第28話 コロナ後遺症
「なるほど、そうですか。これまでの話だと、万事順調に進んでいて、問題はないように聞こえるのだがね」
「ところがです。」
鷹高田が顔をこわばらせて言った。
「南並さんの喉の具合が問題なのです。良くなる気配が感じられないようなのです。いや、むしろ悪くなっているような気がすると、南並さんはおっしゃっておられます。お医者様の話では、なんでも、コロナは一旦治ったように思えても後遺症が出ることがあるそうです。これが治まるには、しばらく掛かるのではないかということです。」
無草は眉を顰めた。可哀相に、大変なんだろうなと思った。
「そのことがあって、弊社に相談に見えたのです。その内容なのですが……」と、鷹高田が一旦話を切った。「この後遺症のことは、何としても秘密にして頂かないと困ります。南並さんサイドでもこのことを知っているのは、ほんの数名です」
無草は黙って頷いた。
「まず、前もって先生には謝罪申し上げます。ですが、先週、先方が私どもの事務所においでになるまで、私どもも全く存じ上げなかったことでございます。その点はご理解願います。」
「分かった」と答えながら、何事かと無草は身構えた。
「先生には、先日渋谷のスタジオで新曲を歌って頂きました。それは、南並さんが歌う際の参考のためと、先生には説明を差し上げ、私どももそう聞いておりました。ですが、実はそうではなかったのです」
「違う。それはどういうことかな?」と、無草が聞いた。
「はい、先程説明申し上げた、南並さんの新曲ビデオのことですが、南並さんの喉が本調子に戻るのを待っていては、この秋の発売予定日までに準備することは難しそうだとなりました。しかし、延期してしまったのでは三十周年記念にならなくなってしまいます。そこで、今回作成するビデオでは、南並さんは踊りを披露するだけにして、歌声は先生のものを使わせて頂けないかと、そういう申し出があったのです」
「何だって」
無草が大きな声を出した。そして、しばらくうつむき加減になって考えていた。だが、あまりに可笑しな話なので、顔を上げると口元を緩めながら言った。
「しかし、そんなこと上手くいくはずがないよ。声が違うのだから」
「確かにそうお考えになるのは分かります。でも、そのことなのですが、実はお二人の声はとても似ていらっしゃるのです」
無草が怪訝そうな顔をした。それを見て、鷹高田が説明した。
「先生はご経験ありませんでしょうか。自分の声を一旦機械に録音して、後から聞いてみると、誰しも変なふうに聞こえるものです」
そう言われればそうだな、と無草は思った。
「先方は先生のお声についてしっかりと調べておられまして、弊社に最初来られたときには、もう先生のお声を使おうと決めていたようなのです」
「調べたって、どうやって」と無草が聞いた。
「はい。先方、どうやったのか、あの夜先生が銀座の店で歌われた声の録音を持っておりました。まずは、それを事務所の皆さんで聞き、南並さんが歌ったものとも聞き比べて、とても似ていると判断しました。そうして、それから専門家に依頼して声紋分析に出して比較されたそうです」
録音があっただって、と無草は難しい顔をして考えた。そして、思い出した。そうだ、あのとき、男が一人スマホをいじっていたな。あいつは俺の歌なんか聞いていないのだと思ったが、それは違ったのだ。あいつはスマホの画面を見ていたのではなくて、俺の声を録音していたのだ。くそっ、断りもなく勝手なことをしやがって。じゃあなんだ、あの晩の寿司は録音代だったというのか。
「お二人の声が似ていることに真っ先に気付いたのは、南並さんだったそうです」と、鷹高田は話を続けた。「南並さんが、あの晩あの店においでになったのは、喉の具合が良くならず三十周年記念の計画も見通しが立たなくて、苛々されていたからだそうです。少しでも気分を変えたいと考えられたようです。そこで先生の歌をお聞きになって、これはと閃いたのだそうです。それで、すぐに録音をお命じになって、翌朝一番で確認作業を始められたということです」
随分と手際良く進めたものだな、と無草は思った。
「そのあたりの事情につきまして、私どもが知りましたのは、先週末、先方が今回の話を持って来られたときのことです。何分初めてのことですので、社内、大変な騒ぎになりました。もっとも、役員を中心とした極狭い範囲ではありましたが。
契約の内容や著作権の問題など詰めなければならないことが多々ございましたので、緊急の経営会議を開いて検討致しました。その結果、前向きに進めるということになりました。先方もお急ぎのようでしたので、土日返上で作業を続けて参りました。先生にお渡しする『稿料』につきましても、どうすれば良いのか検討致しました。なんとか細部を詰めることができまして、今日午前の会議で、最終的なゴーサインが出ました。それで、私、早速先生にお伝えするよう指示を受けまして、参上いたしました」
ここで鷹高田は無草に顔を向けた。
「本日、お願いに参ったのはそんな次第でございます。先生には十分な『稿料』をお約束できます」
「ふーむ、そういうことですか」と、無草は頷いた。
アメはたっぷりと用意したということだな。社長は乗り気なのだろう。南並のような大物に恩を売っておけば、後々旨い話に繋がるかもしれないからな、と無草は考えた。
でもな、この前は参考だから好きに歌ってくれと言われていたから気楽に歌えたけれど、ビデオにして売り出すためとなれば話は違う。きっと緊張して上手いこと声が出て来ないのではないか。自信はないな。
無草の渋る様子を見て、鷹高田が続けた。
「それに新曲の録音の件ですが、先生には、先日何度も歌っていただいております。その中の良い部分を繋ぎ合わせて使うことで、ビデオの作成には十分に間に合うそうです。ですから、もう先生のお手を煩わせることはございません」
「なるほど」と、無草は答えた。そういえば、あの録音技師は「繋げる」と言っていたな、と思い出した。もう歌う必要はない訳だ。
しかし、鷹高田は、俺の声を使うための技術的なことばかり話しているな。社内で検討したというのも、そのことと金のことだけだったに違いない。無草はその点が気になった。その前に、そうすることの是非、出版社としての倫理についても考えるべきじゃないのか、と思った。
鷹高田はさらに続けた。
「新曲発表は秋ですが、それまでにしなければならないことを考えると、日程の余裕はあまりないとのことです。それで、先方のご希望は、是非とも早急に先生のご了解を得たいということです。先方には、ファンからの新曲を心待ちにしているという声が多数寄せられているそうです。この秋を逃してしまっては三十周年記念曲でなくなってしまいます。どうか、ファンの皆さんのお気持ちを裏切ることにならないようにするためにも、先生のお声を使わせて頂けませんか」
そこだよ、と無草は考えた。ファンの声を裏切らないためだと言ってはいるが、それは逆だ。俺の声を使うことの方が、むしろファンに対する裏切り行為じゃないのか。
『自分じゃ歌っていないものを自分が歌ったと言って売るなんて、そりゃ詐欺だろう』と、無草は言いかけた。だが、声に出すのは止めた。それは、いつも自分がしていることだった。俺に大したことを言う権利はないか。
そこで、無草は改めて考えた。
まとまった『稿料』が手に入るなら何よりだ。背に腹は代えられないからな。それに、もう何もしなくてもいいというのもいい。『うん』と答えさえすれば、今回のこととは縁が切れる。それで厄介なことは一切合切忘れてしまえばいい。
そうして、しばらく黙って腕を組んだ後、無草は「分かった」と答えた。
しかし、これで縁切りということにはならなかった。
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