってるわ。昨日会ったばかりだから」

「……は?」

客を射止める常套句かと思いきや、ニムは美女をしばし見つめ、その瞳の奥――薄いブルーの膜に隠れる様な琥珀色に気付いて、ようやっと息を呑んだ。

「君、もしかして……!」

「あんた、好奇心の割に観察眼が足りないな」

がらりと声のトーンを変えた美女は、他でもない、昨夜の青年だった。

つい、胸元を見てしまった男を面白そうな視線が見下ろす。

「気になるなら、脱いでやろうか?」

「いや……自己申告の方がいい」

「そう? じゃあ、俺は正真正銘の男で、男に興味はない。安心した?」

「この上なく」

「そいつは何より。あっちの席で話そうか」

一瞬、『その他』とは男女の区別のない人間かと思ったが、まさか昨日の男たちはそうではあるまい。開店前なのか、準備に動き回る女性――恐らく女性で間違いない筈――たちの首には銀のプレートが見える。

妙なことだが、ソレルの首には今日は銀がぶら下がっていた。彼は忙しそうなスタッフをよそに、悠々と奥の席に腰掛けると、座るよう促した。

そこには既に二対のグラスが置いてあり、彼は手慣れた様子でルビー色の液体を注いだ。

「仕事の邪魔をしたかい?」

問い掛けにソレルは首を振り、そこだけ見たら女性に見えそうな細い指で、こちらに向けてグラスを滑らせた。乾杯させるかと思いきや、彼はとっとと自分のグラスをとって、ひと口喉に流し込んだ。倣う様に口に含んだそれは、大陸のそれよりも芳醇で甘かった。

「これは僕が支払った方が良いんだろうな」

女性相手には出ないだろう一言をほざくと、ソレルは可笑しそうに笑った。

「作家ってのは、夜遊びしないのか?」

「人による。酒と葉巻と美女に目が無い人はまあまあお見掛けするね。このワインは美味しいけれど、僕はナイトクラブのもてなしより、静かな森林と湖と、本物の蝶の方が癒される」

「食虫植物だもんな」

彼は得たり顔で頷いて、ソファーにもたれた。

「気にせず、何でも聞いてよ。此処には聞き耳を立てたり、言いふらすような女は居ないから。あんたが此処に来たことも、誰かに話したりしない」

如何にもこういう事態に慣れている様子に不安は感じたが、とんでもない金額を吹っ掛けられる不安には及ばなかった。ニムは神妙に頷き、言葉を選んだ。

「此処はどういう店なの?」

「会員制クラブ。俺とオーナー以外は皆“ちゃんとした”女だよ」

「会費が高そうだ」

「そうでもない。ホテル・マルガリータに泊まる客なら楽勝だ」

あっさり宿泊先を言い当てられ、ニムは肩をすくめた。存外、この男は手ごわそうだ。

「今日、君は銀色のプレートをしているんだね」

彼はプレートを指ですくってニヤリと笑んだ。

「俺以外にも居る」

入国時の盗難や売買の注意を思い出しながら、ニムは頷いた。

「ソレル、『その他』とはどういう人達なんだ? 昨夜の連中と君以外、まだ会った事が無いんだが」

「そりゃ、大抵の奴は隠すからね。意外とそこらを歩いてるよ」

生活インフラの多くが海沿いの一番街付近に集中している為、昨日まで歩いていた界隈にも『その他』の人間は荷を抱えたり、子供を抱いて来ていたらしい。プレートを服に入れたり、外していると見咎められる為、さりげなく隠すのが主流だという。

「隠す……ということは、不利益なことがあるんだね?」

「簡単に言えば、社会のはみ出しもの扱いされるんだ」

十八歳以下の子供は該当しない、と断った上で彼は説明してくれた。

「『無職』、『未婚』、『無宗教』、『同性愛者』、『犯罪者』、『疫病持ち』、『発達障害者』……他にもあるけど、まあ、この内の二つ以上が当てはまれば、大体は『その他』だ」

「なるほど。一つでは適用されないんだ?」

「たとえば、『発達障害』にも色々あるだろ。『精神障害』なんかも同様だけど、くくりが難しい。要は社会からはみ出なけりゃいいのさ。そいつが居て、迷惑をこうむる人間がどれだけ居るのかって話だ。コミュニケーションが難しくても、叫んだり暴れたりしないなら、大抵は優しくしてもらえる」

「その辺りはどうも嫌な感じがするね……では、職が有れば『大人』になるのか?」

「一定の稼ぎがあれば『大人』。だから、『同性愛者』で『未婚』の『大人』なんかはそれなりに居る。さっきの精神面が危うい連中も同じ。良い顔はされないだろうけれど、違反じゃない。それと、学生の場合は例外的に『無職』と『未婚』に該当していても、学びの段階を子供時代と認識して金のプレートでしのげる。大学に進めない場合は、十八歳が期限の目安だな。最低でも仕事に就けば『その他』はまぬがれる」

飲める宝石みたいな赤を少しだけ含み、ニムは首を捻った。

「では、君はなぜ『その他』なんだ。これは職業だよな?」

視線の先で、女性たちは銀のプレートをして仕事をしている。彼はソファーに背を預けたまま片手を振った。

「これは俺の仕事じゃないんだ。ギブ&テイクってやつ」

「よくわからない」

「俺が此処に居ると、彼女たちには都合がいい。で、俺は此処に居ると都合がいい」

「全く以てギブ&テイクだが、都合がいい理由までは想像がつかないね」

「あんたの運次第では今夜見られる」

青いコンタクトで隠している琥珀が揺らめき、嫌な予感を感じたが、周囲に危険な様子はない。最近の危険といえば銃撃沙汰だが、他には駅前で徒党を組んでヘイトスピーチをがなり立てる連中や、耳が壊れそうなほど爆音が響くバーで酔った連中に絡まれること、いや……それよりも、深夜に喪服の麗人に叩き起こされる方がよっぽど危険を感じる。

「あんたが緊張することじゃない。何か起きても、知らん顔で寛げばいいさ」

「それは事と次第によるけれど……まあ、いいや。このシステムは何の役に立つんだ?」

己の銀のプレートを摘まむと、彼はグラスを傾けながら答えた。

「『大人』が快適に生活できる。『子供』と『大人』には、独自の特権が有るし」

ソレルによると、『子供』には無料で使用できる施設が充実しており、出産祝いは勿論のこと、成長と共に受け取れる養育費、留学や他国の技術を学びに行く場合は援助金も出る。これは他の国でも見られるが、モンス・マレでは極端だ。

何せ、この制度はどんな子供にも適応される。親の社会的地位、優秀如何に関わらず、ただ『子供』であるだけでいい。奇妙なことに、生まれつき精神疾患や疫病を持つ子供だろうと、子供である限り適応される。成人を過ぎれば『その他』に分類される可能性を孕むにも関わらず、だ。

一方、『大人』は子供に比べると他国と大して変わらないが、他国でおざなりになっている制度がきちんと守られているに等しい。例えば労働時間の厳守や、保障制度が手厚いなど。

そして、『その他』にはそれら一切の特権は存在しない。

むしろ損をすることの方が多く、特定の場所への立ち入りが禁じられたり、保障や保護の対象外になったりする。

「気になっていたんだが、『大人』がパートナーを失った場合はどうなるんだ?」

「良い質問だ」

空いたグラスにワインを注ぎ、ソレルはちらりと入り口の方に視線を這わせてから答えた。

「既婚者の肩書が消えるだけ。すぐに『その他』に割り振られたりしない――ただし、”失い方”によってはまずいことになる」

周囲がにわかにざわつき始める。店がオープンするようだ。音楽のボリュームが上げられ、穏やかな静けさが力強い抱擁となって辺りを満たす。

「双方が合意の離婚はそれほど難しくない。子供が居ると揉めるが、どちらかが引き取る形で済む。こういう騒動は外でもあることだろ?」

ニムは頷いて、問い掛けた。

「パートナーが死亡した場合は?」

「パートナーによる殺人なら加害者側は捕まって罰を受ける。牢を出られても『その他』に転落だし、この国で再婚するのはまず無理だろうな。パートナーに関与のない殺人や病気、事故、同意の上での離婚は問題にはならない。可能な限りは再婚を勧められるが、無理強いされることもない。まともな既婚の事実がある場合は、再婚を拒否したからって、『その他』扱いにはならないよ」

「では、まずいのは……」

彼はさらりとグラスを仰いだ。空になったグラスが音もなく置かれ、ルビー色に満ちたグラスと並ぶ。

「パートナーが、行方不明になった場合。殺人の疑いや失踪に至る過失が無かったか、徹底的に調べられる。仮に行方不明者に非が有ったとしても、確かな証言ができる相手が居ない場合、何の咎も無いのに『その他』にされる可能性が高くなる」

その言葉に、一種の空虚が浮かんだ気がしたが、ニムはいっそう声を潜めて尋ねた。

「……ソレル、他言無用に願いたいんだが、ベック・ランという男を知らないか?」

「ベック? 四番街のおちびちゃんのこと?」

まさかの返答にニムが立ち上がりそうになった刹那、入り口の方で悲鳴が上がった。

ニムが振り向くよりも早く、さっと立ち上がったソレルが身を翻していた。グラス数杯のワインなど何でもなかったのか、全く酔った気配の無い足取りで、素早く騒ぎの渦中に滑り込んでいる。彼は怯えた目をした黄色いドレスの女の前に割り込み、今にも片手を振り上げようとしていた男を真正面から見た。

「なんだ、お前が代わってくれんのか?」

「一応聞くけれど、彼女のそれは貴方がやったの?」

身なりの良い男の問いを無視したソレルが、ややハスキーな女の声色で示すのは黄色いドレスの女性だ。かわいそうに、彼女の左頬は赤く腫れ、震える手で掻き寄せた襟元は乱れている。

「俺がやったら何だって言うんだ」

男は全く悪びれた様子のない顔で顎を反らせ、周囲の怒りと恐怖を悠々と見渡した。

「お前らが『その他』なのは知ってるんだよ。騒いだところで訴えられるのはお前らなんだからな。せっかく遊んでやろうって言っ――」

男のセリフにニムがはっとしたのも束の間、下衆ゲスの口上はそこで途切れた。ソレルが両手でサッと裾を持ち上げたかと思うと、鞭のような蹴りが男の首元にめり込んでいる。そのまま床に叩き付けられた男は、叫ぶ隙も無い。

「……ぐ……て……てめぇ……う、……訴えてやる……!」

蚊の鳴くような声でどうにか言った男を、裾を撫でつけたソレルがせせら笑った。

「おいおい、めでたい奴だ……おうちに帰れると思ってるのか?」

その酷薄な声は、既に男の声だ。

すると、周囲からクスクスと華やいだ笑いが起こった。女子学生が笑っているような楽し気な笑いが響く中、何やら呻いていた男が不意に静かになった。伸び上がって見ていたニムにも、何をしたのかは見えなかった。ともかく、身なりの良い男はぐったりと床に伏し、死んではいまいかと青くなるニムの手前、女たちの手でずるずると奥へ引き摺られていった。何も無かったように席に戻って来た男に、警戒心よりも恐怖心が勝ったのは致し方ない。

それをわかっているのかいないのか、彼は陽気に微笑んだ。

「あんた、やっぱり運が良いのかもな。毎晩有る事じゃないんだが」

「お見事と言いたいところだが、些かまずいものを見た気がする」

「見られてまずいものなら、あんたを此処に呼ぶと思う?」

「僕も同じ目に遭わせようというのなら、話は別だ」

「確かに。その場合、俺があんたを嵌める目的は何だろう? 金かな?」

「……正直、金持ちに見られたことはあまり無い」

つい先月も、自分にとってはレアな一冊の古本を買うか買うまいか悩んでいたら、苦学生に見られたぐらいだ。

「彼はどうなるんだ」

「バケモノの餌になる」

目を見開いたニムの手前、彼は愉快そうに声を立てて笑った。

「嘘だよ。あいつは麻酔薬を打たれただけ。裏から病院に運ばれる」

「病院……?」

脳裏に、あの王冠めいた白い建物が浮かんだ。

「今の季節は門の前に捨てておいても死にはしない。具合に問題があれば、勝手に診てくれるさ」

「警察に届けないのは……君たちの立場の問題か?」

「その通りだ、ミスター・ライター――この国で『その他』の人間が生活するには、表のルールの裏を掻くしかない。『大人』に許可されている仕事も、パスポートの発行も、並の結婚も、法の保護は『その他』には適用されていない。つまり、仕事をしようにもさせてもらえず、よそに住もうにもこの国を出られず、結婚しようにも『大人』は拒否し、不当な扱いからは誰も守ってくれやしない。一度『その他』になった人間が『大人』になるのも容易じゃない……そういう仕組みにしてあるのさ。それを理解した上でこっちの生活を黙殺する『大人』はまだいいが、さっきの奴みたいに真っ向からルールを押し付ける奴は除外させてもらう。ああいう奴は日和見の『大人』にとっても邪魔だからね」

すらすらと喋った彼は、水を飲むかのようにもう一杯たしなむと、細い息を吐いた。

その視線の先には、女たちと楽しそうに会話をする『大人』たちが居る。客は男だけかと思いきや、女性も居た。人魚の館に迷い込んだかのような人々は、先程の騒動など嘘のように微笑み合い、中には悩みでも打ち明けているのか、そっと肩を叩かれている者も居る。

てっきり、『その他』は虐げられているのかと思ったが、どうやら少し違うらしい。

「『大人』が、こういう仕事に就くことは恥なんだと。只、楽しく飲んで、話をするだけなのに」

溜息混じりに苦笑する顔を見て、ニムも先ほどの騒ぎをうっかり忘れそうになる。

「そう怖がらなくても何もしないさ。おちびちゃんの話はいいのかい?」

そうだった。ペトラにケツを引っ叩かれた気になりながら居住まいを正すと、彼はちっともアルコールに濁らない目で胡乱げにこちらを見た。

「あいつと、どういう知り合いだ?」

「そのまま返そう。君こそ、ベック・ランとどういう関係なんだ?」

「友達って程じゃない知り合い」

「ふむ。昨夜の彼よりは友達かい?」

「マッド? はは、そうだね。ベックは頼りないけど、良い奴だから」

良い奴という評価は有難い。マッドのような男だったら、探すのにも、探し当てた後でも苦労しそうだ。

「実は、彼から僕の作品を読んだと手紙を貰ったんだ。此処に取材に来ることになって、せっかくだから訪ねようと思ったが、返事がなかったものだから……」

探し人を読者に仕立てるのはよく使う手だ。全く通用しないタイプの人間も居るが、良い奴と思われている者と本は大抵結びついてくれる。これでも純文学作家だし、子供向けの作品やコラムも書いたことが有る。

「ふうん……まあ、あいつならやりそうだね。図書館に通っていたし」

天の寛大なる処置に感謝していると、ソレルは顎を撫でて首を捻った。

「それじゃ、あいつ何処に行ったんだろ? 俺は旅行って聞いてたけど……あんたが来るとわかってたら、出掛けたりしないよな」

「彼は君に旅行に行くと言ったのか?」

「確か……一週間ぐらい前に、恋人に会いに行くって」

「恋人? 彼、結婚してた筈じゃ……?」

「おちびちゃんが?」

互いに顔を見合わせて、眉を寄せた。

「あんたが言ってるベック・ランの話は、四番街のおちびちゃんで合ってるのか?」

「申し訳ないが、文通だ。顔も声も知らない。住所はわかるけれど」

ペトラが書いたメモを書き直したものを差し出すと、彼は鋭い視線で見つめ、頷いた。

「多分、住所は俺が知ってるものだ。少なくとも、同姓同名の家族が居る話は聞かない」

「まさか、彼は大人――……いや、成人していないのか?」

「成人なんてとんでもない。『子供』の中でもとびきりのおちびちゃんだよ。恋人って聞いて、散々からかってやったぐらい」

なんてことだ。大急ぎで社に電話を掛けたくなる気持ちを抑え、ニムは琥珀色を見つめた。

「……彼の家を訪ねることはできるだろうか?」

ソレルは再び顎を撫で、思案顔を浮かべ、先程よりも鋭い視線でニムを見た。

「……俺は人を見る目は有る方だと思ってる。が、外から来た人間を安易に信じられるほど、お人好しでもない。その勘は、あんたが只の作家じゃないと言ってる」

「それはお互い様だね。僕も君を、女装癖がある用心棒とは思っていない」

「生憎、女装癖は無いよ。これは俺を雇ってくれてるオーナーの趣味」

顎をしゃくった先のカウンターに立つマダムは、遠目にも男性だとわかった。軍服を着た方が似合いそうな男は、こちらの視線に可愛らしく手を振った。この店に用心棒が必要なのか疑問が湧いたが、ひとまずそれはさて置いて向き直る。

「それじゃ、僕が君を雇うならどう?」

彼はグラスで酒を回してから呷ると、ニムの目の前に手をかざしてから席を立った。オーナーの元で何やら会話した彼は優雅に戻って来たかと思うと、どっかと座った。

「俺を雇いたいってことは、あんたは友達に会いに来ただけじゃなさそうだな」

「警察を頼らないからということかい?」

「ああ。普通は行方不明者を探すなら、警察に相談する。それにしたって、顔も知らないファンに対しちゃ、手厚いと思うね」

例の琥珀色の目は厳しかったが、日ごろ睨んでくるペトラや編集者の目に比べれば優しい方だ。ニムは出来る限りの穏やかな微笑を返した。

「ファンは大事にすることにしている。警察に相談したくないのは、こちらの素性を説明するのが面倒だからだ。君は全部を話さなくても手伝ってくれるはず」

「……どうして、そう思う?」

「ベックを心配しているのがわかる。僕も人を見る目にはそこそこ自信がある方だ」

「……丸め込むのが上手い奴は、信用を落とすぜ、ミスター」

そうは言ったが、彼は厳しい瞳を閉じ、ソファーに沈み込むように溜息を吐いた。

「オーケーだ。ミスター・ハーバー。俺は高いけど、それで良いなら」

「ニムで良いよ。上から見下ろす身分は慣れていない」

「気が合うね。俺もだ」

握手を交わした後で、彼は悪戯っぽく微笑んだ。

「ところで、今のところ俺は宿無しだけど、四つ星の厄介になれるのかい?」

黒帽子の下で眉吊り上げる女が幻視できたが、頷いた。

――仕方ないだろう、ペトラ。

絶壁を登るには、手掛かりが要る。

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