第37話 妻の言い分

 翌朝もう一度温泉に浸かり、アワビ、ハマグリと、餅を買って帰路に就いた。

 帰りの新幹線は山側の席だった。来た日とは違って、空はどんよりと曇っていた。灰色の雲の向こうにどっしりと構える富士山が威圧してきた。


 熱海を過ぎた辺りで、鷹高田が「ああ、そう言えば」と言って席を立ち、網棚の鞄を開けて中から紙袋を取り出した。

 「これ、南並さんからです。奥様にどうぞとのことでした」

 無草は座ったまま、その袋を受け取った。

 「これは、これは、気を使わせてしまったみたいだね」と言って受け取った。

 紙袋には有名な真珠店の名前が書いてあった。チラリと覗いた箱の形から、無草はそれが真珠の付いたペンダントだろうと察した。これなら妻の機嫌も良くなるに違いない、と思った。メッセージはきちんと届いていたのだな。


 真珠の効果はてき面だった。

 最初に、アワビ、ハマグリと餅を手渡すと、妻は「有難う」とは言ったものの、大して喜んでもいなかった。それから、次に「これは南並さんからだ」と言って紙袋を渡した。真珠店の名前を見た途端、妻の目は輝き、顔全体に笑みが広がった。

 妻は「嬉しい」と言って食卓の椅子に座り、早速包みを開けた。無草は鞄の中の物を出そうとしていたが、妻の「えーっ」という声に驚いて振り向いた。妻が手にしている箱を覗いて、今度は無草が素っ頓狂な声を上げた。中には真珠のネックレスが入っていた。


 こりゃ何十万もするぞ、それも上の方だ。いや、それじゃ済まないかも知れないな、と無草は踏んだ。

 新曲は大ヒットだと言っていたが、よほど儲かったのに違いない。ここまでしてもらっていいのか、と思った。だが、まあ、昨日は四回も歌ったことだし、有り難く貰っておこう、と決めた。今さら返すというのも何だしな。


 妻の方は、ネックレスを手にしてうっとりした目で見たり、胸元に当ててにっこりと微笑んだりしていた。そして、

 「素敵だわ、こんなお礼をいただくなんて、きっと大変なお仕事をなさって来たんでしょうね。ご苦労様でした」と無草をねぎらった。

 妻はしばらくの間満足そうな笑みを浮かべ、ネックレスを間近で見、次は少し離して見る、ということを繰り返していた。だが、次第に顔が曇り始め、やがて思い詰めたような顔付きで言った。


 「これを着けて行く場所がない」

 そうして、不満げな顔を無草に向けた。

 妻に見つめられて無草は戸惑った。そんなことを言われてもなと無草は思い、気不味く感じて目を逸らした。妻は続けて言った。

 「初めて着けて行くのが誰かのお葬式だったら、真珠に申し訳が立たないわ」

  この言い分に、無草は多少の説得力を感じた。


 そこで、無草は、妹と歌舞伎でも見に行ったらどうかと言ってみた。妻は手を打って、

「そうする」と言った。

『稿料』は弾むという話だから、まあ構わないだろう、と無草は思った。それで済むのなら良しとしよう。


 だが、しばらく経つと、妻は再び暗い顔になって不満の声を漏らした。

「歌舞伎座に行くのに、真珠に合うお洋服がない」

 無草には返す言葉がなかった。妻は続けて言った。

 「段九郎様にお会いするのに、みっともない恰好じゃ行けない」

 無草は、これには同意できなかった。どこからそんな考えが出て来るのかさっぱり分からなかった。『向こうからは見えないよ』と言おうと思ったが、そんな話が通用しないことははっきりとしていた。


 妻はしばらくの間ぶつぶつ言い続けていた。

 仕方なく最後には無草の方が折れた。そして、まず、デパートに行って真珠に合う洋服を買い、それから日を改めて妹と歌舞伎座に行く、ということで話が付いた。

 最初から、小さな真珠が一粒着いただけのペンダントを買っていた方が良かったかな、と無草は後悔した。そっちの方が安く済んだに違いない。

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