第20話 王城は絶望の色に染まる

 死の間際だった。あと数刻後には死が訪れていた。

 丈夫な身体を持つ兄でも、その作りは人と同じ。

 けがをすれば血は出る。病にだって罹ってしまう。

 けれど、今、兄の命を奪おうとしているものは『飢え』だ。


 母、そして兄と妹の価値に気付いた父から逃れてきた。

 母を殺めた賊から逃れやって来た。

 ここに来れば生きていける。幸せな生活が待っている。

 そう言った兄の勘に従い、ここまでやって来た。

 結果が、黒い外套を纏い、鎌を携え、兄を見つめる骸骨の姿。幻視だ。

 その幻視は兄にも見えていたのだろう。

 一生懸命に、指も動かせないのに、『安心しろ』『守るからな』と妹を慰めてくれていた。

 だから妹は諦めない。最期のその時まで諦めない。

 たった一人残された、血の繋がる兄の命を諦めたりしない。


 盗みでも何でも――この身に流れる血が、その行為おこないを拒絶しようとも、妹は覚悟を決めた。


 だが、その時だ。


「おうー?」


 兄が声を発した。幻視に向けて腕を上げて指を差した。

 指一本も動かせなかったはずなのにだ。

 妹は唇の先を噛みしめた。

 自身の命を看取りに来た幻視を差して、『王』と呼ぶ。

 兄は最期の力を振り絞り、体を動かしたのかもしれない。

 いよいよ、命の灯火が尽きるその時がきたのだろう。


 涸れた心は水を生み出さない。

 だが、兄の最期の願い。兄が指差す方へ目を向ける――。


 幻視の奥、一人の子供の姿が目に映った。

 その子供が幻視と重なると、あろうことか幻視は霧散して消え失せた


 幻視が消えたことで、子供の姿がはっきりと見えた。

 妹は、一人の少年が向かって歩いてくる姿を見ていた。そして。


「煌めく綺麗な瞳だ」


 妹は答えない。だが、兄は答えた。


「おうー?」


「駄目だぞ、人に向かって指を差してはいけない。だが、自己紹介がまだだったな。ワレの名はグラスだ。して、うぬらの名を聞いてもよいか」


 少年に見合わない尊大な言葉使い。

 大人へ憧れる背伸びをした子供にしか見えない。

 だが、母を殺めた賊が追ってきたのかもしれない。

 油断を誘っている可能性もある。

 妹は油断せず周囲に目を凝らす。警戒を解きたくないのだ。

 だが、兄は――安心したかのように、片時も離してくれなかった握る手を解放させた。

『もう安心だぞ』。そんな風に、妹の心へ伝えてきた。

 そしてその隙を突かれた。


「よっ――――と。なんだ、随分と軽いな」


 少年は兄と妹を片手で持ちあげ、抱き寄せたのだ。

 妹は驚いた。

 驚いたなどの言葉では表せない程に、その内心では縦横に風が吹き荒れ狂っていた。

 母と弟にしか触れさせたことがない体。

 生まれたその時から自我が芽生え、守ってきた体。

 いくら隙を突かれたとしても。抵抗する力がなかったとしても。

 拒絶の意すら示すことなく体を許してしまったことで、妹は生まれて初めて思考が途絶え混乱に陥ってしまったのだ。


「うぬらはワレが預かる。よいな?」


 混乱から覚めない妹の代わりに、兄が少年へ抱き着きこれを了承した。

 その兄の姿を見た事で、妹もようやく落ち着きを取り戻し始める。


「帰ったら山羊の乳をやろう。で、体を清め体力が戻ったら、ワレがその乳を使った麦粥を馳走してやるからな。故に――もう安心しろ。大丈夫だ。これからはワレがうぬらを守ってやる」


 涸れたと思っていた心に水が沁み始めた。

 湧き出る勢いだ。

 妹は自身の変化に戸惑いを覚えつつ、自ら少年の頬に触れてみた。


「お、なんだ? 初めて反応したな? そんなに山羊の乳が好きなのか?」


 頬や言葉から伝わる安心感。確かな温もり。

 妹はこの温もりに安心を覚えてから、溢れ出た水を瞳からこぼし――。

「好き」と答え、少年に抱き着きついた。

 そして、張り詰めていた意識を手放したのだ――――。



 フルール王国に届いた数々の報告。

 タチアオイも落ち、騎士ローレアも捕虜となった。

 前線に残るは孤立したヤマツミーナ、立てこもるマリーと、ユラら羊蹄山の戦士たち。

 負傷兵合わせて約一万にも満たない兵。

 スレダ辺境伯が王都に到着次第、かき集めた二万の兵を預け、王都を守る最後の城、旧王都シャクナゲイルに入らせすつもりだが、滅亡をも過ぎらせる悲報や凶報の連続で、王城の中は絶望の色で染まっている。


 そしてその凶報の中には、ルクスが敬愛するグラスの名も刻まれていた。


『グラス・氷海コウミ・イヴェール、奪還したヤマツミーナからタチアオイの救援へ向かうが、これ叶わず討ち死に』と。

 エリオントに寝所へ連れられ、この知らせを聞いたルクスは、その場で気を失ってしまった。

 そして、エリオントの寝台で目を覚ましたルクスは、取り戻した平静な心で考えた。


(グラス兄様はルクスと約束した)


 ルクスが料理で一番嫌いな山羊の乳を使って作る麦粥。

 世界で一番愛しているグラスが作る、ルクスが料理で一番好きな麦粥。

『――帰ったら麦粥を作ってやるからな』と。グラスはルクスに約束した。


(グラス兄様は約束を違えたりしない)


 それに――微弱ではあるが、まだほんの僅かに繋がりを感じる。

 それを実感したルクスは、聞いた知らせを整理。

 そして、トールから居場所とその時の状況を聞き出し、自身がすべきことを考え始めた。


 トールからの話で新たに分かったこと。

 それは、やはりトールの勘が正しかったということだ。

 神ノ御子様を保護したはいいが、チュリップ王国は話し合いに応じずタチアオイ陥落間近。

 その為、タチアオイの近くにある湖畔へ潜ませていると、

 矛盾を含む可笑しな事を知らせにきたマリーを信じ、

 満身創痍のマリーを残し、すぐに僅かな兵と共に向かったグラス。


 トールはグラスの指示で、同じく陥落間近の中央ウグイノスへ向かい、帝王ヴァーミン・アントリューと一戦交えたが、間に合わなかった。

 その場合の指示もグラスから受けており、今は東のヤッサイに身を潜め、散った兵を集めている。

 これを聞いたルクスはグラスの無事を確信した。

 トールがグラスから離れることを了承した、それ即ち命の危険はないと判断したうえでの行動であるからだ。


 そして、現在もマリーとユラら羊蹄山の戦士は立てこもっている。

 攻撃を受けずしている。

 マリーを疑えと言わんばかりにだ。


 ルクスは得た情報から、フルール王国を窮地に追いやり、グラスを嵌めた裏切り者を導き出す為に意を決した。

 使用する未来は訪れないと考えていた祝福の力を。

 グラスの為に取って置いた残りの愛を――。

 補充された時間の全てを捧げることで、トールがいなくとも一度だけ繋ぐことが可能な祝福の力を、敬愛するグラスが信じたマリーに行使することを決めた。


 その結果、裏切り者の正体を確信した。

 トールの正しさを再確認した。

 マリーを信じたグラスの正しさも証明できた。

 万が一と考えて、あの別れ際でマリーの手を叩き、交信の路を繋いでおいてよかった。

 マリーには酷な事実を告げることになったが、ルクスは自身の英断を誇った。


 グラスは、主攻となるユラら羊蹄山の戦士をヤマツミーナに残した。

 グラスは、トールに東のヤッサイに潜むように指示をした。

 グラスは、ルクスなら考えを読み取ると信じ、トールに状況を託した。


 ルクスはグラスが戻ることを確信して、その来たる時に備えて――。

 英雄が回帰するに相応しい準備を、粛々と進めていったのだ。

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