第二章 子供たちの自伝

第7話 時間圧縮の方法

 二月が過ぎた。じめじめとした空気が、肌にまとわり付いて気持ち悪い。そういう日が続いている。

 そんな午後、無草がいつものように書斎の机に向かっていると、車の近づいてくる音が聞こえてきた。聞き覚えのない音だ。テンポの良いリズムを刻む音は安定していて、途中で音が跳ねるようなことはない。そして、その早いリズムの奥に、もう一つ深みのある響きが隠れていて、「俺の力はこんなものじゃない」と訴えている。やがて、そのまま音量は下がっていって、静かになった。それからドアの閉まる音がした。深みのある音だった。


 玄関のチャイムが鳴って、ガラガラという扉の音がし、続いて妻の甲高い声が聞こえてきた。

 しばらくして、「鷹高田さんですよ」と、妻の言うのが聞こえてきた。それとほとんど同時に襖が開いて、鷹高田が背を丸めながら入って来た。鷹高田は勧められるでもなく座布団を手繰り寄せ、正座した。そうして、無草が体を向けると、両手を膝に付け、頭を下げて言った。


 「先生。この度は誠にもって有難うございました。先日電話でお伝え致しましたように、先方は自伝の出来を気に入られ、とてもお喜びでいらっしゃいます。店頭に並んだのは二週間ばかり前ですが、飛ぶような売れ行きです。ネット販売の方は、もちろんアマゾン一位でございます。」

 そう言うと、鷹高田は体を起こした。

 電話では聞いていたが、改めて鷹高田から本の売れ行きを聞くのは心地よかった。無草は笑みを浮かべながら鷹高田の顔を見た。

 このとき、おや、と無草は思った。鷹高田の頬の上のところが赤らんでいるように見えた。遊びにでも行って来たのかな。しかし、このところ東京は雨ばかりだったから、まだそんなに日焼けしたりはしないはずだがなと、無草は訝った。


 鷹高田が話し始めた。

 「それにしましても、先生の発想には驚かされました。ラスベガスで舞台に立つようになった後も、ニースでのアルバイトは続けていたことになさいました。ニースとラスベガスならフライト時間は半日と少しです。そして、時差は八時間です。それを上手くお使いになりました。ラスベガスの舞台が終わってニースに戻ればちょうど夜のバイトに間に合いますし、バイトを少し早く切り上げれば、今度はラスベガスの舞台に間に合います。フライト中はずっと眠っていればいいのですから、丸く収まります。これで概ね半年近く時間を短くなさいました。まあ、果たしてアルバイトの給料で飛行機代が賄えるか、というところは怪しいところですが……。しかし、先生はその点を、代わりのバイトが見つかるまでは続けないと店に迷惑を掛ける、と瑞和泉さんの律義さの表れだと説明なさいました」

 無草は黙って聞いていた。いささか得意げのように見えた。


 「もう一つ、日本へはかなり早い段階で帰国していたことになさいました。ラスベガスで人気が出て来た頃にはもう帰国の意思を固めていて、歌が出来上がり、録音した直後には帰国していた、というふうにです。CDの売れ行きと配信の結果が良くて、ヒットチャートに名前が出るようになった頃にはもう日本でライブ活動を開始していた、と。そして、ヒットチャート一位になったこととG賞にノミネートされたことは、プロデューサーからの連絡で知って『めっちゃんこ驚いた』との言葉で締めくくられました。これで、一年近く時間を節約することができました。それにこれですと、日本の大手レーベルからデビューしなかったことの説明にもなります」

 無草がゆっくりと頷いた。


「そして極め付けは、ニースとラスベガスとを行き来しているとき、閏年の二月二十九日があって、その日の便はたまたまシンガポール経由で、飛行中に日付変更線を越えたことになさった点です」

 鷹高田は一息吐いた。

「どうも、あの前後で時間が一年遡っているのではないかと思えるのです。でも、それが実に巧みで、先生のお話はぐいぐいと進んで行きますので、全く気にならないのです」

 「うむ。そこですがね」と、無草が話し始めた。「そこについては、あれで説明になっているのかどうか、自分でも良く分からないのです。まっ、でも、あれで時間が稼げた訳ですから、良しとしましょう」


 「SNS上でのやり取りを見る限り、その点に疑問を投げ掛ける向きはないようです」と言って、鷹高田は続けた。

「実を申しますと、瑞和泉さんの経歴につきましては、以前から一部で疑問が投げかけられていました。時間がずれているのではないか、というふうにです。もっとも、そういう疑問を投げ掛けた人たちのブログは熱心なファンたちによってすぐに炎上させられまして、どれも消滅の運命を辿りましたが……」

 何を今さらと、無草は思った。だが、顔には出さなかった。

 「それが今回の自伝出版によりまして、ファンの皆さんは一様に納得が行ったようです。『これですっきりした』という声がSNSには溢れています」

 「なるほど。それは良かった」


「瑞和泉さんも最近のコンサートでは、よく、ニースとラスベガスを往復したときのことを話題にしています。ツイッターでも『あの頃は、毎日機内食を食べていたな』ということを投稿しています。そして、それに続けて『機内食って、健康とダイエットに良いかも知れない』という投稿がなされていて、これが話題になっております。それ以来、ニースとラスベガスへのツアーに人気が出て、予約が殺到しているようです」

 無草は驚きの表情を見せた。


 「大喜びしたのは航空会社です。以前から、瑞和泉さんの若者への影響力には注目していたようなのですが、今回のことでその力を再認識することになりました。それで、彼女がこの夏のキャンペーン・キャラクターに選ばれました。すでに先週、沖縄でコマーシャルの撮影が行われまして、来週からテレビに流れると聞いています」

 「ほう、それは何よりでした」と、無草は答えた。沖縄の名に引っ掛かりを感じた。

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