第三章 マダムX

第12話 話の膨らませ方

 一月半が過ぎた。うだるような暑さの日が続いている。しかし、涼しい部屋の中にいることの多い無草には、暑さの実感はそれほどなかった。

 チリンと、自転車のベルが聞こえたような気がした。午後も一番で、部活に行ってきた高校生の帰宅時間には早過ぎる。気のせいかなと、無草は思った。


 しばらくすると、チャイムの音とガラガラっと玄関の開く音がほとんど同時に聞こえてきた。すると、間を置かずに襖が開いて、鷹高田が背中を丸めて入って来た。無草が目を向けると、その向こうに、玄関に立ち尽くす妻の姿が見えた。鷹高田は、妻が玄関で迎えるまで待てずに入って来たらしい。妻は呆れた顔をして居間に戻って行った。


 鷹高田は大きな鞄を肩に掛けていた。無草の前に来ると、それを降ろして座った。そして、上半身だけを捻って鷹高田の方を向いた無草に、両手を付いて言った。

 「先生、お助け下さい」その声には切迫感があった。「会社のこともですが、それよりもこの私、鷹高田のことをお助け願います」

 無草は、鷹高田の話す勢いとその内容にいささか驚いた。だが、慌てた素振りは見せないように気を配り、鷹高田の方に体を向けて言った。

 「まあ、落ち着いて。最初から話して下さい」


鷹高田が体を起こした、額に汗を掻いていた。鷹高田が汗を拭うのを見ながら、無草が続けた。

 「この間の電話だと、J事務所の方は随分と気に入ってくれたということでしたが、何か問題でもありましたか」

 「いえ。お書き頂いた自伝については何も問題ございません。むしろ素晴らしい出来でございました。殊にアッちゃんにつきまして、学校の地図を載せて細々と案内し、時間割を使って月曜の一時限から順に説明していくというアイデアには感服致しました。それに、百葉箱についての先生の蘊蓄、面白く拝読しました」

 こう話しているうちは良かったが、ここまでくると鷹高田は肩を落とし、沈んだ小声で続けた。


 「それがでございます。あの子たちのグループが解散することになってしまったのです」

 無草は驚いた。解散といったって、まだデビュー前だろうと思った。だが、鷹高田の落ち込む様子を見ていると、そんなことを口にするのは憚られた。

 「一体何があったというのかね」


 「はい。実は、メンバーの中学生二人が、酒盛りをしているところの写真を撮られてしまったのです。それに、不純異性交遊の噂も出ておりまして、どうやらそれについて証言している少女たちの動画もあるようなのです。一昨日、午後のワイドショーで取り上げられまして、それ以降、テレビはこの話題で持ち切りになっております」


 「そうでしたか。気付きませんでした。その手のは見ないからね。確かにそれは拙いね。でも、小学生は可哀想な気がするな。連帯責任というのも分かるけど」そう言いながら、無草は腕を組んだ。「彼らは、まだデビュー前だよね。つまり、グループとはいっても、実際にはまだ存在しないものです。つまり、解散しようにも、解散自体できないはずです。だから、メンバーを小学生だけにするとか、他の子を加えるとかして、何とかするという道はないのですかね。そうでないと、頑張ってきた小学生には酷過ぎる気がします」

 すると、鷹高田はさらに気落ちした様子になって答えた。


 「それが、いけません。アッちゃんともう一人が通う小学校でいじめの問題がありまして、そのいじめた側にアッちゃんが含まれているようなのです。そして、この件も、どうやら週刊誌に嗅ぎ付けられてしまったようです。広く知れ渡るのは時間の問題だと見られています。小学生のことですし、事務所も手を回しているようなのですが、こう色々と問題が出て来ますともう手の打ちようがないようです」


 「なるほど、それじゃあ、もうどうしようもないということですか」

 「はい。今回の自伝の話は反故になりました」

 それではなんだ、と無草は考えた。それで、俺に助けてくれというのはどういうことだ。この自伝の稿料が口座に振り込まれたことは、妻から聞いて知っていた。まさか、それを返せと言うのではあるまい。無草の顔が強張った。身を固くし、両手を握りしめて鷹高田の顔を睨み付けた。あれは返さんぞ。


 無草の視線を受けて、鷹高田が身を引いた。しばらくして、その視線の意味に思い至った。

 「いえ。先生にお支払いした稿料の件で参った訳ではありません。今回の件で弊社に発生した費用は、全て先方が負担することで合意が成立しております。ですから、金銭面で先生にご迷惑をお掛けすることはございません」

 「なるほど」と無草の緊張がいくらか緩んだ。「それでは、助けて欲しいというのはどういうことなのかね」


 「はい。今申しましたように、これまでに掛かったものは頂けることになっています。ところが、弊社にはそれ以外のものがあるのです」

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