第19話 譲歩奪取

無草は呆れた。

 「それで、問題対処のために、役員も参加して緊急拡大営業会議が開かれました。議論が続く中、『著者急病により休載』ということにして、そのまま未完の形で終わらせようと、一旦はまとまりかけたのです。ところが、どうしても社長が納得しません。『大賞』は絶対に獲る、という立場を崩さないのです。『こんなチャンス、我社には当分来ない』と言い張ったのです。この社長の見方に賛成する意見も役員の間に根強くありまして、再検討することになりました」


鷹高田が一息ついて、ネクタイを緩めた。

「会議は延々と続きましたが、良い案は出て来ません。そのとき、社長が『マダムX』の件を思い出しました。それで、私に白羽の矢が当たってしまいまして、先生にお願いしてみるよう言われました。『何としても説得しろ。主任になったのなら、それらしい仕事をしてみろ』と」

無草は思い出した。先月だったか、鷹高田は真新しい名刺を持って、意気揚々とやって来ていた。


「先生、そういう次第でございます。ご無理申し上げているのは重々承知しております。どうぞお助け下さい」

鷹高田は深々と頭を下げた。無草は、目をつぶって両腕を組んだ。これは無理筋の話だ、と思った。

しばらくそうしていると、鷹高田が言った。

 「私、せっかく勝ち取った主任の地位が危うくなっております。どうか私をお助け願います」

 無草は鷹高田の顔をじっと見た。必死さが伝わって来た。


 無草は再び目を閉じて考えた。どう決着を付けろというのだ。無草は、『岬の先屋敷怪事件』を始めから思い返してみた。生き残っている登場人物のうち、屋敷の一人娘はこの話のヒロインだ。おどろおどろしい殺人事件の犯人と言うには爽やか過ぎる。それに、屋敷も財産もいずれ彼女の物になるのだから、家族を殺す理由がない。財産を早く手に入れようと、彼女を唆すような男の影もない。殺された家族が無残な姿で放置されているのを見て、心底驚き、顔色を失っていた。あの彼女を、今からどうやって犯人に仕立てることができるのか。


そして、それ以外に残っている主要な人物は刑事たちだが、皆捜査一辺倒の人物で個人的な背景など一切語られていない。だから、今からこの中の一人を犯人にするのはあまりに唐突だ。その他というと、郵便配達員やら村人たちで、ほんの数行、せいぜい二回登場するだけの者たちだ。皆犯人にするには軽すぎる。他に登場人物はいない。まあ、飼い犬や、敷地をうろつく猫はいるが。

 「ふーむ」と無草がうなり声を上げた。


鷹高田の話を聞けば、『岬の先屋敷怪事件』は元々『大賞』を獲って当たり前の作品だ。だから、仮に無草が最終回を書いて『大賞』を取ったとしても、大して感謝はされない。反対に、もし取れなかったら、全部こっちのせいにされる。つまり、この話は、俺にとって分が悪過ぎる。

 沈黙が続いた。


 そのとき、玄関のチャイムが鳴った。そして、「ちわー」という声が聞こえた。届け物か何かだろうと思った。しかしそれなら、「宅配です」と続くのが普通だ。不思議に思って玄関の方に気を向けたが、特段変わった様子はないのですぐさま考えを元に戻した。

 良い考えは出て来なかった。


 しばらくすると、襖が開いた。

 「お邪魔して済みません」と、妻は部屋には入らずに、廊下で両膝を付いた姿勢のまま言った。「鰻重が届きましたよ」

 無草が怪訝そうに見ると、妻が答えた。

「鷹高田さんがおいでになる途中で注文して来て下さったのですって。特上ですって。ここでは何ですから、冷めないうちにあちらでどうぞ」

 そして、鷹高田に頭を下げて言った。

 「私の分までも、相済みません」

 妻は明るい声を残して戻って行った。

 鷹高田の戦略は、円熟味を増してきているようだ。鷹高田の微かな笑みを見て、無草は思った。


 しかし、と無草は思った。たとえ鰻が二段になって入っていたとしても、そして、それに肝吸いが付いていたとしても、今回の話を受けるのは得策ではない。元々が、飲み屋の姉ちゃんに入れ揚げた男が起こしたチョンボの尻拭いなのだ。


 無草は鷹高田の顔にゆっくりと視線を送り、話し始めた。

 「君とは一度、一緒に飲みに行ったことがあります。吉野之木さんや社長とは違って、銀座までは少し距離がありましたね。確か北千住駅裏の焼き鳥屋だったと覚えています。」

 「はい。ご一緒させて頂きました」

 「割り勘でしたね」

 無草が攻めた。


 「はい。そうでした。ただ、端数については、私がご負担させて頂いたと記憶しております」

鷹高田の方に引くつもりはないようだ。

 「君はいっぱい食べて飲んだから、割り勘負けにはなっていないでしょう。それに、君は私の分も含めた金額の領収書を受け取っていましたね。あれは経理に出すためのものだったのですか」

 無草も負けるつもりはない。


「確かにおっしゃるとおりです」

鷹高田は一瞬引いたが、すぐに攻め込んだ。

「締めに中華そばをご一緒致しました。そちらは私がお支払いしたと存じます」

無草の方には、もう攻める手立てが尽きかけていた。

 「私は、チャーシュー麺が良かったのですが、乗っていたのは支那竹と鳴門だけでした」

 鷹高田の方も状況は同じだった。

 「はい。確か、鳴門は二枚乗っておりました」

 そして、二人とも黙り込んだ。


 「先生」と、しばらくして鷹高田が言った。「『岬の先屋敷怪事件』の最終回が出版の運びとなりましたら、社を上げてのご接待をお約束申し上げます」

 「そうですか」

 話は決まった。譲歩は勝ち取った。

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