第10話 古代語の意味
今さら遅いと考えつつも、グラスは上役の体裁と保つため、姿勢を正しマリーを向い待つ。
「幼子が眠られたついでに話をしたく外へ出ましたが、数年ぶりの帰郷――親子の時間に水を差してしまったでしょうか」
「なに、気にするでない。これから時間は山ほどある」
「はは、確かにそうでしたね。仲がよろしいのですね?」
「拳を落とされることが仲良しの証拠なら、そうなのだろう」
マリーはどこか哀愁漂う表情を作った。
そして『やはり仲がよろしいですね』と言って、気品を感じさせる笑みを浮かべた。
(――綺麗だな)
髪は短く、女性らしからぬ粗野なところもあるが、
見惚れてしまったグラスに対して、マリーは不思議な表情を向けてから会話を続ける。
「夜も遅いというのに、
「辺境と侮っていたか?」
「ええ、恥ずかしい事に」
「ならばその罰として、休暇の日は領内を巡るのに付き合ってもらおうか。まだまだ、見応えのある景色や旨い食べ物がわんさかあるゆえ、覚悟しておけ」
「ええ、その罰――喜んで科せられましょう」
向日葵の明かりも不要な程にこの場を照らす月の光。旨い酒や食べ物。その酒で火照った顔に当たる夜風。疑いが晴れたことで、気を張る必要のなくなった部下。しかも美しい見てくれをしている。それらが演出する、この無言の空間は何とも贅沢な時間だ。
その金銭には代えられない時間をもう暫し味わいたいと考えるグラスだが、それを敢えて
「マリーよ、危険な目に遭わせて悪かったな。ワレがもっと上手く事を運べておったら、
そう謝罪したグラスに対してマリーは静かに首を振る。
「イヴェール卿へ問わせていただきたい。無鉄砲で生意気な私をどうして助けて下さったのでしょうか」
「我儘だとしても、その精神は正しいものであった。故に――そのような部下を見捨てる上役など糞もいいところだろう。ワレはワレ自身が糞野郎に成り下がることを許せなかったのだ」
マリーは『イヴェール卿らしい面倒な言い回しだ』と言って、クスクスと笑った。
それから、笑う口元を隠していた利き手となる右手を、そのまま胸にかざし直し、マリーは真剣な表情をグラスへ向けた――。
「イヴェール卿が助けに来てくださらなければ――私は、スレダ辺境伯領の魅力を知らぬままこの世を去るか、盗賊の奴隷へと身を堕としていた事でしょう。ですから、この
利き手を胸にかざし、己が
フルール王国内で伝えられているこの行為には、表裏合わせて二つの意味がある。
表となる一つ目が、最大の感謝を伝えるものだ。
裏となる二つ目が、生涯あなたに命を捧げますと誓うものだ。
故に、卑屈な考えで頭が一杯となっていたグラスも、堪らず考えを改めることになった。
「マリーよ、自分を卑下する様な言を取って悪かった」
「ええ、貴方様は助けに来て下さったあの一瞬から私の英雄となったのです。ですから、これからもそうであってほしい」
「重い思いを押し付けられたものだな」
「何せ、私は我儘な部下ですから。イヴェール卿は、そのような我儘な部下の思いをも見捨ててはくれないのでしょう?」
意趣返しするマリーの言に、グラスは呆れたように息を漏らす。
「ふ、よく言う」
そして、右手を胸にかざし真面目な表情をマリーへ向けた。
「――相分かった。グラス・
「……左手に持つ徳利が何とも言いようのない感情を引き出してくれますが――もう一度、感謝を――。
雰囲気にそぐわず、ぶち壊す様な徳利を持つグラスが悪いのだろうが、何とも締まらない。
まあ、だが……遠慮の棘がなくなったのだろうと、グラスは前向きに考えた。
「ありがたく頂戴しよう。もしもワレが窮地に陥ったら、その得意とする弓で助けてくれよな」
「ええ、御任せください」
「付き合いも長くなりそうだ。これからは、グラスでよいぞ」
「ありがたく――。早速ではありますが、グラス様に訊きたいことがあります」
調子のよいものだと考えつつ、『言ってみろ』とグラスは訊き返す。
「何故にあの時、雨が降ると分かったのでしょうか」
「簡単よ、雨の臭いがしたからな」
「臭い……ですか? 私にはよく分からなかったのですが……」
「左様か。ワレが森で育ったことは知っておろう? その時の名残なのか、ワレの鼻は人よりも少し良いのだ。もしくは、討ち取った狼がワレに取り憑いているのかもしれん」
グラスは冗談を言いつつ、首元から紐で結ばれた狼の牙を取り出し、マリーへ見せた。
「なるほど、そう言ったこともあるのですね……もしやですが、ルクス嬢が常に良い匂いを纏わせている理由が、それに通ずるのでしょうか? 確か経営する商会も花水を取り扱っているようですし…………」
マリーは狼の牙へは大して気にも留めず、何故かルクスの話を持ち出してきた。
どうしてここでルクスの話題が飛び出るのかと、グラスは頬を掻きながら『どうだろうかと』答えて誤魔化す。
――以前までのマリーならばそんな発想に至ることはなかった。
単純に「素晴らしい」とグラスを褒め称えたことであろう。
幼子と同じように目を輝かせながら「狼の牙を見せてくれ」と、ねだった可能性もある。
だが、この旅がマリーの心や考えを乙女色に染めてしまったのだ。
そしてグラスは、そのことに微塵も気付いていなかった。
「……旅の途中の私は臭いましたでしょうか?」
どれだけ気を付けようとも、旅とは汗や土埃などで汚れるもの。
ましてや、体を洗う機会も少ないのだから臭って当然。
何とも答えにくい質問だ――と、グラスは心の中で嘆息した。
「……今のマリーからは女性らしい良い匂いがするぞ」
「そうですか…………」
石畳みへ視線を落とすマリーを見たグラスは『かー……間違えたか』と内心焦る。
何と言ったものか。だが、今は何を言っても逆効果かもしれない。
そんな風に頭を悩ませている内に、マリーはグラスをさらに追い詰める。
「グラス様はやはりルクス嬢のような可憐な女性が好みなのでしょう……」
「いや、マリーよ? ルクスはワレにとって大切な者だが、妹ぞ?」
「はて? ですが、確か血は繋がっておりませんよね? それに、旅の支度をする三日もの間、グラス様とルクス嬢は常に……噂によると寝食の時間ですら、手を繋がれていたと聞いておりますが?」
「いや、それはその通りなのだが……」
「皆、口を揃えてこう申しておりましたよ――」
マリーの言う通り、昼間は常にルクスが傍におり、夜はトールとルクスの双子に挟まれながら小さな寝台で寝ている。
食事を取る時でさえ、互いに食べさせ合う徹底ぶりだ。
グラスに甘いエリオントでさえ、呆れる程のものだった。
故に――嫌だ、聞きたくない。今すぐにでも耳を塞ぎたい。
そんな思いに駆られてしまう程の噂が流れることになった。
だが、徳利のせいで耳を塞ぐことも叶わず、グラスは後ずさりしてしまう――。
「――ロリイタコンプレイクスと。古代語ゆえ浅識な私には意味が分かりかねますが、きっと仲睦まじい二人を意味差す言葉なのでしょう」
噂される不名誉な称号を部下に言われたグラスだが、何とか涼しい表情を維持する。
けれども、その心の中では荒れ狂った風のように『ルクスのどこが幼子か!!』『皆、騙されておる!!』『あれは魔性の女ぞ!!』と、誰にも理解されない悲痛なる叫びを上げていた。
そして、徳利に残る酒をぐいっと一気に飲み干す。
「マリーよ、明日からは忙しくなる。ゆえに、今宵はとことん呑もうぞ」
「――!? ええ、是非に御伴いたします!!」
記憶を飛ばすまで呑むのがスレダ辺境伯領の夜だと、うそぶくグラス。
それに騙され、寝落ちるその時まで付き合うマリー。
数日後、新たに見つかった人種族が争いの火種を持ってくるとも知らずに。
スレダ辺境伯領初日の夜は、
こうして混沌と更けていく事となったのだ――。
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