第35話 本番
次の日、発表会は午後からだったので、午前中はのんびりと過ごした。
朝起きて朝食を取ると、鷹高田と二人して再び大浴場に行った。温泉に浸かりながら、無草は、こりゃ禊をしているみたいだなと思った。その後喫茶室でコーヒーを飲み、それから売店をうろついた。売店でアワビとハマグリの煮物、それに餅菓子を買うと決めた。これぐらいで妻の機嫌は直るだろうか、と気になった。
そうしながらも徐々に緊張感は高まってきて、どうにも落ち着かなかった。
粗荒井からは、かなり早くに来る客もいるし舞台裏は慌ただしくなるだろうから、少し早めに来て幕の後ろで待っていて欲しいと言われていた。そこで、二人は早めに、軽めの昼食を取って部屋を出た。
演芸場に着き舞台の袖から客席を覗くと、もう所々に人が座っていた。舞台の袖でも四、五人のスタッフが、話し込んだり歩き回ったりしていた。全員が舞台の袖から離れるタイミングを見計らって、無草は幕の後ろ側に入った。開演までは随分とあった。テーブル脇に置いてある椅子が救いだった。無草は椅子に座り、周りのざわめきを聞きながら気長に待った。
やがて、「開演まで二十分です」だの「まもなく開演です」だののアナウンスが流れ、最後に開演のベルが鳴ってざわめきが消えた。
無草はヘッドホンを付けた。
ベルは随分と長く続き、それが止むとトランペットが高らかにファンファーレを鳴らし、演奏が始まった。スポットライトが激しく動き回り、それが天井を照らしたり、幕の裾の所々に出来た隙間から漏れたりするので分かった。歓声と拍手が聞こえて来た。
司会者が歓声を制し、観客に向かって礼を述べた。
「本日は、南並夏彦、歌手デビュー三十周年記念曲、『ルンバで南並』発表会にお出で下さり有難うございます」
大きな拍手が起こった。
「それでは早速、南並さんにご登場頂きましょう」
拍手が一段と大きくなって南並が現れたことが分かった。拍手はしばらく続いた。
それが落ち着いた後、南並と司会者が話をし始めた。南並は新曲がヒットしていることを告げ、「ひとえに後援会の皆様のお陰だ」と礼を述べた。それから二人は新曲の魅力について語り合った。しばらくして、話題がダンスとマスコット『南並君』のことになった。笑い声の交じった歓声が沸き起こった。
司会者が「それでは『南並君』にも来てもらいましょう」と言った。着ぐるみの『南並君』が舞台に上がったようで、さらに大きな歓声が起こり、その歓声は波のように繰り返しながらしばらく続いた。
それが落ち着いてくると、司会者が声を大きくして言った。
「それでは歌って頂きましょう。記念曲、大ヒット中の『ルンバで南並』です」
演芸場全体を揺らすような歓声が起きた。
南並はいつもこんな雰囲気の中で歌っているのか、と無草は感心した。無草の緊張はピークに達した。前奏が始まった。ヘッドホンがあって良かったと思った。
無草は歌った。出だしは昨日の方が良かったような気がした。だが、二、三小節も歌うと調子が出て来た。
曲はテンポが良い所になって、南並が踊り始めたようだった。歓声に手拍子が加わって聞こえてきた。手拍子に押されて歌うような経験のない無草はノリノリになって、気持ち良く歌えた。こんな雰囲気も悪くはない、と無草は思った。
歌い終わって長い歓声が続いた。それが少し静まると、司会者は観客に改めて南並への拍手を求め、南並と『南並君』を退場させた。すると、今度は議員の矢山田を登壇させ、会は議員による国政報告会に変わった。
これがこの会の最初からの目的であることは分かっていたが、無草は寂しさを感じた。客寄せパンダを演じる南並も苦労だな、と思った。
しばらくして、無草の周りに明かりが差してきた。無草が目をやると、粗荒井が幕の端の方から顔を覗かせていた。無草はヘッドホンを置いて近づいた。すると、粗荒井は幕の隙間を広げて無草を外へ招いた。無草が舞台の袖に出ると粗荒井が言った。
「秋野原先生、誠に有難うございました。お陰様で上手く行きました」
続いて鷹高田が声を掛けた。
「先生。ご立派でした」
出だしの所が今一つだったことを話すべきか、と無草は思った。だが、止めにした。最終的には上手く行ったのだ。わざわざぶり返す必要もないだろう。分かる奴はとっくに分かっていて、目をつぶってくれるに違いない。
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