第34話 リハーサル

 粗荒井が出て行ってからしばらく経った。幕を通してざわめきは聞こえて来たが、舞台で何が起きているのかは分からなかった。時折いくつかの楽器がバラバラに音を鳴らすのが聞こえて来たので、まだ始まりそうにないことだけは分かった。


 無草はヘッドホンを手に取り、片方を左耳に当てて見た。バンド前のマイクが拾う南並たちのやり取りが、はっきりとではないが聞き取れた。

「それでは一度やってみましょうか」という声が聞こえて来た。無草はマイクの前に立ってヘッドホンを両耳に当て、演奏が始まるのに備えた。

 ざわめきが消え、しばらくして前奏が始まった。録音したときに聞いていたものとは少し雰囲気が違っていて、無草は違和感を覚えた。バンドが違うからなのだろうが、ドラムの音が少し大きい気がした。置いてあるマイクの場所のせいかなとも思った。


 前奏が終わり、無草は歌い始めた。タイミング良く出られたと思った。音程も申し分なかった。

 ところが、最初のフレーズが終わったと思ったところで演奏が止んだ。それは一斉にというのではなく、いくつかの楽器の音が小さくなったなと思ったら、次第に他の楽器の音も止まった。だが、一、二小節はそのまま演奏を続けている楽器もあった。無草も歌うのを止めた。どこかしくじりでもしたのかなと不安になった。


 しばらく待っていると、ヘッドホンを通して「スピーカー」というのと、「音量」という二つの声が、小さいながらも聞き取れた。音響機器の都合だったか、と無草は安堵した。

 その後、「じゃあもう一度」という声が聞こえて来た。無草は耳を澄ませた。

 再び前奏が始まって、それに続けて無草は歌い始めた。今度も上手く行った。

 無草は目を閉じた。歌詞は覚えていたので、念のため時々目を開けて譜面に目を落とすだけでよかった。


 バンドの演奏に身を委ねて歌うのは気持ち良かった。ノリの良い曲で、自然に体を揺らしていた。

 やがて最後のフレーズになり、無草は声を張り上げた。最後の音を長く伸ばし、歌い終えると次第に消えていく楽器の音色を耳にしながら余韻に浸った。

 数人による小さな拍手が聞こえてきて、ざわめきが戻った。

 無草はヘッドホンをはずし、音を立てないようにテーブルの上に置いた。ペットボトルを手に取ると、茶を二口、三口飲んだ。


 しばらくそのままでいたが、周りの様子に変化はなかった。

 無草が舞台の壁に沿ってゆっくり歩き始めたとき、幕の端から粗荒井が顔を覗かせて笑みを見せた。そうして幕を開けたまま待って、無草が外に出るよう促した。

 「今、大丈夫です。お急ぎください」と言うので、無草は足早に幕の外に出た。

 舞台の反対側ではバンドのメンバーが腰を下ろして休んでいたが、こちら側には鷹高田と山田がいるだけだった。


 「有難うございました。上手く行きました」と粗荒井は頭を下げて礼を言った。「明日もこの調子でお願い致します」

 「どうも」と無草が返事をすると、鷹高田が「お疲れ様でした」と声を掛けた。

 無草は、南並の姿を探したが見当たらなかった。粗荒井が、プロデューサーと打ち合わせがてら喫茶室に向かったと説明した。


 その後粗荒井は無草に向かって、明日に備えて今日は温泉に浸かってゆっくりして欲しい、と言った。その様子から、粗荒井にはまだすることがあって忙しいのだろうと、無草は受け取った。それで、「分かりました」と答え、鷹高田に「それじゃあ、部屋へ行こうか」と声を掛けた。それを聞いた粗荒井は半ば走るように演芸場を後にした。


 部屋に戻ると、無草と鷹高田は着替えて大浴場に向かった。そんなふうに感じてはいなかったが、歌っている間は相当気を使っていたようで、無草は筋肉が強張っているのを感じた。それだけに温泉は気持ちが良かった。


 帰りに売店に立ち寄ってあれやこれやを見た後、部屋に戻って海を眺めていると、夕食が運ばれて来た。海の物が座卓いっぱいに並べられた。ビールで乾杯をし、箸を付けた。どれも旨かった。まだ若い鷹高田は大いに食べ、飲んだ。だが、無草はそこまで若くない。それに明日のこともあるので飲むのはほどほどにし、もったいないので全ての皿から少しずつ取って食べた。


 途中、粗荒井が顔を出した。

「こんな素晴らしい料理を有難う」と無草が言うと、「とんでもありません」と粗荒井は言って続けた。「この上の階にラウンジがあります。宜しかったらどうぞ。南並の事務所の者とおっしゃっていただければ、後はやってくれますから」と勧め、「自分は後援会幹部の相手をしなくてはならないので」と言って出て行った。

「何から何まで有難う」と無草は礼を言った。

 粗荒井が出て行くと、「彼も大変だな」と鷹高田と感心し合った。

 鷹高田はラウンジに行きたそうだったが、「明日があるから」と無草は断った。鷹高田は残念そうな表情をしながら自分も諦めた。

 その夜はすぐに休んだ。

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