第33話 幕の裏側
二時半過ぎに粗荒井が迎えに来た。もう用意ができていた無草と鷹高田は、すぐさま部屋を出て粗荒井に付き従った。
ホテルが大きい分、演芸場までは随分とあった。足早に進む粗荒井に付いて、無草と鷹高田はまず玄関ロビーに戻った。その先のカフェの前を通って進むと、通路の両側に土産物の売店が広がった。至る所に大勢の人がいた。
通路の角ごとに演芸場の方向を示す案内板が吊るされていて、それに従って進んだ。だが、ゲーム機が並んだところまで来ると、案内板が示す方向とは別の方向に曲がった。無草が訝しんでいると、しばらくして『関係者専用』と書かれた扉があって、そこを抜けて進んだ。その先の通路は狭かったが、しばらく行くと開けた場所に出た。舞台の袖だった。
なるほど、と無草は得心した。
舞台に目をやると、そこは、江戸時代は街道筋の茶店になっていた。今晩の出し物は任侠ものと、その後の歌謡ショーだと、粗荒井が説明した。
舞台上には二十人ほどが集まっていた。半数はバンドのメンバーで、舞台左手、無草たちがいる場所とは反対側で歌謡ショーに向けて準備をしていた。舞台の中央辺りには普段着姿の南並と、書類を手にした背広の男たちがいた。その内の一人が身振りを交えて南並に何かを説明していた。今回のプロデューサーということだった。
その説明を聞いているうち、プロデューサーの説明に合わせて南並が無草たちの方に顔を向けた。それに合わせて粗荒井が手を上げた。粗荒井に気付いた南並は頷いた。無草と鷹高田は会釈したが、その前に南並はプロデューサーの方に顔を向けていた。てっきりここで南並に挨拶をするのだろうと思っていた無草は、拍子抜けした気分になった。だが、よく考えて見れば当たり前に思えた。影武者が人前で本人に会うのは変だ。
すると、粗荒井が無草の方に体を向けた。
「ご説明します」と言いながら粗荒井は頭を小さく下げ、視線と手を舞台の奥の方に向けた。「秋野原先生には、あの舞台一番奥の幕の裏側に入って頂きます」
街道沿い、松並木の絵を書いたべニア板の奥に紫の幕が下がっていた。
「明日は背景が、新曲発表会向けのものに変わります」
そう言うと、粗荒井は舞台の壁際に向かった。
俺はあの裏側に入って歌うんだな。無草にはそれまで頭の中で漠然と理解していただけのことが、現実味を帯びて感じられた。
そこには何枚もの幕が重なっていて、どこが壁と幕の隙間なのか分かり辛かった。その脇の所に一人の若い男が立っていた。
粗荒井は、その男に「ご苦労さん」、と声を掛けてから無草たちの方を見た。
「事務所の山田です」と粗荒井が言うと、山田は頭を下げた。無草と鷹高田もそれに応じた。
「ここへの出入りは人には見られたくありません。明日は彼に、ここに立っていてもらいます。ですから、この壁際への出入り、特に中から出て来る際には彼に一声お掛け下さい。」
粗荒井は周りを見回して人気がないのを確認し、それから幕をめくって奥へ進んだ。無草はそれに続いた。だが、鷹高田は「私もここに待機することにします」と言って残った。そして、無草が入って行くと、鷹高田は幕が揺れるのを抑えにかかった。
壁と幕の隙間は無草が思っていたよりも広かった。幕の上の方から光が入っては来たが、暗かった。
粗荒井に付いて奥へ進んで行くと、小さなテーブルと椅子が置いてあって、その前にマイクと譜面台が立てられていた。テーブルの上には小さな灯りが置いてあって、周りを照らしていた。茶のペットボトルとヘッドホンが灯りに照らされていた。
ヘッドホンを見て、無草の緊張感はぐっと高まった。
「今、バンドは舞台の端の方にいますが、明日はちょうどこの前の所に並びます。演奏が始まれば問題ありませんが、静かなときに大きな音は筒抜けになります。お気を付け下さい。それと、幕には触れられないようにお願いします」
と、粗荒井が声を落として言った。無草は頷いた。
粗荒井はテーブルに近づくとヘッドホンを手に取った。
「このヘッドホンには、バンドの周りに置いたマイクが拾った演奏が流れます。幕を通って来る演奏よりも明瞭です。今日は大丈夫だと思いますが、明日は大勢が集まって、場合によっては拍手と歓声で演奏が聴き辛くなるかも知れません。ですから、これを付けてお歌い下さい」
そして、ヘッドホンを無草に手渡した。
「それと、このマイクですが」と言って粗荒井はマイクに手を掛けた。「スイッチのオン・オフは私どもで行います。演奏が始まったらマイクのスイッチは入っていると、ご理解下さい」
無草はもう一度頷いた。粗荒井が言った。
「では、私は南並に準備ができた旨、伝えに参ります。南並とプロデューサーとのやり取りはここからでは聞き取り辛いかと存じます。演奏が始まりましたらお歌い下さい。南並は先生のお声に合わせて歌う振りをします。宜しくお願い致します」
粗荒井は頭を下げると身を細め、無草の脇を、幕に触れないよう気を使いながら戻って行った。幕の途切れるところまで来ると立ち止まり、外に向かって声を掛けてから出て行った。
無草は喉の渇きを覚えて、茶を一口飲んだ。いきなり歌い始めて、声が裏返ったりしないか心配になった。一度声を出して見たいと思ったが、それは諦めた。
まあいいさ。そのためのリハーサルなのだから。駄目なら咳でもして、一度止めればいい、と思った。でも、そうなったとき、南並は上手いこと歌う振りを止めてくれるかなと、心配になった。歌が止んでいるのに、南並の口だけが動いているのはどうにもおかしい。
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