第13話 鷹高田の危機

 「それ以外のもの?」

無草は訳が分からずに聞いた。

 「はい。実は、弊社とJ事務所の社長同士が、自伝販売方法の打ち合わせをしたときのことです。二人にとりましても、自伝の出来は予想以上でした。そして、事務所社長の方から、ファンの間で自伝に期待する声が高まっている、という話が出ました。お酒が入っていたこともありまして、次第に話が盛り上がりました。そして、『これは大ヒットになるに違いない』ということで、見解が一致したようです。事務所社長からは『大幅増刷になるだろうから、準備だけはしておいて欲しい』という話がありました」

 無草は気を良くして頷いた。


 「それを受けまして、弊社では緊急の営業会議を開きました。そして、まだ発売前ではありましたが、先方意向の大増刷への準備をどう進めるかが議論されました。そうしましたところ、次第に議論がヒートアップして参りまして、いっそのことすぐに大増刷してしまおうということになってしまったのです。これは、弊社独自の判断になる訳です。その部数たるや、弊社始まって以来のものです。そうすることで、実際に大増刷の依頼があった場合、印刷のコストをかなり抑えられるはずでした。それによって、利益を大きく伸ばせると目論んでおりました。

 ところが、それが全部駄目になったのです。ここ数日は、印刷会社から運送会社まで、発注取り消しの手配でてんやわんやでした。

 それで、取り消しの方は何とかなったのですが、前金は当然戻って来ませんし、違約金も相当な額になることが明らかになりました。ざっと見積もっただけでも、弊社一年分の利益が吹っ飛びそうなのです」


 鷹高田は肩を落とした。

 「それは大変ですね」と同情して、無草が言った。

 「はあ。それ自体大変なことなのですが、事態はそれ以上に悪いのです。と言いますのも、その責めのほとんどが私のところに回って来そうなのです」

 無草が首を捻った。訳が分からなかった。

「今朝、緊急の経営会議が開かれました。これは主だった役員が出席して経営方針を決めるためのものでして、私なんぞが出席するような場所ではないのです。ところが、そこに呼び出されまして、非難の矢面に立たされてしまいました」


 「それはまた、どうしてかね」

 「はあ。発注には社内の決済が必要なのですが、この自伝の担当は私ですので、稟議書を起案したのが私であるからです」

 「しかし」と、得心の行かない無草が聞いた。

 「稟議書を回して決済を受けたのなら、君の他にも大勢が判子を付いているのではないかね」

 「おっしゃる通りでございます。会議には資料として稟議書が用意されていましたので、私、その点を申し立てました。私は営業会議で決まった方針をまとめただけで、皆さん承認の印鑑を付いておられる、と」


 「で、どうなりました?」

 「はあ。社長には『百円ショップで売っている三文判だな。俺は知らん』と、一蹴されてしまいました」

 「判子を押した人は、他にも大勢いたのではありませんか」

 「専務以下、一緒に呼び出された部長、課長までが、揃って右へ倣え、でございました」


 「なるほど。それで、君は?」

 「はい。私も右へ倣えをしたかったのですが、私の左にはもう誰もおりませんで……」

 組織の悲哀か、と無草は同情した。


 「で、社長が申しますには、『一年分の利益が飛ぶとなれば、人員を整理しなくてはならなくなる。もちろん、君はその対象になる』ということで、その場で営業部主任代理の話はとり消されました。借りていた社長の車のキーも取り上げられてしまいました」

 無草には思い当たるところがあった。そこで聞いてみた。

 「今日は車の音を聞かなかったけど、それと関係があるのかな?」

 「はい。他にキーもありませんので、神田から中央線に乗り、国分寺駅で自転車を借りてきました」

 「なるほど。それは大変でしたね」

無草は得心が行った。やっぱりあれは自転車のベルだったのだ。暑かっただろうに、と思った。

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