第23話 手打ち

 無草が席に戻ると、テーブルには真新しいボトルとグラスが置いてあった。それにフルーツを乗せた皿も来ていて、パイナップルで出来た山をマンゴーとメロンが取り囲んでいた。


 無草はそれらをじっと見詰めると、鷹高田の顔へと目を移した。鷹高田はゆっくりと拍手していた手を止めて言った。

「これは吉野之木先生からです」

 なるほど、多少の感謝の気持ちはあるのか、と無草は思った。無草は吉野之木の方を見たが、吉野之木はお付きと賑やかにやっていた。映画がヒットし、それに合わせて原作本が売れれば相当な実入りに成るはずだ。それなら、これくらいは何でもないだろう。


 無草の後から付いてきた女性が二人、席に着いて水割りを作った。皆で改めて乾杯をし、歌の話やら何やらで盛り上がった。

 その後、吉野之木が無草たちの席の前を通って行った。手洗いに行ったようだった。


 しばらくして戻って来た吉野之木が、おしぼりを受け取って手を拭いた後無草たちの席の前に来た。吉野之木は無草の方を向くと足を開いて中腰になり、膝に両手を付いて頭を下げた。そして、「この通り」と言った。

 無草も吉野之木の方を見て頭を下げた。まあ、そうゆうことであれば、これで手打ちにしてやろうと、無草は思った。


 鷹高田と二人で、ボトルを半分ばかり空けた。

 無草は、「そろそろお暇しようか」と話した。

 女性の一人がサインペンを渡して、ボトルに付けられた札に名前を書くように言った。無草は鷹高田の名前を書いた。もう自分がこの店に来ることはないだろう、と思った。

 無草は先に店を出た。鷹高田は請求書の送り先でも伝えているのか、誰かと話し込んでいた。


 無草は店の前で待っていた。鷹高田に一言礼を言うつもりだった。だが、鷹高田は、店を出て来るなり、何やら包みを差し出した。無草は礼を言うタイミングを逃した。代わりに包みを受け取って、

「これも吉野之木さんから?」と聞いた。包みは寿司折りだった。折りには厚みがあった。無草はそれを見て、どうしてこの手のは大抵二人前なのだろう、と思った。

「いえ」と、鷹高田が返事をした。「南並みなみなみ夏彦なつひこさんからです」


「南並夏彦? あの歌手の南並夏彦かね」

「はい。そうです。先生お気付きになられませんでしたか。店の奥の方でお付きの人と飲んでおられました。暗いので見えにくかったかも知れませんが」

 そうか、あの奥の方から俺を見ていた男は南並夏彦だったのだ、と無草は思った。見覚えがあると思ったのは正しかったのだ。


「店を出ようとしたところで、南並さんのマネージャーと名乗る方から声を掛けられました。そうしてこれを渡されました。驚きましたが、相手は大物ですし、ご厚意をお断りするのも失礼かと存じまして頂きました。理由を伺うと、先生のお声に心を打たれた、とのことでした」

 俺の声に心を打たれただって、と無草は驚いた。あの大物歌手が、と不思議でならなかった。自分の持ち歌でもないのに。まあ、最近では演歌を歌う人間も少ないからだろうかな。


 鷹高田が続けた。

「それで、御礼を申し上げて、名刺を交換致しました。そのとき感じたのですが、何やら他にも含むところがあるような話し振りでございました」

「ふーむ」と無草は答えた。妙な話だと思ったが、何ともしようがなかった。


 帰り道、心地良い酔いに包まれて電車に揺られながら、無草はぼんやりと考えていた。

 もう間もなく家に着く。だが、この時間なら、妻はまだ寝ずにいるだろう。きっとぶつぶつ言うだろうな。

 そのとき、妻が不満を口に出す前に寿司を差し出すか、それともある程度愚痴を聞いたところで寿司を差し出すか。どっちのほうがより効果的だろうか。いずれにしても、寿司を貰えたのは好都合だった。土産を買うのを忘れていたからな。

 それに、最後は気持ち良く飲むことができた。これなら、『社を上げての接待』と呼んでやってもいいだろう。まあ、良い一日だった。


 寿司の効果は、てき面だった。妻に寿司を手渡したのが、妻が嫌味を言う前だったのか後だったのかははっきり覚えていないが、妻は満面の笑みを浮かべて言った。

「まあ、それじゃ早速、お夜食に少し頂きましょう。あなたはどうします?」

 と、無草に聞いてきた。無草が「俺はいいよ」というと、

 「じゃあ、こっちは私が朝食に頂きますわ」

 と、勝手に決め込んだ。どのみち明日の朝、食欲があるとも思えないので、寿司のことなどどうでもよかった。家の中が平穏であればそれでいいと、無草は思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る