第26話 録り直し
「結構でした」とディレクターが声を掛けた。だが、ガラス越しに見える彼の顔は、そうではないと語っていた。
録音室の扉が開いて、技術者を除く三人が入って来た。マネージャーはコーヒーを持ってきてくれた。
「最初にしては上出来です」とディレクターが慰めてくれた。それから、譜面を手にし、「いくつか気になったところがあります」と言って、一つひとつ指摘した。それらは、全て無草が拙いと思ったところだった。
ディレクターは、「じゃあ、この調子でリラックスしていきましょう」と言って、肩を上下させた。そうして、三人は部屋を出て行った。
ディレクターは席に戻ると、「行きます」と声をかけて来た。
無草は眼を閉じた。ガラスの向こうの人間や装置が見えなくなり、同時に自分が録音室にいるという事実が消えた。そこへ伴奏が聞こえてきて、歌詞の情景が浮かんで来た。
無草の中でメロディーと歌詞が一つになった。無草は伴奏に身を委ねるようにして歌った。声は自然に出て来た。歌っているという意識を感じなかった。
時間はあっという間に流れ、歌い終わって伴奏が止んだ。
「結構です」とディレクターの声が聞こえた。
無草が目を開けてガラスの向こうを見ると、今回ディレクターの目はそれが真実であると告げていた。
それでも「念のため」と言われて、もう三回歌った。
無草は、何かの記念撮影のときのことを思い出した。カメラマンがストロボを交換して、二回撮影した。あれと同じで、何かの場合に備えているのだろうな、と思った。気分を良くしていたので、大した疑問も持たず素直に従った。
結局、録音は一時間ほどで済んだ。
「オーケー」の声が掛かると、無草は録音室を出て隣の部屋に入った。
「お疲れ様でした」の声が掛かり、拍手が聞こえた。
無草はディレクターと技術者に礼を言った。先方も頭を下げた。そうして二人を残し、無草たちは帰ろうとした。
無草が部屋を出るとき、技術者がディレクターに向かって小声で話すのが聞こえて来た。
「繋げば上手く行くと思います」
繋ぐ?どういうことだろうと思ったが、そのまま部屋を出た。
エレベーターの前まで来ると、南並のマネージャーは改めて礼を言った。そして、懐のポケットから封筒を取り出して無草に渡した。『御車代』と書いてあった。無草は礼を言って受け取った。鷹高田も同じものを受け取っていた。
マネージャーは、まだディレクターと話があると言ったので、無草と鷹高田だけがエレベーターで降りた。
駅までの道のり、鷹高田はいつものように「お見事でした」と言って、無草の歌を褒めた。
「二回目からは気持ちよく歌えたよ」と、無草は答えた。「まあ、もっと厄介かなと思っていたけど、何とか終わったね。それに、思っていたよりも早く済んだ。何より、いい経験になったよ。何かのとき、役に立つかも知れない。あんな場所、なかなか入れるものじゃないからね」
鷹高田が頷いた。
鷹高田とは、妻が近くにいるからと言って、駅の近くで別れた。それから妻に連絡を取り、往きに決めておいた待ち合わせの場所に来るよう伝えた。そうして、待ち合わせの場所までいく途中、『御車代』の封筒を覗いてみた。思ったよりも入っていた。
無草は驚いた。疑念が沸いてきた。
俺の歌を聞くくらいのために、どうしてここまでするのだろう。今日、この録音をするためだって、かなりの金が掛かっているだろうに。
だが、それ以上考えは進まなかった。考えるようなネタは何もなかった。
妻と合流すると、喫茶店でコーヒーを飲み、帰りに弁当と菓子を買って帰った。
妻の機嫌は良かった。
しばらくはこのまま上機嫌が続くだろう。それが何よりだ。まあ、総じて良い一日だった、と無草は満足した。
そして、奇妙な出来事だったが、良い経験をさせてもらった。まあ、それも今日で終りだが、と思った。
実際は、そうでもなかった。
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