第36話 予期せぬアンコール

 その場を離れる訳にはいかず、無草と鷹高田は、粗荒井の側で議員の話に耳を傾けた。

 議員の話は手慣れていて巧みだった。ときおり冗談を言っては笑いを誘い、その後、新聞やテレビでは聞けない政権の内幕を少しだけ披露して、観客に自分たちは特別だという気分に浸らせた。その後、「これも後援会の皆さんのお陰だ」と持ち上げて拍手を浴びた。話は随分と長く続いたが、気にする者はいないように見えた。


 話のネタが尽きかけたなと思えたところで、議員は南並を呼び寄せて新曲をヨイショした。

 「いやぁ、いいね。この歌は何と言ってもノリがいい。体が自然に動いてくるんだよ」

 「先生にそんなふうにおっしゃって頂いて、どうも」と南並が応じた。

 そうして二人が堅い握手を交わすと、会場全体が歓声と拍手に包まれた。会は双方にとって上々の出来だったようだ。議員は気を良くしたようで、歓声を制すると話した。


 「私も踊ってみようかな。どうです、皆さん?」

 歓声が一層高くなった。

 南並は笑顔で応じていたが、チラリと粗荒井に視線を向けた。

 その粗荒井は、議員の話を聞いた途端に顔色を変えた。そして、南並の視線を受けると、無草の顔を見て拝むような視線を寄こしてきた。

 無草は視線の意味を察した。だが、周りには三、四人の人間がいた。議員に関係する者たちのようだった。それで、粗荒井は山田に目配せをし、二人でその者たちを舞台袖から離れた方へ連れて行った。

 それに合わせて鷹高田が周りの様子を窺い、幕をずらすと無草を幕の裏側へ通した。無草は急いでテーブルの所まで行き、ヘッドホンを付けた。


 司会者の声が聞こえて来た。

 「それではもう一度、南並さんに歌って頂きましょう。『ルンバで南並』です。今度は会場の皆さんもご一緒にどうぞ。矢山田先生には『南並君』と一緒に踊って頂きます」

 『南並君』が出て来たようだった。前奏が始まり、無草は歌い始めた。会場全体が歌い出した。今や、無草の声を聞いているものがいるかどうか疑問だった。

 踊りの所になると、「いいぞ」、「上手いぞ」、「その調子」の声が掛かった。手拍子が会場を揺すった。


 歌が終わった。すると、今度はどこからか「アンコール」の声が出た。そして、それが波のように伝わって、繰り返された。

 再び前奏が始まり、無草はそれに合わせて歌った。

 結局、都合四回歌うことになった。会は大盛況のうちに終わった。


 議員と南並が退場し、観客たちが会場を後にし始めた。

「よかった」の声と足音、それにバンドが楽器を片付ける音を聞きながら、無草は椅子に座っていた。張りつめていた気持ちが緩んで、疲れの波が押し寄せて来るのを感じた。この調子だと自分が外に出るのはしばらく先になるな、と思いながら茶を飲んで喉の渇きを潤した。やがて、幕の端が広く開いて、鷹高田と粗荒井が入って来た。


 「突然で申し訳ありませんでした」と粗荒井が詫びた。「こんな展開になるとは思ってもみませんでした」

 「いやぁ。慌てました」と無草は応じた。「でも、盛り上がったようで、何よりです。」

 鷹高田は笑みを浮かべて「お疲れ様でした」と声を掛けた。


 「大成功でした」と粗荒井が言った、議員も、選挙に向けて後援会の結束が強まったとご機嫌でした、と説明した。無草が頷くと、粗荒井は続けて言った。

 「大変申し訳ありません。今晩は秋野原先生とご一緒できるといいのですが、敵いません。南並と共に、これからすぐ東京に帰らないといけないのです」

 「それはまた大変ですね」と無草が応じた。すると、

 「いえ、実は、いつもなら後援会の幹部の方を接待するのですが、そうして、もしその場でもう一度歌ってくれと頼まれるような羽目になると困るものですから、そうならないよう逃げるのです」

 と理由を説明した。

 「なるほど」と無草は頷いて言った。

 粗荒井は、今晩は疲れを癒して、是非ホテル内の施設で楽しんで欲しいと言うと、深々と頭を下げて去って行った。


 無草と鷹高田は言われた通りのんびりすることにした。まず、温泉に浸かって身体をほぐした。前の日以上に疲れているのを感じた。それから昨日同様のご馳走を、今日はたっぷりと食べた。その後ラウンジに出かけて飲んだ。旨い酒が出て来た。カラオケを勧められ、さすがにルンバは不都合なので『女一人旅』を歌った。大きな拍手を貰い、良い気分になった。

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