2.真珠と琥珀

 「はい、ニム・ハーバー様ですね。ご予約、ありがとうございます」

カウンターに立つ女性スタッフは、ホテル勤めにふさわしい笑みを浮かべた。

モンス・マレで最も格式高い四つ星ホテルは、高級リゾートの貫禄こそ無いが、四つ星は納得の上品な宿だった。柔らかいブルーやホワイトの壁に彩られたロビーは涼しく、ピカピカに磨かれた大理石の床には、立派な陶器の花瓶に生けられた青々とした観葉植物が幾つも並べられ、一目で居心地の良さが窺えるソファーや椅子、天井に輝く照明は宝石の粒が降るようだ。出入りする客も品が良く、子供さえも育ちの良さを思わせた。

「美しいホテルですね」

素直に褒めると、髪を丁寧にまとめた受付嬢はにっこり微笑んだ。少しもよれていないシャツに光るネックレスとは別に、ニムと同様の銀のプレートが輝いている。

「ありがとうございます。お部屋からは海がよく見えますので、夕陽の時間にはぜひご覧ください」

差し出された鍵には、内側が真っ青な見たことも無い巻貝が付いていた。貝の内側が海と繋がっているようなそれを不思議そうに眺めていると、受付嬢が教えてくれた。

「シェル・ラズリといいます。この辺りでしか採れない巻貝なんですよ」

「これも美しい。何処かで拾えるんですか?」

「この町には浜が少ないので、陸では難しいですね。潜れば見つかるかもしれませんが、生きている貝は中身がありますから、他の巻貝の中から探すのは難しいかと……」

尤もな回答に頷いて礼を述べ、荷物を運んでくれるボーイに従って部屋に向かった。ボーイは如何にも海の町に育った風の青年で、小型船の青年と同様の焼けた肌と澄んだ目をしていた。彼も四つ星にぴったりのスタッフらしく、荷物を丁寧に運び入れ、流れる様に室内の説明をしてくれた。その首にも、銀のプレートが有る。

「この辺りで、おすすめの場所を聞いてもいいかな」

「そうですね……小型船で海に出て、ダイビングや釣りをしたり、離島を拠点にサーフィンや、イルカを見たりするのが良いと思います。パステル・デ・ナタも美味しいですし、海沿いのマーケットに在るカフェのフルーツジュースも良いと思います」

「君は何をして遊ぶの?」

青年はちょっと気恥ずかしそうにはにかんだ。

「僕は潜ってばかりです。魚が好きだから」

「魚もいいね。この巻貝も見られる?」

「ラズリですか。離島に行けば有ると思いますけど……」

彼は語尾を濁し、苦笑した。

「最近見掛けないので、難しいかもしれません。潮流が変化したからとか……」

「なるほど。此処で見るのが一番良いみたいだね」

青年はにこりと微笑むと、きちんとしたお辞儀と共に去っていった。

一人になると、受付嬢推奨の窓辺に立ってみた。確かに、緩やかなカーブを描く入り江と海がよく見える。

持ってきた端末で、ペトラにメールを送った。


〈予定通り着いた。ホテルはすこぶる快適。清々しいほどに海しか勧められない。恐らくディナーは魚だろう。中が青い珍しい貝殻を見た。君も好きそう〉


一息ついて、レモンやライムの輪切りとハーブが詰まったウェルカムドリンクを啜っていると、間髪入れずに返事が返って来た。


〈お寛ぎの様で何より。最近、富裕層に人気の宝石『ナイト・パール』は売っているかしら。内側が青い巻貝から稀に採れると聞くけれど。ディナーの前に見て来て頂戴〉


仕事の早い女だ。ニムは溜息混じりに立ち上がった。外はまだ暑そうだった。

真っ白な陶器が据え置かれた洗面台の鏡で、シャツにほつれや汚れがないか確かめ、潮風に吹かれた顔を冷たい水で洗い、何の面白みも無いベージュの髪を整えると、森のようだと言われるグリーン・アイをぱちぱちさせる。

船酔いに病みやつれた様子は何とか拭えたようだ。高級なパールに見合うかどうかは不明だが、門前払いを食う程ひどくはない。

……やっぱり、ブラックが戻るのを待った方が賢明だったのではと思う。

彼なら単独でも上手くやるし、すらりとした彼が一緒なら、こちらの格式も多少は持ち上がるというものだ。

鏡の中で面倒臭そうな緑眼を見ていると、ふと気になって窓の外を眺めた。

部屋は三階だが、港より高台というのもあり、街を見下ろすと、ちょっとしたビルの上から見ている感覚だった。日差しは眩しいが、幸い、ペトラが唯一褒める自分の目玉は正常だった。人様より少々優れた視力で通りすがる人間を注視すると、様々な人種が居ることがわかった。こっちと似たような色白に、金髪や焦げ茶色の髪をなびかせる白人系も居れば、港町らしい褐色の肌に黒髪の者も居る。地理的には欧州に近い為、こちらに似た様相の顔が多いが、中には東国を思わすものや、中東近辺の彫り深い顔立ちの者も居る――閉鎖国家のイメージがある割に、多種多様だ。

全部が全部、観光客ということはないだろう。

そして、やけに子供が多い。まだ早いと思うが、下校時刻なのだろうか?

何度か瞬いて見つめた後、腕時計を確認し、もう一度、鏡をチェックして部屋を出た。


海岸沿いの通りをぶらついてわかった。

此処は老紳士が言った通り、のんびりした休暇には最適だ。

温かい日差し、まったりした潮の香り、周囲には元気の良い子供たちの金のプレートがきらきらしている。別の地方の港では、マフィアが幅を利かせている所為で荒んだ子供が多かったが、此処の子供は一様に身なりも良く、血色も良い。大人と同様に様々な人種が居る点は目を引くが、おかしな要素は見られなかった。子供たちは鞄を背負い、二、三人のグループで歩きながらおしゃべりし、銀のプレートをした『大人』たちに元気よく挨拶したり、友達とキャンディの包みを分け合ったり、意味もなくふざけ合ったりしている。

宝飾店はホテルから程近い場所に在った。

『マダム・クラヴィス』という名の宝飾店は、観光客向けの商売でもひときわラグジュアリーな店のようだった。ごく普通のシャツとズボンで入るのが躊躇われる程度に整った店は分厚いカーペットが敷き詰められ、一点の曇りもないショーケースには見事な宝飾品が整然と並んでいる。他にも夫婦らしき客、ビジネスマンらしき男性、羨むようにショーケースを覗き込む若い女性たち、奥のソファーでスタッフと向かい合うカップルも居た。他の客が居ることにほっとしながら、美術館か博物館を回る様にショーケースを眺め、パールを見つけたところで足を止めた。

真っ白な球体に仄かなグリーンやピンクが照り映えるそれらを見つめていると、影のように近付いて来た男が、ショーケースの向こう側で微笑んだ。

「プレゼントですか?」

「ええ、母がうるさくてね」

こういうとき、恋人とすんなり言えないのは何故だろう。顔も知らない母親のことを早々に脇に追いやり、エセ孝行息子は首を捻った。

「何と言いましたっけ、あの――青いパールなんですけど――……」

「ああ、ナイト・パールですね? さて……希少ですからね。あまり入ってはきませんが」

爪先まで丹念に磨いていそうな男はケースの下から名簿のようなものを撮り出して捲り、愛想の良い困り顔を浮かべた。ニムはすぐにかぶりを振った。

「いや、いいんです。僕の行先が港町と聞くと、見てくるよう言うんですよ」

「お目が高いお母様ですね。宜しければ入荷次第、ご連絡いたしましょう」

「いえいえ、いつまでホテルに居るかわかりませんし――また覗いてみます」

特定の客にしか情報を開示しない可能性もあるが、それを調べるのはこちらの仕事ではない。店を退散し、暖かい潮風に一息つくと、ふと視線を感じた。

振り返るが、店の中からではない。周囲を見渡すが、美女の熱烈な視線はおろか、こちらを見ている者は居ない。

老紳士に教わった聖堂に行こうかと思っていたが、控えた方が良さそうだ。

遊び歩いて何か起きると、母でも姉でもない喪服女がうるさい。




 「モンス・マレにニムを?」

白髪混じりの髪をきちんと整えた紳士は、皺が増えてきた精悍な顔を苦笑させて言った。向かいの席で、感情の一つも無さそうな喪服の女が頷く。

「ペトラ、君の勘は素晴らしいが、ブラックを待っても良かったのでは?」

「ブラックが居たら、先にそっちに頼むわ」

そっけなく答えると、紳士がテーブルに置いた紙に視線を滑らせる。

「でも、そうね……ニムは居た方が良いと思った。こういう案件は、ああいうとぼけた男が居ると、容易に獲物が掛かるものよ」

「やれやれ、彼は餌か――……本職でもないのに難儀なことだ」

「ラッセル、貴方は人が良いからそう思うだけ。あの異常な視力だけでも、ニムは”こちら側”の人間なの。今回のような閉鎖環境は、手掛かりが有る可能性が高い」

「どうかな。私は君好みの手掛かりの方が透けて見えるよ」

常に美しい所作で座る紳士の視線が、紙の上に注がれる。そこに並んでいるデータは一見、ある場所の果物の収穫量を示す数値だ。迂闊な者は気付かないだろうが、果物の種類はリンゴにマスカット、パイナップル、オレンジなど様々なのに対し、一つの地域で採れているような表記になっている。

「モンス・マレに『果樹園フルーツ・パーク』が“居る”のは間違いないわね」

「ニムはこの事は?」

「そのぐらいわかるわよ。向こうで連中の動向に気付くかはわからないけれど」

「この間のような目に遭わせては気の毒だ。弟子に帰還を急ぐよう連絡しておこう」

「貴方こそ、ブラックを働き蜂みたいに思っていない?」

非難の眼差しに、紳士はニヒルな笑みを浮かべた。

「彼こそ、君の言う”こちら側”の人間だよ」

「……それなら、弟子にあの『白アスパラガス』を特訓するように言って」

「彼にやる気があるなら考えておこう。君はいつ、現地に?」

「そのうちに。私はこれでも忙しいの」

澄ました様子で言う女の視線は、紙の上から離れない。

まるでそこに、殺したい相手が居るような目だった。




 ブラックを待てば良かった。

若しくは筋肉痛を恐れずに、彼かラッセルに護身術を教わっておけば良かった。

……それは今、後悔することじゃないが。

意外にも夕食で魚介に加えて肉が出たことで、呑気にワインを飲んだ後のこと。

それはいい。料理は美味かったし、サービスも良かった。これで腹に異常が来ても後悔しない程度には良い夕食だった。

闇夜に立ち尽くしたニムが仰いだのは、ボクサーのような筋肉質の男と、その左右を固めるレスラーめいた二人の大男だ。ほんのちょっと大通りから路地を曲がっただけでこの有様では、老紳士が言っていたむさくるしさは並ではないらしい。

「金を置いていけ」

とてつもなく簡素な要求に、ほろ酔いの頭は逃げるより先につまらない後悔を繰り返した。昼間の穏やかな雰囲気に騙されて、いい気分で夜の街をぶらついたのが良くなかった。例のベック・ランの家という場所に、ちょっと様子を見るだけのつもりで行ってみようとしたのが良くなかった。

いやいや、しっかりしろ。この場合……目的は関係ない。

「おい、聞いてるのか?」

――聞いているとも。

ニムは声に出さずに答えた。

拳か足が飛んでくるのはよく理解しているが、こういう不当な支払いは慎重にしなくてはならないだろ? 何より嫌なのは、旅行者のこっちは現金キャッシュが貴重だってことだ。カードを持っていかれるのも困るが、小銭を出して怒りを爆発されても困る。

ポケットも探らずにぼさっとしている観光客に、徐々にリーダー格はイライラしてきたようだった。

「あんた、マダム・クラヴィスの客だよな? 怪我したくなけりゃ、さっさと出せ」

その頃には逃げる算段を始めていたニムはふと、男の首にあるプレートに気付いた。

薄暗がりに、全く光らないプレートに目を凝らす。

無論、金ではないが、銀でもない――木製か?

では、彼は。

急に意識が宿ったように、ニムはぱっと両手を挙げた。

「ちょっと待ってくれ。君たちは『その他』の人間か?」

一瞬、男は虚を突かれた顔をしたが、苛立つように睨んだ。

「だったら何だ?」

「あ、いや、侮辱する気はないんだ。落ち着いて聞いてほしい。僕はちょっとした取材中で……君たちの話を聞かせてくれたら、報酬を支払いたい。どうかな?」

悪くない提案のつもりだったが、男はやぶ睨みの目を向けただけだった。

「バカ言え。あんたにシケた金を貰うのと、有り金全部頂くのと、どっちが得かぐらい俺らにもわかるぜ?」

……おお、なかなか鋭い悪党だ。更なる好条件を与えようにも、彼らは一体幾らふんだくる気だろう? さて、大声を上げればどうにかなる国だろうか?

近頃出していない大声に備えて息を吸ったところで、唐突に右側に立っていた男がブタのような悲鳴を上げて前に向かって倒れた。

ぎょっとした男らが見た先に、一体いつからそこに居たのか、こちらと同い年かそこらの青年が立っていた。金髪らしき髪が縁取る顔立ちも、ほっそりした体つきも、ごろつきを蹴飛ばすにしては整い過ぎている。きらりと金の差す琥珀色アンバーの目にどきりとするのも束の間、彼の首にも光っていないプレートが有ることにニムは目を剥いた。

両手に紙袋を抱えた青年は、ファッションショーに迷い込んだ猫みたいな顔で、リーダー格の男を見上げた。

「マッドじゃないか。何してんの?」

「てめえ、ソレルか。なんでそいつに味方する!」

「味方?」

そこに来て初めて、青年はニムに気付いたようだった。

「俺は邪魔な障害物をどかそうと思っただけだよ。知らない奴だし」

「……一昨日、うちに来た野郎だ。いちいちお前に挨拶なんかしねえ」

「じゃ、次からは挨拶した方がいいね」

一体どんな一撃を食らったものか、起き上がれずに地面に突っ伏して呻いている男に苦笑を投げかけた青年は、ニムの方に顎をしゃくった。

「そいつは誰? 観光客?」

青年はこちらをじろじろ眺めまわし、男の方を振り返った。

「こんな貧乏臭い奴をどうする気。フラれた女の代わりにでもすんのか?」

顔のわりに下卑たジョークを飛ばした青年を、男は今にも殴りそうな顔で睨んだ。

「おい、誰がフラれたって?」

「違うのか。じゃあ、ミリーと歩いてたデカい野郎は誰? そいつ?」

指された男がぎろりと睨まれ、首が取れそうなほど振って否定した。それを睨みつけてから、改めてリーダー格は振り向いた。

「適当な事言うんじゃねえよ。どこのどいつだ?」

青年は軽く肩を上下させてつまらなそうに言った。

「知らね。ミリーに聞けばいいだろ……フラれてないんなら」

全くその通りだとニムは思った。男は短く逡巡した様子だったが、ニムを見ると目的は思い出した様子でかっと目を見開いた。

「ええい、とりあえずお前! 出せるもん出していけ!」

乱暴というか雑な要求に再び選択を迫られる。逃げるのが一番だが、せっかく『その他』を見つけたのに、逃走するのは惜しい――此処に来て信じ難いうすのろが返事もせずに頭を掻いていると、青年がすたすたとマッドと呼んだ男に近付いた。

「なあ、こいつ、金持ちなの?」

「うるせえなあ……知るかよ。マダム・クラヴィスから出て来たのを見たんだ」

夕食前に冷やかした宝飾店の名前だ。ニムが襲われた理由を理解していると、青年も納得した様子で頷き、薄い唇でニヤっと笑った。

「ひょっとしてあんた、マダムのとこの新入り?」

「なんだと?」

ニムが何か言うより早く、マッドが反応した。声には明快に焦りが滲んでいる。

「お前また適当言ってんじゃ……――」

「別に信じることないさ。でも、マダムが宝石と同じくらい、男を集めるのが好きなのはあんたも知ってるだろ。近頃、茶がマズいとか何とかでお付きが一人クビになったし、そいつの代わりなんじゃない? 用心棒じゃあ無さそうだもんな」

指摘されると悔しいが、確かに「白アスパラガス」という不名誉なあだ名を持っているし、用心棒より茶汲みの方がしょうに合う。絵に描いたような初老の紳士なのにプロレスラーでも相手にならないラッセルなら別だろうけれど。

「…………」

しばらく男はこちらを睨んでいたが、何か思い当ることでも有ったのか、舌打ちした。

「運が良かったな、てめえ……そこのお喋りに感謝しろ」

外見を少しも裏切らない捨て台詞を吐くと、男は呻いていた手下をどやしながら山側の暗闇に去っていった。

残された青年を振り返ると、彼は半ば呆れた様子で苦笑した。

「あんた、のろまだなあ……俺が喋ってる内に退散すりゃ良かったのに」

……全くその通りだ。どうやら彼は助けるつもりで首を突っ込んでくれたらしい。

己のの悪さを恥じつつ、ニムはひとまず頭を下げた。

「助かったよ。ありがとう」

「助けたことになるんなら、どういたしまして」

「もちろんだ。僕はニム・ハーバー。つまらない作家だ」

片手を差し出そうとして、相手が両手に荷を抱えているのに気付いた。彼は面白そうに笑みを浮かべ、例の不思議な琥珀色の目を細めた。

「ソレル・クランツだ」

ごろつきの知り合いにしては優雅な印象の名を名乗ると、彼はこれ以上ない完璧なラインの小首を傾げた。

「作家ってことは、マダムの御手付きじゃないんだな」

「生憎、ご婦人の厄介になったことはないね」

そう答えながら喪服の麗人を思い出したが、彼女の家に踏み込もうものなら足が一本無くなるぐらいの覚悟はせねばなるまい。

「えーと、ミスター・クランツ……さっきの連中は知り合いの様だったけれど……」

「ソレルでいいよ。そうだね、知り合い。あいつはマードック・モロウ。そこまで乱暴な奴じゃないんだけど、金持ちが嫌いなんだ。たまに、あの店の客を捕まえて悪さをする。あんたは運が悪かったってこと」

「そうでもない。君が通り掛かった」

「ポジティブな人だ」

鼻で笑って行き過ぎようとする肘を、ニムは静かに捕まえた。

怪訝な顔をする彼の魅入られる様な目に気を取られつつ、プレートを確認した。やはり自分のものとは異なる木製のようだ。木肌ならではの照り返しこそあるものの、金属の輝きはそれにない。

「ソレル、君を良識人と見込んで尋ねたいことがある。今日じゃなくてもいい。時間を取れないかな?」

彼はわずかに驚いた顔をしていたが、金の差す琥珀色をネコ科の獣みたいに細めた。

「あんた、只の観光客じゃないな?」

そう言った彼の声は、先程までの軽やかな印象ではなかった。飼い猫が、急に野生の肉食獣に変わったようだ。手を離そうにも、怖気づいた手はむしろ離せない。先程の悪党よりも圧迫感のある視線にどうにか耐えつつ、ニムはどうにか首を振った。

「観光……いや、旅行者というところかな。この国のシステムに興味がある。公言されないようなことにも」

「ふうん……それはあんたが『作家』だから?」

「……ああ。多くの作家は好奇心に逆らえない」

「知ったら、それを書くつもり?」

「わからない。僕は新聞記者じゃないから、興味が有ることと、書くことはイコールにしていない。先日、大好きな食虫植物を取り入れようとしたら編集者に頭を抱えられた」

「食虫植物だって?」

急に出たパワー・ワードにソレルは唖然としたが、悲しいことに事実だ。

まあ、ウツボカズラやハエトリソウを後生大事にしているヒロインなんて自分でもどうかしていると思ったが。彼はその話を聞くと、女性編集者よりも阿呆を見る目でこちらを見下ろし、笑いを堪えた顔で頷いた。

「わかった。いいよ」

「有難い。いつがいい――」

「明日の夕方、五番街・裏路地の『パラダイス・フィッシュ』って店に来て。俺の知り合いって言えば入れるから」

この時、食虫植物に釣られるハエよりも迂闊な自分はまだ気付いていなかった。

……ごろつきより、よほど面倒な男を捕まえてしまったことに。


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