第30話 政治家の影
「先生にはもう一度あの歌を歌って頂きたいのです」
「うん?」と、無草は不思議に思って聞いた。「録音はもう足りていたのじゃないのかね。ビデオはでき上っているのだし……」
「はい。それはそうなのですが、新しい事態が出て参りまして……。その辺の事情はちょっと複雑ですので、粗荒井さんに説明して頂いた方が分かり易いかと存じます」
そう言われて無草が粗荒井の方に顔を向けた。視線を受けて粗荒井が話し始めた。
「おっしゃる通り、秋野原先生のお陰で素晴らしい音源を頂きました。現在発売中のCDとDVD、それに配信事業ではこの音源を使っております。それに、今はテレビ出演の際にもこの音源を使ったビデオ出演の形を取っております。それが随分と好評を頂いております」
「テレビでもお使いですか」と、無草がいささか驚いて言った。
「はい。ところがこの度、今の音源を使ったのでは敵わない出演依頼が参りました。南並にとりましては、大切な公演の依頼でございます。これが、なかなかお断りし辛い筋からのご依頼なのです。そこで大変恐縮なのですが、もう一度秋野原先生に歌って頂けないものかと、お願いに上がった次第でございます」
「公演だって!」と無草が大きな声を出した。粗荒井と鷹高田が無草の顔を見た。
「はい。そうなのです」と、粗荒井が説明を始めた。「話が飛ぶようで申し訳ありませんが、年が明けて予算が成立したころを見計らって国会が解散される、という噂は秋野原先生もお聞きのことと存じます」
「ええ。ニュースでは聞いています」と無草は答えた。『話が飛ぶ』という前置きがあったにせよ、突然政治の話が出て来て驚いた。
「南並は三重の出身でして、そこは衆議院議員の
「ほお」と無草が答えた。矢山田と言えば大きな派閥の事務総長か何かをしている大物じゃないか。確か策士として有名だったが。そんな大物が後援会長をしているのか、と思った。
「先週のことになりますが、矢山田先生の方から三十周年記念パーティーを開いて祝いたい、というお申し出があったのです。南並としては、コロナの自粛ムードが残っていることを理由にお断りすることも考えたのですが、せっかくお祝いして下さるというお申し出に対して『遠慮したい』と返事をすることはなかなかできません。それに詳しく伺ってみますと、会場として地元のホテルをもう押さえてあるということです。どうも春の総選挙に向けて、矢山田先生の立候補決起集会を兼ねているようなのです。その辺りのことを考えますと益々お断りすることは敵わなくなりまして、新曲を一回だけ歌ってくれればいいという説得に押し切られてしまったのです」
「テレビ出演のときのように、ビデオを流して何とかできないのですか?」
と、無草は粗荒井に向かって言った。そして、助けを求めるように鷹高田の方に視線を向けた。鷹高田は表情を変えずに二人のやり取りを見ていた。
「そこなのですが、押さえているホテルと言いますのは地元でも最大級のホテルでして、大きな演芸場を備えております。そこには専属のバンドがおりまして、そのバンドの演奏で歌って欲しいということなのです。ですから、ビデオで済ませる訳にはいかないのです。秋野原先生、何とかもう一回、もう一回だけ歌って頂けないでしょうか?」
そう言いながら、粗荒井は深々と頭を下げた。
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