今、何してる?

小野繙

今、何してる?


 一


「えっ、もしかして佐藤さん!? ヤバーイ久しぶり!」と手を振りながら対面に座った矢野ヒカリは、敬子に向かって満面の笑みを浮かべた。名乗っていないのに一目で分かるあたり、学生時代の面影が残っているのだろう。

「てか何年ぶりだっけ。成人式以来だから……十二年になるのかな?」

 そうだと思う、と敬子は答えた。ヒカリはやや仰け反って「十二年かあ~!」と大きく溜息を吐く。

「十二年もあるとさ、ほんと人生って変わるよねぇ。あ、そういや佐藤さんって結婚してるんだっけ?」

 していない、と敬子は答える。

「そうなんだ。私は五年前かな、会社の先輩と結婚して、今は子供も二人いるんだけどね。いや~、出産も大概だったけどさあ、育児ってマジで大変なんだね! 私すっかり舐めてたんだけど、」

 そう言ってヒカリは汗と忍耐に塗れた孤独な育児奮闘記をベラベラと喋り続けた。一度喋り始めると暴走機関車のように止まらないのが矢野ヒカリという女であり、その件に関しては、敬子も同じ図書委員を務めた高校二年という青春の日々のなかで学んでいた。ヒカリは図書室であるにも関わらず、よく敬子の耳元で囁いた。ねえこの主人公さ、いつもセックスしててヤバいんだけど。ヒカリは本のページをめくりながら続ける。しかも食べるのはパスタばっかり。セックスにもパスタにも飽きないのかな。敬子はしばらく考えて、きっと飽きないんだよと言葉を返す。この主人公には飽きるという概念がないし、自分から人生を変えるモチベーションもないから、ただ性欲と食欲を満たすためだけに味のしない女とパスタを惰性で食べ続けているんだよ。ヒカリはポカンとしていたが、やがてニンマリと口角を上げて、なるほどねと頷いた。

 可哀想な奴め。よし決めた、今日からコイツの名前は『性欲パスタ猿』だ!

 そんなやりとりを唐突に思い出したので、敬子は再会の場に生パスタが有名なイタリアンを選んだことに運命染みたものを感じつつ、油とニンニクに塗れたアーリオ・オーリオを召し上がるかつての同級生のことを眺めていたのだけれど、それまで気持ちよさそうにペラペラと話しながらクルクル回した麺を口に運んでいた彼女は、最後の一口までパクリと食べ切るや否や、まるでこの愛しいパスタが皿の底から無限に沸き続けて無くならないと信じていた子供のように、空っぽになったお皿を呆然と眺めていた。かと思えばふと我に返り、

「ごめん、そういえば私ばっかり話してなかった?」

 と顔を上げるので、ううん全然、と敬子は答える。もちろんそれは嘘で、実際には殆どヒカリしか喋っていなかった。けれどもその一方的なトークが当時と同じ距離感を生み出しているのもまた事実であり、そちらの方が敬子にとって途方もなく楽だった。敬子はしばし考える。

 やはり、彼女には何も言わない方が良いのではないか?

 しかしそれでは今日、この場にヒカリを呼んだ意味が無くなってしまう。

 敬子は結末を見届けなければいけなかった。ヒカリにメッセージを送った時点で、彼女が再会に同意した時点で、二人の関係が劣化し得ることは明白だった。ヒカリを大切にしたいのであれば、彼女にお揃いの制服を着せて、やがて結婚する男やいつか生まれる子供とも永遠に出会うことのない、あの記憶の中の図書室に閉じ込めておくことだって出来たはずなのに。

 けれども敬子はそうしなかった。そうしなかったのだ。

 敬子は深呼吸し、あのねと切り出した。ヒカリは敬子をじっと見ている。

 あなたにお願いがあるの。でもそれについては、最後に言わせてほしい。物事には順序というものがあって、あなたにはまず、私の父さんについて話したいの。これまで誰にも話してこなかった、私の父さんと、私の家族について。

「嬉しい」ヒカリはワイングラスを傾ける。「佐藤さんの話、ずっと聞きたかったから」

 そうかな、と敬子は言う。

「そうだよ。あの頃も、そして今もだけど、いつも喋っているのは私だったから。十年越しでも佐藤さんの話が聞けるのは嬉しい。佐藤さんの話だったら私、なんだって聞けるよ」

 だから聞かせて、とヒカリは微笑む。その声色は図書館にいる彼女を彷彿とさせた。そんなに面白い話じゃないけれど、と敬子は言う。頭のなかで敬子は、彼女に伝えるべき半生と、そこに纏わりつく家族について思いを巡らせている。


 あのね。私の父さん、ちょっと変な人なんだけど。



 二

 

 三十二年前、敬子は大型トラック運転手の佐藤太郎と、敏腕タクシードライバーである佐藤礼子のもとに産まれた。太郎は幼稚園の頃まではニコニコとよく笑う可愛らしい天使のような子だったが、小学三年生の国語の授業で「名は体を表す」という慣用句を学んで以来、自分の名前(佐藤太郎)があまりに普通であることに絶望し、「このままではごく普通のつまらない人間に成長するかもしれない」と爪を噛む、捻くれた人間になってしまった。

 太郎は普通と言われることを極端に恐れ、何でも他人と違うことをやりたがった。みんなと違う中学に行くために「お受験」をし、日本でも屈指の進学校に合格した。かと思えば入学式を最後に不登校になった。真面目に学校に通うのは、普通の人間のすることだから。その後、太郎は本来であればエスカレーター式だった超名門高校への進学を取りやめ、名前を書けば試験に受かると言われている治安も偏差値も最底辺の高校に首席で入学した。あまりの成績に「神童が来たぞ!」と教師たちが職員室で騒ぎ立てたせいで、太郎は入学早々、頭も素行も悪そうな先輩に目を付けられて何度も校舎裏でボコボコにされてしまったのだけれど、もやしのような身体でも決して暴力には屈せず、高校では腫れぼったい顔と骨ギプスを付けて皆勤賞を達成した。生徒の大半がサボるこの高校においては、逆に登校することが珍しかったのだ。それほど太郎は人生に珍しさを求めていた。

 その後、太郎はその高校で後にも先にも唯一とも言える大阪大学工学部(東大は賢い人間が行くにはあまりに普通であり、京大は変人が行くにはあまりに普通であるという考えによる逆張り)への合格者となり、その垂れ幕は今もなお高校にデカデカと飾られている訳だが、結局太郎は阪大にて何度も留年した末に、学部四年の卒業間近に退学を決意した。太郎の類い稀なる知性に惚れ込んでいた、配属先の研究室のボスである学歴差別主義者の教授は涙ながらに訴えた。

「頼むからアカデミアに残ってくれ! それがダメなら、ごくごく普通で良い! 大企業の研究職に就いてくれ! いいか、とにかく君がすべきは頭脳労働だ! どれだけ血迷ってもトラック運転手のような肉体労働の仕事には就いてくれるなよ!」

 太郎は素直に尋ねた。

「この経歴でトラック運転手って、そんなに珍しいんですか?」

「当たり前だろ!」教授は絶叫する。「そんな奴、この世のどこを探してもいないに決まってる!」

 太郎は教授の言葉を信じ、大型トラックの運転手になった。

 そのような男だったから、色々あって後に妻となる礼子と出会い、そのお腹に双子の赤ちゃんがいると聞いたとき、太郎はとても喜んだ。子供が生まれて嬉しいのではない。双子が珍しいからだ。双子は一卵性で、どちらも女の子だった。太郎はどちらの女の子を姉にすれば「普通」でないのかを真剣に悩んでいたが、それを見て担当医は大きく笑った。

「お父さん、悩む必要なんてありませんよ! 先に生まれた方がお姉ちゃんです」

「どうして?」太郎は訝しんだ。

「どうしても何も」医者は肩をすくめる。「日本ではそういうことになっているんです」

「へえ」太郎は呟いた。「それが普通なんですか?」

「普通ですねえ」医者は頷く。「普通というか、常識なんです」

 翌日、太郎は興奮した口調でベッドで寝ている礼子に詰め寄った。

「礼子、姉妹の順番を入れ替えよう」

「……どういうこと?」

「調べたところによると、明治政府が一八七四年に太政官布告を出して以来、日本ではずっと、双子が産まれたら先に産まれた方を兄・姉にするよう定めているらしい。けれども黙ってそれに従っているようじゃあ、あまりに芸が無いじゃないか。だから入れ替えるんだよ! 後から産まれた子を敢えてお姉ちゃんにしてやるんだ!」

 礼子はベッドの中でしばらく頭を押さえていたが、やがて「言いたいことが三つあるわ」と太郎を見つめた。

「まず一つ目。ご存じの通り、私は昨晩に二人の子供を産んだばかりで、まだ気分が優れないの。あまり大声を出さないで」

 太郎は慌てて手で口を塞いだ。

「そして二つ目。あなたが珍しいことを好んでいることは重々承知しているし、そんなあなただから私も好きになったんだけれど(二人は軽くキスをする)、この奇妙な風習は私たちの間だけで留めておくべきよ。子供たちは巻き込んじゃダメ」

「どうして?」

「どうしてですって? 子供は親の所有物じゃないからよ」

「そうなのか?」

「呆れた! あなた本当にイカれてるのね(二人は軽いキスをする)。そして三つ目、これが一番言いたいんだけど――あなた、お風呂に入ってる? めちゃくちゃ臭いんだけど」

 確かに太郎はここ数日、風呂に入っていなかった。口うるさい礼子が入院しているのを良いことに、一日一回は風呂に入るという「普通」にひとり抗っていたのだ。ついでに一日の食事の回数も七回に増やしていた。一日に食事は三回なんて、いったい誰が決めたんだ?

 そんな男だったので、礼子からやんわりと断られて、一旦はそれとなく「子供に手を加えるのはダメらしいぞ」と呑み込んだものの、やはりどうにかして双子の順番を入れ替えたいという欲求が沸々と湧き上がってくる。

 太郎が観察したところによると、この病院は出産後の環境として母子別室を採用していて、生まれたての赤ちゃんは新生児室という大部屋に集められ、スタッフによって管理されるらしい。とはいえ生まれたてのベイビーなんてどいつもこいつも似たような顔をしているじゃないか、一体どうやって見分けるんだと訝しむ太郎は、スタッフと赤ちゃんを観察するうちに、ベビちゃんのムチムチな手足にネームタグが付けられていることに気付く。なるほど、これで見分けているのか。確かに太郎の双子の足首にも「佐藤ベイビー1」と「佐藤ベイビー2」というタグが付けられている。

 太郎は閃いた。



 三


「というわけで、本当は敬子が妹で、愛子がお姉ちゃんなんだよ」

 そう太郎が切り出したのは、敬子と愛子が二十歳を迎えたお盆の夜だった。敬子と愛子が実家に帰ってきたこの日、散々酒盛りをした後で、太郎が数年ぶりに家族会議を開こうと言い出したのだ。礼子は敏腕タクシードライバーとして夜の繁華街へ稼ぎに出ていたので、リビングのテーブルに着いていたのは、太郎と双子の三人だけである。

「ごめん」敬子は耳を疑った。「今、なんて言ったの?」

「だからさ、産まれた時に入れ替えたんだよ。お前たちのネームタグを。双子だからベイビー1,ベイビー2みたいに番号が付いているだろ。それをこう、ちょちょいと……」

 太郎は子供のように無邪気な笑みを浮かべ、タグを入れ替えるジェスチャーをする。愛子は首を傾げて、

「そんな簡単にできるものなの?」

「ああ、時代が時代だし、何より運が良かったんだ。その日、担当職員は寝不足でね。誰にも気付かれずに新生児室に忍び込んで、お前たちのネームタグを入れ替えるのは想像以上に簡単だった。あまりにあっけなかったもんで、なんだかつまらなくてね」

 太郎はキョロキョロと周囲を見渡し、対面の二人に顔を近づける。

「ここからのことは誰にも言うなよ。実はその時なんだけどな」

 太郎は唇を舌で濡らし、声を限りなく潜めて、

「同じ部屋でおねんねしていた他のベビちゃんのタグも、全部入れ替えてやったのさ!」

 愛子は目を丸くし、敬子は絶句する。

「それで翌日、新生児室を覗いてみたら、アイツら自分の赤ちゃんが他人の子供とすり替わっているとも知らず、目元がキミに似ているだとか口元とかアナタにそっくりだとか、歯の浮くようなセリフばっかり言っているんだ! お前らの目は節穴かよってな! どうだ、最高に面白いだろ!」

 リビングはシンと静まり返る。誰も笑わなかった。

「ねえ」敬子は眉を怒らせた。「それ、本気で面白いと思ってるの?」

 太郎は陰鬱そうに息を吐き出し、限りなく小さな声で「すまん」と言った。

「今のは嘘だ。緊張のあまり、訳の分からないホラ話を吹いてしまった」

 愛子はホッと息を吐く。

「なぁんだ。じゃあ私たちのタグの話も嘘なのね?」

「いや、そっちは嘘じゃないって言うか……」

「は?」

「だから、その、」太郎は真面目くさった顔になり、

「お前たちのタグを入れ替えたのは本当の話なんだ。今まで黙っていてすまなかった……」

 と頭を下げてくるので、二人は顔を見合わせる。

「待って……じゃあ何? 本当は私は妹で、愛子はお姉ちゃんってこと?」

「まあ、そうなるかな……」

「いや、そうなるかなじゃなくて! な、なんで!? 何が目的でそんなことをしたの?」

「……だって、決められているって言うから」

「はあ?」

「違うんだ!」太郎は突如、大声を上げる。「今の俺ならそんなことはしない! お前たちを育てて二十年、育児と現実に揉みに揉まれて丸くなったことで、ようやく俺にも物事の分別が付くようになったんだ! ただ、当時の俺は何も分かっちゃいなかった。さながら俺はアマゾン川のピラニアのように、目についた常識に頭から突っ込んでいて――あの時もそうだ、なんで先に生まれた方を姉にしなきゃいけないんだって、医者の言葉にカッとなってしまって……気が付いたら身体が勝手に動いていたんだ! 珍しい方に!」

 あらぬ方向を指さす太郎を見て、敬子は深いため息を吐く。

「病気ね」

「違う、病気じゃない――いや、仮に病気だったとしてもだ。今ではすっかり丸くなって、誰もが羨む父さんだ! そうだろ?」

 愛子は微笑むだけで、何も答えない。

「で、どうする」と敬子が尋ねる。

「どうしようね?」と愛子も尋ねる。

「私は、市役所に行くべきだと思うんだけど」

「市役所?」

「ほら、現状の戸籍では、私が姉で、愛子が妹になっているわけでしょ? でも実際は違うんだから、市役所に訂正届を……」

「え~? それは別にさあ、出さなくて良くない?」

 愛子は眉根を寄せて言葉を続ける。

「だって私たち、二十年もこれでやってきたんだよ? 私にとってお姉ちゃんはお姉ちゃんだし、お姉ちゃんから見ても私は妹でしょ? それを今から覆したって、別に何にもならなくない?」

 至極真っ当な意見だった。いわゆる正論とも言えた。

「それとも何? お姉ちゃんは今からでも妹になりたいわけ?」

「い、妹? 私が?」

 不意を突かれて、敬子の口角が不気味に上がる。

「……は、そんなわけ、」

 そこから先の言葉を、敬子は口に出せなかった。それは愛子のためでもあり、自分のためでもあった。産まれてきた順番なんて、何の意味も持たないことを敬子は知っている。敬子は敬子でしかないし、愛子は愛子にしかなり得ない。

 同じ遺伝子のはずだった。

 二人の違いは、産まれてきた順番でしかないはずなのに。



 四


 礼子の愛した熟語のひとつに、「敬愛」というものがある。「尊敬し、親しみの心をもつこと」という意味を持つその熟語は、敬子と愛子という名前の由来にもなっている。

 礼子は片方に「敬」を授け、もう一方に「愛」を授けた。

「お母さんね、自分の礼子って名前が好きなの」

 いつか、礼子は敬子の頭を撫でながらそう言った。

「礼子って名前にはね、礼を重んじる人に育ちますようにっていう祈りが込められているの。それは私にとってはお守りみたいなもので――私も自分の娘に、同じような名前を付けたかった。愛子は誰からも愛される人に。敬子はみんなを敬い、誰からも敬われる人に育ってほしくて、」

 礼子は敬子の前髪を掻き上げ、額と額をくっつけた。

「そう考えると、敬子と礼子って似ているね」

 その日から、礼子は敬子の理想となった。

 暇さえあれば、敬子は礼子を探していた。腕と腕を絡めた。背中によじ登ろうとした。力の限り抱きついた。敬子は様々なやり方で礼子の身体に触れ、どうすれば同じかたちになれるのかを探っていた。けれどもその答えが見つかるよりも先に、それまでバリバリ働いていた太郎が大型トラックの運転手を辞め、専業主夫になることを宣言した。

「働き盛りの今、どうして仕事を辞めたのかって?」

 エプロンを着けた太郎は、玉ねぎを高速でみじん切りにしながらニンマリと笑って振り返る。「そっちの方が珍しいからさ!」

 以来、佐藤家では太郎が家事を担当し、礼子が外貨を稼ぐようになる。元より礼子は敏腕タクシードライバーとして会社で重宝されていたので、復職の一報は会社の人間をひどく喜ばせた。以前の礼子は昼日勤だったのだが、産まれたのが双子で何かと金が入り用ということもあり、復職してからは夜日勤を選ぶことにした。

 必然的に、礼子と過ごす時間は少なくなる。

 四人が揃うタイミングを作るため、佐藤家では早めの夕食をとるようになった。太郎の作る料理は非常に美味であり、食べ終えた礼子は(しっかりとした歯磨きの後で)愛しい三人にキスをして、すぐに会社へ飛び出して行った。双子が起きる頃には礼子もベッドに潜り込んでいるのだけれど、二人が興奮して礼子を起こそうとすると、太郎に首根っこを掴まれてリビングへと放り出されてしまうのだ。

「ママは仕事で疲れておねむなんだ!」太郎は両手を広げて腰を落とした。「人肌が恋しいのなら、俺の胸に飛び込んでこい!」

 大の字のように構えた太郎に、愛子は歓声を上げて一目散に飛び込んでいく。太郎はウッ!と唸り、顔を真っ赤にした。太郎は体幹が弱いうえにヒョロヒョロしているので、ミサイルのように勢いづいた娘を受け止めるだけでいっぱいいっぱいなのだ。

「どうした、来ないのか敬子ッ!」

 太郎のこめかみには、汗と血管が浮き出ている。その足腰は子鹿のように震えていて、その腰にはご満悦な愛子がコアラのように抱きついている。

 結局、敬子が自分から抱きつきに行くことはなかった。いつも太郎の腰には愛子がくっついていたし、愛子が喜んでいるならそれで良いと思ったからだ。愛子はワガママで、甘えん坊で、誰にでもすぐ懐いた。敬子は全くその逆だったので、彼女は長い間、礼子のお腹のなかで一人の赤ちゃんが二人に分裂するイメージを持っていた。敬子にとっては、愛子は自分から愛を持ち去った盗人でもあり、自分の代わりに愛を楽しむ貴族でもあった。



「だから私は、未だに父さんが苦手なんだよね」

『愛子じゃなくて?』

「愛子は……そういう対象じゃないの。あの子は私のなかで、ずっと治外法権というか」

 敬子はベランダに出て、夜風を浴びていた。遠くで電車の走る音が聞こえるが、きっとこの音は通話に乗らず、礼子の耳にも届かないのだろう。

「だから私、今でも覚えているんだけど……ちょうど二十歳の時に、愛子に妹になりたいのかって聞かれて、ドキッとしたの。そして考えた。私が愛子で、愛子が私だった未来。でもそれって夢物語でも何でもなくて、父さんが私たちのネームタグさえ入れ替えなければ、私は愛子になってたし、愛子は敬子になっていた」

「それからずっと、父さんのことが苦手だった。もちろん、それが理不尽な感情だってことは分かっている。結果として姉妹の順番が入れ替わっただけだし、それによって私たちが目に見える不利益を被ったわけでもない――でも、何度も考えちゃうんだ。もし父さんが普通の人だったら、私は妹として産まれて、愛子の名前をもらえたのにって」

 礼子はしばらく沈黙して、

『私があの人を見ていればよかったなんて、今更言っても仕方ないけど――せめてあなたに付ける名前は、愛子の方が良かったのかな』

「どうだろう」敬子は笑った。「こういうのって、口にする行為自体に意味があるって言うか。実際に私の名前が愛子になったとしても、私は誰のことも好きになれないと思うし」

『それって、』

「変だよね。分かってるよ、矛盾してるってことくらい。でも難しいの。私のなかで、ずっと父さんは変な人だし、私のことを邪魔し続けてる」

『……こういうことを言っても、意味が無いのかもしれないけど』

 礼子は丁寧に言葉を選ぶ。

『あの人が普通の人だったら……私はあの人と結婚していないし、そもそも二人も産まれていない』

「そうね、それはそう」敬子はため息を吐く。「でもやっぱり父さんって変よ、変すぎる」

『変なお父さんは嫌?』

「そりゃ嫌でしょ」

『あっそう。でも私は好き』

「なんで?」

『そういう人間だから、かな。あなたが人を好きになれないように、私はああいう変人が好きなの』

 敬子は星の瞬く夜空を見上げた。顔を上げなければ、礼子の語る「好き」に押しつぶされそうだった。

「何が好きなの?」敬子は泣きそうな声で言った。「母さんは、あの変人のどこが好きなわけ?」

 礼子は三秒ほど黙り込んで、

『……あの人のなかに、私がいたところ』 

「え?」

『付き合う前から、あの人はかなりの頻度で私に連絡をくれたの。当時は携帯電話が無かったから、私の家に直接電話が掛かって来て。私が電話に出るなり、あの人はいつもこう言ったわ。「今、なにしてる?」って』

「それが嬉しかったの?」

『そりゃあ嬉しいわよ。だってそれって、あの人の頭の中にいつも私がいるってことじゃない? あの人の何が詰まっているか分からない頭の中でも、私という存在はちゃんと生きているんだって感動したの。だってそうでしょ? どうでもいい人には、わざわざ用も無いのに連絡なんて取らないもの』

 敬子は何も言えなかった。スマホを握る手に力が入る。

『……連絡、来てるんでしょ? お父さんから』

「……来てるけど」

『なら、入院しているうちに顔くらい見せてあげてよね。お父さん、寂しがってたよ。愛子は家族みんなで来てくれるけど、敬子は全然来てくれないって』

「……別に、愛子が行けばそれで良くない?」

『良くないよ』礼子の声が静かに響く。『敬子と愛子は違うんだから』



 五


 敬子が相部屋の病室に入ると、左奥のベッドにやつれた太郎が横たわっていた。久しぶりに会うからだろうか。どことなく縮んで見える太郎は、実年齢より十歳近くは老けて見える。

「あれ。今日はなっちゃんは居ないのか?」

「父さん、私、敬子だけど」

「え? あっ、そうか、すまない……。二人が並んでいれば違いは分かるんだが、片方だけ見てもさっぱり分からなくて」

「別に気にしてないわよ。それより身体は大丈夫なの?」

「なんとかな」太郎は上体を起こした。「まあ、座れよ」

 太郎はベッドの横にある椅子を顎で指し示した。敬子は大人しくそこに座る。

「どうだ、最近の調子は。元気にやっているのか?」

「それはこっちの台詞なんだけど。ガンって聞いたけど大丈夫なの?」

「大丈夫も何も、至って普通の前立腺ガンだよ。早期に発見されたから治療はそれほど難しくないし、今のところは転移も無いそうだ」

「ふうん、なら良かったじゃない」

「何が良いもんか!」太郎は歯ぎしりする。「診察のときにケツの穴に変な機械を突っ込まれて最悪だったんだぞ! しかも前立腺ガンは、男が一番なりやすいガンだって言うじゃないか!」

 太郎はベッドに倒れ込んで、最悪だよ、と呟いた。

「この俺がありふれたガンに罹るなんて……どうせガンになるなら、もっと珍しいガンの方がよかった」

 敬子は呆れて溜息を吐く。

「変わらないね、父さんは。いつまで経っても変な人」

「そうか? これでも随分丸くなった方なんだが……」

「丸くなった、丸くなったって、そればっかり。どんだけ丸くなれば気が済むのよ」

 そうかなあ、と太郎は呟き、静かに目を閉じた。恐らく治療で体力も落ちているのだろう。話しぶりは以前のままだが、目に見えて表情が疲れている。

 病室は静まり返っていて、たまに部屋の前を看護師が通り抜けたり、隣のお爺さんが咳き込んだりしていた。太郎が目を閉じているものだから、敬子はやることも見つからず、いつ帰ろうかそわそわしながら悩んでいたのだけれど、ふと思い立って帰ろうとした瞬間、太郎がパチリと目を開ける。

「敬子」

「うわっ! なに、起きてたの?」

「起きてたさ、ずっと起きてた……」太郎は天井を見つめながら、まるで譫言のように、

「やっぱり結婚はしないのか?」

 と敬子に言った。敬子は深いため息を吐く。

「あのさあ……ほんと毎回それ聞くよね。私は結婚しないって、前からずっと言ってるでしょ」

「ああ、いや、違う。分かってるんだ」太郎はゆっくりと手を横に振る。

「お前はその、なんだ。他人に恋愛感情を抱かない、何とかってやつなんだよな? でもその何とかってやつも(アセクシュアルね)ああそうだ、あせくしゃるってやつも、絶対にそうだと言い切れないって言ってたじゃないか。もしかしたら、これから好きになる人が出てくるかもしれないって。だからそう、俺が聞きたいのはつまり――」

 太郎は一度だけ咳き込んだ。

「そういう人は、今もいないままなのか?」

 病室は静かなままだった。太郎は敬子を見て、敬子も太郎を見ている。

「いないよ」敬子は無感情に言った。「好きな人なんて、誰もいない」

「あの時は、私もいつか誰かを好きになるはずだって、そう思っていた。けれども結局この歳になっても、私は何も変わらないまま――いつまで経っても好きな人はいないし、結婚したいとも思わない。子供は欲しいような気もするけれど、したくないことをしてまで欲しいとも思わないし、そもそも私は共同生活とかも無理なタイプだし――だから、なんて言うのかな。結局私にとっての結婚って、一番遠くにあるんだよね。あまりに遠くにありすぎて、手を伸ばそうとも思えなくて。みんながそっちに向かって走って行くのを、私はぼうっと眺めているの。何も分かっていない子供みたいに」

「……そうか」

 太郎は口をつぐんで顔を伏せていたが、やがてゆっくりと顔を上げた。

「一つ、お前に伝えたいことがある」

「何? 私のお見合いの相手でも見つかった?」

「違う、そうじゃない。これはな、俺が退屈な入院生活で気付いたことだ」

 太郎は眉を下げ、力なく笑った。

「あのな、一人って寂しいんだ」

 太郎は敬子に、弱々しい笑みを向ける。

「何を馬鹿なことを……と、お前は笑うかもしれない。でもな、こういう感情は、実際に自分がこういう立場にならないと分からないものなんだ。俺がガンになったと騒いだところで、来てくれる友人なんてごく僅かだった。礼子みたいに働いていたら何かが違ったのかもしれないが、専業主夫の俺にはそういった交友関係も殆ど無い。結局、いつも顔を見せてくれるのは家族だけだった」

「俺はな、心配なんだよ。自分のことが自分で出来るうちはまだいいさ。けれどもこの先、俺がガンになったように、お前にも何があるか分からない。俺は入院している間、ずっとそのことについて考えていたんだ。俺たちが死んだ後の話だ。愛子もいなくて、愛子の家族も頼れないとなった時――お前のことを支えてくれる存在が、この世界のどこにいる?」

 太郎はじっと、敬子を見ていた。敬子は疲れ切った顔で言葉を溢す。

「……いないと言ったら?」

「簡単な話さ!」太郎は笑った。「いないなら作ればいい!」

「作るって……家族を?」

「違う、友人だよ!」太郎は黄色い歯を見せた。「この国の良いところはな、婚約者の数は一人に絞っているくせに、友人の数には制限を設けていないところだ!」

 太郎は敬子の手を握る。

「敬子。お前、友人に囲まれて過ごせよ。別に家族じゃなくたっていいじゃないか。結婚なんて普通のこともしなくたっていい。お前は友人を助けて、友人にお前も助けてもらうんだ。そして最期には、病室に入りきらないくらいのいっぱいの友人に囲まれて、お前は息を引き取るんだ……」



 六


 物事には順序があるものの、それを正しく並び替えるのは難しい。

 敬子の頭に思い浮かんだ半生は、色々なものが複雑に結びついていて、何をヒカリに伝え、何を伝えるべきでないか、その判断にもかなりの時間を要した。そんなに面白い話じゃない、というのは心の底から思ったことで、ヒカリがそういうことにどれだけ理解があるのかも見通せなかったし、この物語の持つ質量を敬子自身も計りかねていた。

 選択を間違えたかもしれない、と敬子は思った。最初の相手に選ぶのはヒカリではなかったかもしれないし、そもそも太郎の言うことなんて、真に受けない方が良かったのかもしれない。けれど、間違えたとばかり思いながら俯いて語る敬子の手には、いつしかヒカリの手が重ねられていて、敬子はその温もりに泣きそうになっていた。

 お姉ちゃんだから、泣かなかったけど。

「なんで私だったの?」

 とはヒカリの言葉で、彼女は最寄り駅に向かう道中で敬子に問いかけた。なんでだろう、と敬子は言った。敬子自身、それについては明確な答えを持ち合わせていなかった。ただ、太郎から友達と過ごせと言われた時、始めに思い浮かんだのがヒカリの顔だった。そう伝えると、ヒカリは泣きそうな顔で敬子に抱きついた。

「嬉しい」

 本当に?と敬子は言う。

「本当だよ! だって、佐藤さんに一番に思い出してもらえたんだもん。それって、佐藤さんの頭のなかで、ずっと私との思い出が生きていたってことでしょ? それってすごいことだよ。すっごく嬉しいよ!」

 そう言われると、そうかもしれないなと敬子は思う。

「私もね、たまに佐藤さんのこと、思い出していたんだ。そういえば高校生の時、私にも変な友達が居たな~って」

 敬子は目を丸くする。変? いま私のこと、変って言った?

「えー? だってあんなにつまらない図書委員の仕事をクソ真面目にやってるし、私が話し掛けても全然笑わないし、その割に私の話をジッと聞いてくれて、最後になんか、ボソボソって変なこと言うし。しかもそのちょっとした一言がさ、なんかウケるんだよね。だから、なんていうのかな……そう、佐藤さんと話している時は、玉手箱と話しているみたいで楽しかった」

 敬子は眉を顰める。それ、褒めてるの?

「褒めてるよ! すっごく褒めてる!」

 ヒカリは敬子に肩からぶつかり、ニカッと笑う。

「私みたいに思っている人、きっと他にもいると思うよ! 佐藤さんが思っている以上に、佐藤さんは魅力的だから――これまで出逢ってきた人とも、これから出逢っていく人とも、いっぱい仲良くなろう。いっぱい友達つくろうよ!」

 目指せ友達百万人!と叫ぶヒカリとは距離を置きたいような気もするけれど、人付き合いが苦手な敬子にとってはこの瞬間も特別で、敬子はヒカリの歩幅に合わせて、静かな夜道を歩いて行く。歩いて行く。

 やがて、最寄り駅へと辿り着いた二人は、帰り道を言い合い別々の路線であることを確認する。終電が近かった。ヒカリは手を振り「それじゃあまたね」と歩いて行くが、ふと「忘れてた!」と叫ぶや否や、敬子のもとへ息を切らして駆けてくる。

「佐藤さんのお願い、まだ聞いていなかったんだけど!」

 いや、でもそれは、と敬子は頭を掻いて言う。

 もう別にいいかなって言うか、言わなくても伝わるって言うか……。

 けれどもヒカリの目が、息が、敬子の怠慢を許してはくれなくて、敬子は恥ずかしさと緊張に苛まれながら、覚悟を決めて言葉を吐き出す。

 ええと、だからその。ごめん、順序が無茶苦茶になったんだけど。

 敬子はヒカリに手を差し出す。

「改めて私と、友達になってくれませんか?」



 七


 ある日、家のトイレを掃除しているヒカリの元にメッセージが届く。ジーンズのポケットに入れていたスマホの通知には、この前話したばかりの敬子の名前が記されている。たった八文字の文面を眺めたヒカリは頰を緩ませ、しばらく考えた後に素早いタップで返信する。

『さあ、何をしているでしょう?』

メッセージに既読がつく。きっと今頃、彼女は頭を悩ませているだろう。そんな友人の姿を想像していると、何処かで子供が自分を呼んでいることに気付く。声はリビングから聞こええた。ヒカリが「なあに」と駆けつけると、おもちゃに囲まれた子供がふにゃふにゃした笑顔で、「えっとね」と口ごもる。

「ママ、どこにいるのかなって、気になっちゃって……」

 ヒカリは我が子が愛おしくなり、ギュッと抱きしめた。それが嬉しかったのだろう、子供がくすぐったそうに笑うので、ヒカリまで笑顔になってしまう。

 再びメッセージを知らせる通知が鳴った。きっと敬子だとヒカリは思う。

 子供を解放し、おもちゃ遊びに戻るのを見届けた彼女は、まるで自分だけの玉手箱を開けるような心地で、スマホの画面にそっと触れる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

今、何してる? 小野繙 @negishiso

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る