無力
あまりに聞き馴染みがある声。姉ちゃんという呼び方。それはトールで間違いなかった。尿意のことなど忘れ扉の方に這って近寄っていく。
「トール、無事だったのね。怪我は無い?ご飯も食べさせてもらってる?全然帰って来ないから心配してたんだよ?」
「……」
「それとね?お姉ちゃんをここから出してほしいの。わたしはあの二人に謝らなくちゃいけないし、ダンくんも止めないと――」
「……姉ちゃん!静かにしててくれって言ったろ。ここで待ってれば、全部変わるんだ」
黙らせるようにトールは叫んだ。待っていれば全部変わる。何もするなと暗に言っている。
「……全部変わるって何?ダンくん達が領主になってどうなるの?」
「変わるんだよ、オレたちの扱いが。勉強出来たり、真面な所で働けるんだ。医者にだってかかれる。そうすれば……」
「そうすればお母さんも助かった……?」
グロアは湧き上がる感情を抑えられなかった。都合の良い夢を見る男に、その為に馬鹿なことをする男に、そんな男を簡単に信じた自分に、ただ腹が立った。
「そんなわけないよ。ダンくんが領主になったって、そんな簡単にわたしたちの扱いが変わるわけない」
「……でもダンが領主になったらあの力で……」
「それこそ最低だよ!確かに力で従えれば扱いは変わるかもしれないけど、それは表面だけで誰も認めようとはしない。わたし達を見る目がもっと厳しくなるだけ……」
反乱を起こし領主に成り代わっても、それが上手くいくとは思えない。グロアは領主の仕事を全く知らないが、貧困街の少年が務まるようなものでは無いと分かっていた。
この計画の先に未来は無い。何故それが分からないのかと問い詰めたいが、グロアはとてもではないが言えなかった。
自分もまた、それが悪魔のささやきであると分かっていながら目の前の甘露な蜜にまんまと誘われた愚かな蝶であると思い知ったから。
「……じゃあどうすればいいのか教えてよ姉ちゃん!姉ちゃんだって……母ちゃんと同じ病気になるかもしれないんだぞ!」
「それは……」
扉の向こうにいるのでトールの様子は分からない。しかしグロアには今トールがどんな顔をしているのか痛いほどに分かった。
この扉が無かったら、今すぐに抱きしめてあげたい。いや、そうでなくともこの言葉で慰めることはできるはずだ。だがグロアの口は動かない。下手な慰めはトールの問いに対する逃げだからだ。
グロアは肝心な時に役に立たない自分の口を痛めつける様に唇の裏を噛むことしかできなかった。
「騒がしいと思ったらよお、こんな所で何してんだトール?」
トールの心臓が跳ね、恐る恐る振り向くと、そこにはこの拠点に唯一残っている男がいた。
「お前はここに近づくなって言ったよな。なのになんでここにいんだ?」
のっしのっしと大きな足音を立てて近寄ってくる。
バレていないはずだった。ただやたらと話しかけてくるというグロアを黙らせて、あとは大人しく退散するつもりだった。しかしいつの間にか熱くなって長居した上に大きな声まで出した。怪しまれて当然だ。
「……ダンに頼まれ……」
「適当こいてんじゃねえぞクソガキッ!」
男はトールを殴り飛ばす。鈍い音がして軽い体は毬の様に転がった。
「トール!?」
なんとか扉を開けようとするも取っ手にすら届かない。今のグロアは何もできない。
「リーダーに気に入られてんのか知らねえけどよ、ずっと気に入らなかったんだ。生意気な態度取りやがって!」
倒れたトールを足蹴にし、罵詈雑言を浴びせる。醜い男の嫉妬が少年を痛めつける音を聞き、グロアは黙っていられなかった。
「やめて!わたしがトールを呼んだの。わたしが悪いの!」
男はピタリと痛めつけるのを止め、「そうか、女が悪いのか」と呟きトールの頭を髪を掴んで持ち上げた。
「……う……あ」
「おいトール。お前に何をやっても分かんねえだろうからよ、あの女を痛めつけることにした」
物置の中にいるグロアにも聞こえる様に話す。
「や……めろ……姉……ちゃんに手を……だすな……」
ボロボロのトールをこちらまで引きずる音が聞こえ、グロアは少し扉から距離を取った。
それは決して怯えから逃げようとしたのではなく、体を縮めて油断したところに反撃してやろうと考えたからだ。
(近寄ってきたら首を嚙み千切ってやる!)
震える体を叱咤するように心の中で気勢を上げる。
トールを痛めつけたあの憎き男に必ず反撃してやると決めて扉を睨む。
足音が聞こえる。男が扉の前に立った。横になって挟まっていたかんぬきを外し、地面に捨てたのかカランと音が鳴った。そしてギィと扉を開く。
それらすべての音がグロアの心臓を叩き、聞いたことの無い程の爆音に増幅してグロアの耳に一定の感覚で届く。
男が中に入ってきた。
無警戒に近寄ってきた。
今だ、動け!
そう心にすら浮かばない。当然体は一寸も動かない。
山よりも大きい巨人、グロアにはこの男がそう見えていた。
(姉ちゃん……)
トールはただ見ているだけ。目の前で起ころうとする惨劇を眺めているだけだ。
男がグロアに近づく。グロアは逃げもせず、呪いの眼に石にされたように動かない。それは当然で、体の大きい男を前に強気でいられる娘は、男の力を知らず、その想像力も無いのだ。
グロアは分かっていた。だから動けなかった。
トールもまた動けなかった。
(動けない……?)
トールの体はボロボロだ。殴られた際に頬を切り、歯も折れた。体中の打撲と、骨折もしているかもしれない。全身から痛みの信号が発せられ、動くなと脳が命令する。
(オレは、何もできないの……?)
トールはまた家族が害されようとしている。母が病で床に伏せたように。
また何もできないでいる。門を通してと言っても文字通り一蹴されたように。
(また、同じなの……?)
門番に蹴られた痛みを覚えている。最後の希望を、簡単に壊された。足掻いても、抵抗しても、自分ではどうしようもない力であっさりと捻じ曲げられ変えることはできない。
無力の痛みを体と心に刻み込まれた。
だから覚えている。だから忘れない。この無力を。このどうしようもない力を。
(……ふざけんな)
子供だから仕方ない。
(まただまって見てられるか……!)
それは他者からの慰めで、自分に対する言い訳ではない。子供であろうと、動かなければならない時がある!
「……待……て」
手を地面につく。それだけで激痛が走る。膝を立てる。涙が勝手に出てくる。
(へっちゃらだ……あの時、何もできなかった自分に比べれば……)
ボロボロの棒切れが一本、地面に立った。風がふうと吹けば今にも倒れそうな細い棒だ。だがその棒は、自分の意思で立った。
「ああ?……お前、まだ分かんねえようだな」
「トール……!」
物音に気付き振り返った男、その男越しに見つめるグロア。
正反対の感情を持つが、共通していたのは驚愕だ。
あれだけの傷を負ってまだ立ち上がるのか。理解できるはずも無かった。それ以上の傷を負ったことがあるなど。
体がふらつき前に倒れそうになるが、右足を前に出し踏ん張る。
グロアはそんなトールの様子を見ていられなかった。
「トール!もうやめて!いいから、わたしは大丈夫だから!」
「姉……ちゃんに……手を出すな……」
トールが左足を踏み出す。フラフラと、だが力強く踏み出した。
グロアは思った。
このまま見ているだけか。またトールが殴られるのを見ているだけか。
(ジークくんも。セシリアさんも、トールも頑張ってるのに、わたしは足を引っ張るだけ……!?)
怒り、苛立ち。自分に向けられた今までとは違う負の感情が、拭き飛ばされたなけなしの勇気を拾い集める。
変わると決めたのだ。行くと決めたのだ。このまま何もしないで良い訳がない!
「姉ちゃんに……手を出すなああぁぁッ!!!」
ふらついた勢いのまま踏み出し男に突進する。
「ガキがッ!今度は本気で……いってええ!!」
男の足首にグロアが深く歯を食い込ませる。
動揺した男の懐に突っ込み、トールの頭はその無防備な男の股間にめり込んだ。
「あ‟あ‟あ‟!!!」
一人が泡を吹いて倒れ、一人がその場に立つ。
「姉ちゃんに……手を出すな……」
「トール!」
ボロボロの棒切れには、勝利の女神がついていた。
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