第18話 作家の逃亡
「はい」と、鷹高田が背筋を伸ばして言った。「先生、弊社が隔月で出しております『小説フロンティア』のことはご存じかと思います。毎号お届けしているはずでございますが」
「うん。あれね」と無草が答えた。「毎回楽しみにしていますよ。あれは、君の所の良心ともいえる雑誌ですね」
「はっ。有難うございます」と鷹高田が頭を下げた。「あの中に連載の推理小説がございます。現在
「うん。あれね。もちろん読んでいますよ」と答えながら無草の心はときめいた。とうとう俺のところにも連載の話が回って来るのか?
「岬の先端に立つ、古い屋敷で起きた連続殺人事件の話ですね。屋敷の古びた感じと、凝った死体の様子が相まって、怪しい雰囲気を上手く出していますね」
無草は両腕を組んで目をつぶり、情景を思い出しながら話した。
「佳境に入って、次回が最終回、とうとう謎解きがされるので楽しみにしているところです。
私は最初から、お屋敷住み込みの運転手が怪しいと睨んでいたのだけど、彼は最終回を前にして、最後のところで海に落ちて死んでしまったからね。犯人が誰なのか興味のあるところです。実際、主な登場人物は皆もう死んでしまっていて、残っているのは屋敷の一人娘と刑事たちだけですからね。娘はこの作品のヒロインだし、刑事の中に犯人が隠れていたということになると、それは誰かの作品で読んだことがあるような気がするんだよね。吉野之木さんがどんなアイデアを持っているのか、楽しみです」
「先生」と、鷹高田が言い辛そうに話し始めた。「今日、先生にお願いに上がったのは、その執筆なのでございます」
「そうですか」と無草は答えた。
無草は、鷹高田が言った『その』を『小説フロンティア』の推理小説枠と理解した。そんな無草の気持ちは、いよいよ高まった。
「推理小説ということでしたら、私には長年温めていた考えがあります」と、無草は胸を張って言った。「簡単にお話ししましょう」
「いえ、先生」と鷹高田が制した。「この枠の次回作は、売り出し中の新人、
無草の体がしぼみ、表情は沈んだ。そして、言った。
「それじゃあ、何かね?私に吉野之木さんの作品の講評でも書けと言うのかね、それとも、和田轍さんの推薦文かね?」
「いえ。先生にお書き頂きたいのは『岬の先屋敷怪事件』の最終回でございます。」
無草は訳が分からず、鷹高田の顔を見た。鷹高田はその視線に応えて説明を始めた。
「先生のご慧眼の通りでございます。この連続殺人事件の犯人は、運転手だったのです。本来なら、最終回、罪を告白した後に、海に飛び込むはずでございました」
「それが、どうしてこの前の回で海に落ちてしまったのかね」
鷹高田は、自分は全ての場所に居合わせた訳ではないが、聞くところを合わせるとこんな感じだ、と断った上で話し始めた。
「この作品が『全日本推理小説大賞』の候補になっていることは、お話ししたと存じます。弊社の出版物が、このような大きな賞の候補になるのは初めてのことでして、社としては何としてもこれを獲りたいと考えておりました。それで、社長以下、折に触れ審査員の先生方に接触して、情報収集に当たっておりました。有力な審査員の先生方からは、既に好感触を得ておりました。それが前回の締め切り直前のことなのですが、社長が審査員長と会う機会がありました。その席で、審査員長から『このまま行けば、まず間違いないでしょう』という言葉を頂いたのです。
社長の喜びようといったらありませんでした。社長は翌日、吉野之木先生の自宅へ出向いてその旨お伝え致しました。『前祝いをしましょう』と吉野之木先生を誘いまして、その足で銀座へ繰り出すことになったのです。向かったのは、社長のこのところ行きつけの店でした。ところが、この店には、現在、吉野之木先生が大層熱を上げている女性も在籍していたのです。
吉野之木先生の喜びは重なって、少々舞い上がってしまったのです。それで、大慌てで原稿を仕上げようとしているうちに前回を最終回と間違えて、最後の場面で運転手を海に飛び込ませてしまったのです」
無草は唖然とした。そんなことが本当にあるのか。そんなふうにさせるとは、どれほどの美女なのだろう、と思った。そして、言った。
「しかし、そんなことはゲラ刷りの段階で気付くでしょう」
「それがです」と鷹高田が答えた。「賞への期待と原稿を書き上げた高揚感とで、酒席は随分と盛り上がったようです。店が引けた後もその勢いは止まりませんで、吉野之木先生とその女性はそのまま草津温泉へ出掛けてしまったのです。当時、誰も行き先を知りませんで、一週間して帰って来られたときにはもう出版されてしまっておりました」
「しかし、それなら吉野之木さんに何とかしてもらうしかないでしょう。訂正という訳にはいかないでしょうから、まあ、運転手は、実は双子だったとか何とか……」
「はい。それはそうなのですが、吉野之木先生、本を手に取ってご覧になると、『なんじゃこりゃ。わしゃ、もう知らん』とおっしゃって、今度はその女性とシンガポールへ行ってしまったのです。滞在先のホテルはすぐに分かりましたが、電話してもお出になりません。そこで、急遽、社員をシンガポールまで出向かせたのですが、部屋からは出て来られず、ドア越しに『何とでも好きにしろ』というのが吉野之木先生の返事でございました」
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