弱者と強者
声をかけてきた女の子は、どうやら路地裏に迷い込んで帰れず、助けを求めてきたようだった。
助けを求められるという初めての経験に、ダンは何も言わずただ歩き始めた。
女の子は無視されたのかと思ったが、帰り道が分からず、尚且つ年も近そうだったので信じて付いて行くと、思っていたよりあっさりと大通りに出られた。
女の子は安堵と嬉しさで胸がいっぱいになりながらお礼を言った。
「あ、ありがとう!……わたしグロア……あなたは、なんていうの……?」
「……ダン」
彼にとって初めての善行だった。当然彼自身にこれが善行だという意識は無い。そして自分の行いに対してお礼を言われたのも初めてだった。
(変な感じ……)
ダンの心に良く分からない感情が灯った。それはお礼を言うくらいだったら金が欲しかったなどという嫌味な物ではなく、かといって単純な嬉しさとも違う何かだった。
少なくともダンはなんとなく、やってよかったと思っていた。
暫くしたころダンがいつものように歩いていると、奥の方にグロアが歩いているのが見えた。何やら手提げを持ちながらキョロキョロと辺りを見回しては、不安そうに縮こまりながら歩いている。
ダンはまた迷ったのかと呆れつつも、今度は関係ないと踵を返そうとした時、ダンとグロアの間の十字路辺りに人がいるのが見えた。それは二人の男で、麻袋を持ちながらグロアを見ていた。
ダンは二人が人攫いだと分かった。そういった噂を聞いていたからだ。
その上でダンはグロアを助けるか迷った。今ならまだ助けられるかもしれない。しかし助けたところでお礼を言われるだけかもしれない。あの男達に目を付けられるかもしれない。
色々な可能性が思い浮かぶが、ダンが驚いたのは自分が迷ったことだった。
今までの自分なら、関係の無いことに首を突っ込まなかった。だというのに、今は行動する理由に他人が入ってきた。
何故かは分からなかった。だがどうしても知りたかった。
それを知れば、この心に光が差す、そう思った。
そして恐らく彼女なら……
(……知ってる)
ダンは走り出した。一直線にグロアへ向かい、ダンに気づいたグロアの手を握って走り抜ける。男達は突然のことで反応が遅れている。
「え!?……ダンくん!!?」
後ろを見て男達が追ってこないことを確認し、角を曲がって表の通りまで最短で駆け抜けた。
ダンが手を離し一息つくと、グロアは大きく息を乱しながら、
「ハア……ハア……わたし……迷ってたわけじゃ……でも……あ、ありがとう」
そう言って開いていた手を確認すると、今度は慌てだす。どうやら持っていた手提げを落としたらしい。
グロアは動揺して路地裏に戻ろうとするが、ダンはその腕を掴み、だめだ、とただ言った。
何故手を掴んで走ったのか、何故戻ってはいけないのかということを説明はしなかった。ダンに人と会話する能力は育っていない。
訳が分からないグロアもダンの真剣な目を見れば頷くしかなく、じゃあうちでお礼をする、と言った。
「前のお礼もしたいから……いこう?」
ダンはグロアに興味はあったがどこか分からない所に付いて行くのは気が進まなかった。しかしあの気持ちのことを聞きたかったし、お礼も気になるので付いて行くことにした。
「……ここだよ」
暫く歩くと、そこには家が連なっている長屋の様なものがあった。なんてことの無い、この町を歩けばどこにでもあるものだ。
しかしダンは衝撃を受けた。それは壁があって、屋根があって、扉があるのだ。いや、それ自体は知っているし、それに人が出入りしているのを見たことがあるので人が住むものだということも知っている。
(ここに住んでいる……?)
だが、自分とは縁遠いと思っていたものが、自分が助けた女の子が利用していると知った時、ダンの心を以前にも感じた黒いもやが覆った。
グロアに手を引かれるまま中に入ると、そこには数歳下と思われる男の子がいた。男の子は突然現れたダンに怯えたのか、グロアの足に抱き着き後ろへと隠れた。
「この子はトール、弟なの。人見知りで……聞いてる?」
「う、うん……」
初めて声で返答したが、ダンはそれどころではなかった。
(弟が……いる)
弟という存在も知っている。だが自分と年の近い家族がいるという意味を知らなかった。ダンは自分が持っていない二つを持っている、このグロアという女が怖くなった。
何故、これだけのものを持っているかが分からなかった。
「はい、座って。……冷めちゃってるけど、これすごいおいしいんだ!」
ダンを椅子に座らせ、何かを盛りつけた皿をダンの前に置いた。それは赤色のスープの様なもので、嗅いだことの無い良い香りがした。
ダンは一緒に出された先が丸く平べったくなった棒の意味が分からず、器を持ち上げ直接口を付けて飲むと、絶句した。
「おいしい……?」
「お、おいしい……」
ダンにとって食べ物とは、食べられるか、食べられないかだ。おいしさで選んだりはしない。そんなことを言っていては生活できないからだ。
もちろん残飯の中にも味の差異はあっておいしいと感じるものもあったが、今食べたものに比べれば全部同じだった。
ダンは何故か少なくとも今は幸福であるはずなのに、心を覆う黒いもやは大きく濃くなっていく。
「う……あ……」
「え?あ、辛かった?」
突然の口の中の痛みに悪くなったものを出されたのかとダンは思ったが、出された水を飲んでグロアの話を聞くとこれは「辛い」ということだと理解したようだった。
ダンは「辛い」が怖かったが、一口目のおいしさが忘れられず、また器に口を付けると一気に飲み干した。おいしさが口を通って喉を通って腹に収まっていくの感じるのは初めてだった。
「ごめんね、それしかないから……」
物足りない顔が催促している様に見えたのか、グロアは申し訳なさそうにそう言った。
ダンにそんなつもりは無かったが、あればあるだけ食べるので無いと言われると残念だった。
「それ、お姉ちゃんの分だったんだよ」
トールの呟きに、ダンは思わずグロアを見た。
「よろこんでくれたみたいで、よかった」
自分の食料を他人に分け与えるという行為を、ダンは全く理解できない。食料が余る程残っているんだろうかと考えたほどだった。
そしてまた「辛い」の口を水で流すと、ふと水を見た。
(きたなくない)
その水は透明で色がついていない。ゴミも泥も混ざっていなかった。
周りを見る。家の中はダンには何が必要で何がそうで無いかは分からないが、奇麗にされているように見えた。なにより土埃が舞っていない。
ダンは分からなかった。
この二人はまだ働けるようには見えない。もしくは子供でも働ける場所があるのだろうか。
(この生活をどうやって二人で……)
「お母さんがね、たまにもらってくるの!」
(お母……さん……?)
答えはお母さん、つまり母親がいるから。なんてことの無い普通の答えだ。
「あっちの方にあるお酒屋さんではたらいててね、いつもは人気だからなくなっちゃうんだけど、たまに作りすぎてあまっちゃうんだって。それでね……」
ダンはグロアの話を殆ど聞いていなかった。
親がいるからという普通の答えは、ダンにとってはあまりにも残酷過ぎた。
ダンに親などいないのだから。
「――ねえ、こんどはみんなであそぼう!」
遊ぶ。
ダンは思い出した。前に路地裏から子供達を眺めたことを。子供達が楽しそうに走り回り、それを大人たちが微笑んで見ていた。
(あれはみんな、親がいたんだ……)
ダンの心は激しく揺さぶられている。自分の価値観も、考えも、グロアのそれと酷く違い過ぎた。同じ町で暮らしているのに、まるで別な世界の人間と話しているようだった。
今まで頑張ってきたものは何だったんだ。痛い思いも、寒い思いも数えきれないほどにしてきたのに、そんな自分より良い暮らしをしているのは何なんだ。
ダンはそう思った。考えたのではない。こう考えを纏められるほどの教育は受けていない。だから思ったのだ。
ダンの心は崖っぷちにいた。ダン自身は気づいていない。黒いもやに覆われて前が見えていないからだ。
ダンの心を救うには目を塞ぐ黒いもやを取り払い、後ろからその手を引っ張ってあげなければならない。
「ダンくんのお母さんにはちゃんとあそんでくるって言わないとダメだよ!わたしこの前すっごくおこられちゃって……」
「おれの……お母さん……」
ダンの心は真っ逆さまに落ちていき、激しく地面に叩きつけられて砕け散った。幸いだったのは黒いもやで目が覆われ落ちていく感覚を感じなかったことだ。
ダンの心を突き落としたのはグロアではなくダン自身の気づきだ。
助けられたグロア、助けた自分。
恵まれていなかったのは
――俺だ
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