第295話 またイチャイチャしてたんでしょと言われました
社員ということは学生ではない。
絶対ではないが、高い確率で年上の人物となるだろう。
だが、僕の知り合いで年上の人は結構限られている。
そして、パッと思い浮かんだ人たちは皆、働いている。
条件にはまる人物が思い付かない――が、すぐに分かることだと考え、思考を放棄した。
着替えを済ませ、気持ち早足に事務所へ移動。
タイムカードを切り、扉をノックしてから入室する。
「美空さん、おはようございます。美海から聞いて来たんですが、社員さんが見つかったとか?」
「おはよう、郡くん。後輩の子なのだけれど、偶然お店に来てくれてね。とんとん拍子に――って感じで。郡くんがよければ採用したいんだけど、どうかな?」
美空さんはそう言って、顔写真の貼られていない履歴書を手渡してくれる。
「偶然なのに履歴書があるんですね?」
「フリーの求人雑誌に付属されている履歴書を切り取って、その場で書いてくれたのよ。アルバイト用の履歴書だったけど、よく知っている子だからいいかなって」
質問を投げつつ、受け取った履歴書に目を通したのだが――。
氏名欄に書かれている名は
『神道寺』で思い出されるのは、焼菓子屋さんに勤めている女性の姿。
冬休み、美海と一緒に買い物に行った時に挨拶を交わしており面識がある。
とても珍しい苗字だから、よく覚えていた。
それにしても、無料の求人雑誌に履歴書まで付いているのは知らなかったな。
それなら、わざわざ履歴書を購入せずともよかった。
「だから顔写真は付いていないのか。ちなみにこの方って――」
「美海ちゃんと莉子ちゃん、美梨から聞いたけど、郡くんたちは顔見知りなんだってね?」
神道寺さんは、やはり焼菓子屋さんの店員さんで合っていた。
そして美空さんの後輩か、妙な縁の繋がりだな。
偶然かもしれないが、世間は狭いと実感してしまう。
「ええ、僕は焼菓子屋さんでお世話になっていて、美海たちは紅茶を購入する時にお世話になったみたいです」
「そうみたいね。でも、驚いちゃった――」
「僕も驚きです。まさか神道寺さんが美空さんともお知り合いだったとは」
僕が言葉を被せてしまったことに対して美空さんは咎めたりせず、柔和に『ふふ』とだけ笑って、言葉を続けた。
「それもそうなのだけれど。私が驚いたのは、人には全く興味を示さなかったあの美梨が、口調を柔らかくして、しかもあんなに愛嬌たっぷりに笑えるようになっていた事に驚いたのよ」
前は違ったのですか――と、質問すると美空さんは柔和な表情のまま頷いた。
神道寺さんは丁寧な口調で物腰が柔らかく、愛嬌のある笑顔が印象的だから、少し意外かもしれない。
「それで――どうかな? 郡くんがいいなら、4月から美梨を正社員として雇用しようと思うのだけれど?」
「美空さんがいいなら僕は何も言いませんよ。ただ一つ、気になる箇所が……」
「じゃあ、採用で決まりかな。郡くんが気になるのは志望理由でしょ? ふふ、笑っちゃうよね。昔はこんなこと書く子じゃなかったんだけど」
『ええ……』と苦笑いを浮かべつつ、もう一度志望理由に目を通す。
魔法のない世界なのだから、何度見ても変わることがないのだけれど、理由がいい加減で疑ってしまったのだ。
志望理由には『美空さん、美海ちゃん、八千代くんと働けたら楽しそうだから』と、書かれているのだ。
それから10分ほど、美空さんから神道寺さんについて聞かされた。
神道寺さんは名花高校出身。
そして、やはりと言うか何というか、綺麗な人だったから察していたが――。
三代目四姫花”秋姫”象徴は梨の花に選ばれている人物らしい。
あとは大学在学中にアパレル会社を設立して、卒業と同時に売却している。
趣味でアルバイトをしていたらしいから、美空さんは『美梨はお金には困っていないんじゃないかな?』と言っていた。
だからつまり、働けなくても困らないから、志望理由は本音をそのまま書いただけなのだろう――。
階段を下りながら、ふと湧いた疑問をぶつけてみる。
「それって、いつ辞めてもおかしくないですか?」
「かもね。飽き性な子だから可能性は高いかも」
「いいんですか?」
「もちろん。変わっている子だけど美梨は賢いし信用もできるから、下手な人を雇うよりは全然いいかな。それにね、結局のところ誰を採ってもそのリスクから免れることはできないのよ」
確かに、美空さんのおっしゃる通りだ。
面接時に長く働きたいと言った人でも、もしかしたら初日から来ない場合だって十分に考えられる。
それなら、すぐに辞める可能性はあるとしても、知り合いを雇った方が無難なのだろう。
「まだ少し先になると思うけど――。美梨に店を任せられるようになったら、郡くんと美海ちゃんのシフトは抑えるけどいい?」
「つまり僕はお役御免ってことで……あ、すみません。冗談です」
「そんな捻くれたこと言ってはメッ! よ?」
そんな冗談は許しません――そんな風な意味を込められたジト目を向けられた挙げ句、頬までつねられてしまった。
「失礼しました」
「はい、分かればよろしい! それに、郡くんも2年生になるんだし、勉強も大変になるんだから」
勉強もそうだけど、中途半端に稼ぎ過ぎてしまうと所得税が加算されることになり、逆に手取りが減ってしまう事も考えられる。
その場合に取れる対応は、今以上に思い切り働くか、抑えるかの二択となる。
それなら出勤を抑えて、その分の時間を勉強に当てた方がいいだろう。
美海もいて美空さんもいる。
居心地のいい職場だから、気持ちとしては減らしたくはないけれど。
「もう、そんな顔しないの。お姉さん、心苦しくなっちゃうでしょう?」
「あ、すみません。つい、寂しいなって」
「ふふ――美海ちゃんは当然でしょうけど、お姉さんも郡くんがよければ、いつでもご飯でも何でも付き合うからね?」
「はい、ありがとうございます。いつでも甘えさせていただきます」
「もぉ~……かわいい! ギュッ――って、したいけど、今したら美海ちゃんに怒られるからガマン、ガマン――っと、はい! じゃあ、気持ちを切り替えて今日もよろしくね!」
気合い注入をしてくれたのか、美空さんは背中を軽く叩いてきた。
その直後、頭を撫でてから手をヒラヒラとさせて店内へ姿を消して行く。
飴と鞭――いや、人によっては飴と飴かもしれない。
彼女がいて友達がいる。頼りになる上司までいる。
しみじみと恵まれた職場環境だって実感する。
「ほんと、贅沢だよな――」
誰に聞かれるでもない、そんな独り言を漏らしてからキッチンへ入ったのだが――。
緩んだ頬の理由を美海に問い詰められてから、この日は勤務開始となった。
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