第25話 録音

 だが、鷹高田の言う通りやろうとすると、すぐに厄介なことが分かった。一つは、歌の練習を、いつ、どこでするか、ということだ。


 妻は、無草が物書き、しかも、作品には名前が載らないゴーストライターであることは知っている。だが、それ以上のことは話さないようにしていた。妻に話せば妻はきっと他の誰かに話すだろうから、結局は誰もが知ることになるのは間違いない。そうなると拙いことが起きるかもしれない。


 だから、当然、今回の依頼についても話してなかった。話そうにも、頼まれて歌うことになった経緯など説明するのは難しい。

 そうなると、無草が昼間から、鼻歌ならまだしも、突然歌を歌い出すというのは奇妙である。それも聞いたこともない歌で、おそらく最初はぎこちなく歌うことになるに決まっている。


 妻は一日中ほとんど家に居て、週に何度か買い物に出掛けるくらいがせいぜいだから、隙を狙おうにも時間は限られてしまう。そうなると時間が足りるか心配だった。どんなふうに歌ってもいいとは言われているが、せっかく歌うのだから、自分なりに納得がいくように歌いたかった。


 そこで、無草の方が家を出ることにした。「構想を練ってくる」と言って、近くの河原に出かけた。ベンチが置いてあるところがあったから、そこでCDの旋律を真似て練習した。一、二度は、一人でカラオケルームに行った。そこなら河原と違い、ときおり犬を連れて通る人に気を遣う必要もなく、大声で歌うことができた。


 もう一つの厄介事はスタジオに行く前日、そのことを妻に伝えたら、妻が自分も行きたいと言い出したことだった。「ちょっと出て来る」とだけ言って出掛けることもできただろうが、どれくらい時間が掛かるのか見当も付かなかった。それに、せめて着替えて行きたいと思った。もちろん、妻には何をするのかは告げず、ただの打ち合わせだと話したのだが、場所を聞かれて渋谷と答えたのがいけなかった。妻は、とにかく、自分が楽しそうなことから仲間外れにされるのが我慢ならないのだ。


「どのくらい掛かるか分からないよ」と言ったのだが、「大丈夫、ぶらぶらしてるから」と言い張って聞かなかった。

 まあ、別に不都合はないだろうと考え、「あまり遅くなったら、先に帰りなさい」と言って承知した。


 鷹高田の話だと、『稿料』の他に車代が出て、それはその日に貰えるということだった。

 こういう場合の車代だ。タクシー代なり電車賃なりを調べて、それをきっちり払うというのではないだろう。多少は色の付いたものであるに違いない。それなら、二人して電車で往復すれば余裕が出るだろうから、それで帰りに何か買ってやろう。そうすれば、妻の機嫌も良くなるに違いない、と無草は考えた。


 その日、二人で渋谷まで行き、駅で妻と別れてスタジオのあるビルまで歩いた。鷹高田が置いていった地図を片手に、十分ほどの道のりだった。通りに沿って、若い子向けの衣類や雑貨を売る店が続いていた。それらの店を見て、この辺りに妻が入って暇を潰せる店などあるのだろうか、と無草は気になった。


 スタジオの入っているビルは、小さな五階建てで、白い外壁のまだ新しいビルだった。スタジオは三階にあって、フロア全体を占めていた。エレベーターを降りるとそこは打ち合わせスペースになっていて、テーブルが二つとその周りに椅子が置いてあった。


 鷹高田はもう来ていて、その片方のテーブルを前に座っていた。他にもう二人いて、一人は南並のマネージャーだった。銀座の店で見掛けた男だったが、そのときはちらと見ただけだったので改めて挨拶をし、寿司の礼を言った。マネージャーの方は、南並は打ち合わせで来られないと言って詫びた。


 もう一人は、今日の録音を担当するディレクターだった。無草が「宜しく」と言うと、相手も同じことを言った。

 椅子に座るとマネージャーがコーヒーを出してくれた。しばらく、あれこれ話したが、話すのはもっぱら鷹高田とマネージャーだった。


 十分ほどしたところで、「では、そろそろ」とディレクターが時計に目をやって皆を促した。

 ディレクターは先頭に立って廊下を進んだ。少し行くと、ドアの上の所にランプが取り付けてある部屋が二つ、向かい合ってあった。そのうちの一つ、第一録音室と書いてあるドアをディレクターは開け、無草に入るよう促した。入るのは無草だけのようで、ディレクターと他の二人は隣の部屋に入って行った。


 録音室は無草が思っていたよりも広かった。そうか、と無草は思い至った。オーケストラと言うと大袈裟だろうが、バンドぐらいは入って演奏することもあるだろうからな。


 その広い部屋の脇、吸音の小さな穴がいっぱい空いた壁の近くにテーブルと椅子が置いてあった。そこに上着を置いて、部屋の反対側に目をやると、壁一面がガラス張りになっていて、その向こうに録音を操作するらしい部屋があった。そこには、先程の三人と、もう一人技術者らしい男がいた。その男とディレクターは機械を前に陣取って、鷹高田とマネージャーは奥の方の椅子に座っていた。


 無草がどうしたものかと戸惑って辺りを見回していると、「秋野原さん」と呼び掛ける声が聞こえた。その声は部屋全体の四方八方から無草を包み込むように聞こえて来た。だから、どこから話しかけているのか分からなかった。だが、ガラスの向こうを見るとディレクターがマイクに向かって話している様子が見えた。


 「マイクの前にお出でになって、マイクに掛けてあるヘッドホンを付けて下さい」

 ガラスの仕切りの前にマイクスタンドが三本、間を置いて立てられていた。それぞれのスタンドにはフックがあって、そこにヘッドホンが掛けてあった。ディレクターはそのうち、真ん中のマイクスタンドの方に手を差し出していた。


 無草は持って来た封筒から譜面を取り出し、それを手にしてスタンドの前に立った。ヘッドホンを付けると、

「聞こえますか?」とディレクターの声が聞こえてきた。

「はい」と無草は答えた。

 その後、音量の調整やら何やら録音のための作業が続いて、無草は言われるままに声を出してみたり、マイクとの距離を変えてみたりした。

 それが一通り済むと、「それじゃ。一度録ってみましょうか」とディレクターが言った。


 無草は緊張した。

 歌い方を参考にしたいというだけなのだから、何も考えず、思うままに歌えばいい。

 頭ではそう理解していても、ガラスの向こうで四人の男が自分を注視していて、目の前には大きなマイクがあっては、落ち着いていられなかった。


 少しの間があって伴奏が聞こえて来た。無草は歌った。ちょっと出だしが遅れたような気がした。歌詞は覚えていたが、念のため譜面に目を落とし、確かめながら歌った。

 途中、声が掠れかけ、思ったように声が伸びなかった。拙い気もしたがそのまま続けた。二番が終わり最後の部分を繰り返すと、伴奏が止んだ。

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