第22話 『女一人旅』

 そのとき、カウンターの向こうからバーテンダーが声を掛けて来た。

「カラオケでも一曲いかがですか」

「そうですね。先生、いかがですか」と鷹高田も勧めた。

 バーテンダーがそう言ったのは、店を盛り上げたかったからなのか、それとも、男二人がビールを飲んでいるだけでは店の売り上げが伸びなくて困るからなのか、そこのところは無草には分からなかった。


「じゃあ」、と言うと、無草はいつもの曲をバーテンダーに告げた。

 しばらくして「始まります」と、バーテンダーが声を掛けた。無草はそれに応じて腰を上げた。前奏が流れ始め、無草はそれを聞きながらマイクの方に向かった。


 マイクを持った無草に、関心を寄せる者はいなかった。何人かの女性が手を叩いてはいたが、視線を向けるでもなく、ただ前奏が聞こえて来た場合の反射のようだった。

 無草は眼を閉じた。周りが見えなければ、周りから煩わされることもない。歌詞は頭に入っているから大丈夫だ。


 女、世間を一人旅

 山あり、谷あり、当たり前

 嵐が来るのは、承知の上よ

 女、世間を一人旅

 暑い、寒いにゃ、もう慣れた


 無草のバリトンが店内に響いた。この歌が流行ったのはもう十年は前のことで、歌った女性歌手はこぶしを回すのが得意で有名だった。だが、その歌を、無草は滑らかな声で歌った。声はまろやかで甘く聞こえた。

 無草は目を開けた。目の前の席に座る一人の女性と視線が合った。周りでは、彼女だけが無草の方を見ていた。そして、思い詰めたような目付きで無草の歌に聞き入っていた。


 そんな女を泣かすのは

 冷えると毒だと、掛けられた

 煙草の匂いの、大きな上着

 今夜限りと分かっちゃいるが

 この温もりに、包まれたい


 先程の女性が一人、大きく拍手をした。それに釣られて何人かが無草に注意を向けた。

 無草は辺りを見渡した。


 その女性の肩越しの奥まった席に、何人かの男が座っていた。暗くて、全部で何人いるのかもはっきりしなかった。

 その男たちの真ん中で、一人の男が無草の方をじっと見ていた。拍手をするでもなく、ただじっとこちらに顔を向けているのが分かった。その男は周りの男たちとは違って、派手な大きな縞模様の上着を着ていた。無草は、その男の顔立ちに見覚えがあるような気がした。しかし、大き目のサングラスを掛けていたので、はっきりとはしなかった。


 その隣の男は無草には関心を寄せず、唯々下を向いていた。手の辺りにわずかな光が見えて、他人の歌よりもスマホの操作に夢中であることが分かった。

 まあ、そんなものだろう、と無草は思った。

 間奏が終わりに近づいた。


 女、海峡一人旅

 うねり、大波、当たり前

 時化が来るのは、承知の上よ

 女、海峡一人旅

 大風、嵐にゃ、もう慣れた

 

 今や、客のほとんどが無草に目を注ぎ、歌に聞き入っていた。


 そんな女を泣かすのは

 いつでもおいでと、渡された

 青いリボンの、鍵一つ

 いつまで居られる、この港

 普通の暮らしに憧れる


 割れんばかりの拍手が店を包み込んだ。先程の女性はハンカチで涙を拭いていた。

 店の女性は皆一様に美しく、きらびやかな衣装を身に付けている。だが、派手な見掛けとは裏腹に、それぞれに事情があってこの仕事に就いているのだろうな、と無草は思った。皆が何らかの悩みを持っているに違いない。

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