第31話 再登板

「しかし」と、無草が尋ねた。「どうやるのだね。私に、南並さんに化けろとでも仰るのですか」

「いいえ。とんでもない」と、粗荒井が答えた。「舞台には当然緞帳があります。舞台奥の壁の前にももう一枚幕がございます。その幕と壁の間には一メートルほどの隙間があります。秋野原先生にはその隙間にお入り願って、演奏に合わせて歌って頂くことを考えております。そうして、先生のお歌に合わせて南並が踊ります。」


 無草は腕を組んで考え込んだ。昔見たミュージカル映画に、似たような場面があったことを思い出した。確かあの映画の場合、歌の途中で実際の歌い手を隠していた幕が上がって、替え玉であることがばれてしまったはずだが。そんなのと同じ方法で果たして上手く行くのだろうかと、心配になった。

 鷹高田と粗荒井はそんな無草をじっと見守っていた。


 そこへ妻が入って来た。

「お待たせしまして」と言いながら、あんころ餅と茶を持って来た。

 妻は上機嫌で話した。

「こちらのマネージャーさんが持って来て下さったのですよ。三重の名物ですって。南並さん三重のご出身なのですってね。他にもあちらの干物を頂いたんですよ。あなたからもお礼を申し上げて下さいね」

 それから、盆に乗せてあったキーホルダーの人形を無草に見せた。

「これ、南並さんのキャラクターだそうですよ。どことなく似ていて可愛いいでしょう。他にもぬいぐるみを頂いたんですよ。後で見て下さいね」


 それから粗荒井に向けて言った。

「新曲のDVDまで頂戴して有難うございました。早速聞かせて頂きました。南並さん、本当に良いお声をしておいでですね」

 それを聞いて、粗荒井は「どうも」と言って頭を下げた。妻も会釈を返して出て行った。

 何十年も聞いているくせに俺の声が分からないのか、と無草は思った。

 そうして鷹高田の方に目をやると、鷹高田は下を向いて固い表情をしていた。笑うのをこらえているように見えた。


 こんな雰囲気では、無草は断ることは出来なかった。

 その夜、「仕事で三重まで行くことになった。二泊三日になるから着替えを頼む」と妻に伝えた。

 案の定、妻は不満げな顔を見せた。

「難しい仕事を頼まれたんだ。政治家もお出ましだそうで、ちょっと厄介だ。断りたかったんだけど、どうしようもない」

 無草は険しい表情を作ってそう言った。妻は「でも」と言って口を尖らせた。だが、最後には納得したように見えた。


 出発の前日、無草は何かあったときのためにと思い、妻に宿泊先を伝えておこうと考えた。それで、会場のあるホテルのパンフレットを妻に渡した。あの日、粗荒井が置いていったものだった。

 だが、それがいけなかった。ホテルが立派過ぎた。

 パンフレットの表紙は、海に沿ってプールと遊園地が並び、その奥に、屋根だけが和風の十階建てくらいはありそうなビルが鎮座する写真だった。表紙をめくると施設の案内が載っていて、巨大な浴場と、千人は入れそうな演芸場の写真が載っていた。他にも、和風、洋風のレストラン、それにラウンジも魅力的に写っていた。

 ホテルの名前と電話番号だけをメモして渡しておけばよかった、と無草は悔やんだ。


 夜になって、妻は鞄と着替えだけは出してくれた。だが、着替えを鞄へ詰め込むのは無草が自分でする羽目になってしまった。

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