第294話 新入社員が決まったようです
前期選抜試験による10日間の自宅学習期間や、7階から8階への教室移動。
美波の誕生日や美海とのショッピングデート、ホワイトデーなどなど。
充実した日々が過ぎて行き、迎えた17日の日曜日。
バイト先まで移動するのに、ほんのり汗ばんでしまったこの日は、最高気温が18度近くまで上昇する。
バイト終了後に帰宅する夜から明日に掛けては、寒波の影響で急激に冷え込むため、厚着してきた訳だが――。
薄手のインナーもしくは、薄手のコートにしたらよかった。
到着した『空と海と。』の休憩室で上着を脱ぎながら反省していると、後ろから声が掛かった。
「おはよう、こう君!」
「おはよう、美海」
「汗? 今日はちょっと暖かいもんね」
おでこから頬へ、頬から首へ伝う汗が見えたのだろう。
美海は棚からタオルを取り出そうとしてくれるが、それを断り、カバンから持参したタオルを取り出し汗を拭く。
美海と交際を初めてそろそろ3カ月になる。
恋人同士でする人に見られたら恥ずかしい事は、先日の日傘の陰でキスをする事も含めてそれなりにしてきた。
けれども、汗を拭く姿をじっと見られるのは、また違った恥ずかしさがある。
「そんなに見られると恥ずかしいんだけど?」
「こう君の汗って、どんな匂いするのかなぁって」
僕の彼女はやはり人とは違う感性をお持ちのようだ。
冬休みにマフラーを交換し合ってから、今でも定期的に交換している。
匂いフェチでもある美海を考えたら、
『汗の臭いはどんな臭い?』の発想に至ることは当然なのかもしれない。
けれども、期待した眼差しを向けてくる美海には悪いが――。
「嗅がせないよ?」
「だめ?」
「だめです」
「どうしても?」
両手の平を合わせて、その合掌した手を頬に添え、首を傾げる。
なんともまあ、あざとい事この上ない。
最上級のお願いポーズにすら思えてしまう。
可愛さのあまり、無条件降伏してしまいそうになったが――。
「いい…………くない。だめです」
――何とか踏み留まることができた。
「あぁ~、今惜しかった~!!」
本当にな、危ないところだった。
「あと、今の可愛い仕草は僕以外にしたらダメだからね」
「……はい。あ!」
耳の先をほんのり桜色にさせ、照れたように俯く美海。
だが、すぐに顔を上げ、お得意の『閃いた!』みたいな表情をみせてきた。
察した僕は、交換条件を言おうとする美海に先回りして言葉を被せる。
「でもそれなら――」
「美海も僕に嗅がれたら恥ずかしいでしょ?」
言葉を被せたことに対して唇を尖らせる美海を見ながら、僕は失敗したことに気付く。
この訊き方はまずかった。
墓穴を掘ったかもしれないと。
「凄く恥ずかしいけど、こう君が嗅ぎたいなら……私はいいよ?」
もう一つ気付いた。
美海が僕の汗の臭いを嗅ぎたいと言った気持ちに。
僕も今、たった今、美海から許可されたことで想像してしまった。
その結果、美海の汗の匂いがちょっと気になった。
美海の場合、汗すらもいい匂いかもしれない。
甘い果実もしくは、ほのかに香る花の蜜のような香りがするかもしれない。
非現実的にも、そう思ってしまったのだ。
嗅いでみたいけれど、その代わり美海にも嗅がせることになるのだろうな。
「……また今度ね。今は職場だし」
指切りをすることになったのだが、汗の臭いを嗅ぎ合う約束ってなんだ……。
マニアック過ぎるだろう――と、心の中で自問自答していると、美海は新たな話題を提供してくる。
「こう君、歌詞作りは順調?」
「あと少しって感じかな」
昨日は自宅に引きこもり、クロコと過ごしつつ、
果たして、これでいいのか。
そんな疑問は残るが、もう少しまとめたら一応の形にはなる。
万代さんに指定された最初の期日までには間に合いそうだと思う。
「完成したら私にも見せてね」
歌詞と言っても美海へ宛てたラブレターのようなものだ。
それを――しかも、美海の誕生日に見せるのか。
究極的に寒くないか、それ?
ひと昔の前の本を読んだとき、そんな場面が描かれていた。
『僕にはあり得ない』、そんな感想を抱いたことが、まさかあり得てしまうのか。
なし崩し的に書くことになったとはいえ……。
恥ずかしさのあまり、全身沸騰する思いにさせられそうだ。
「音が付くまで保留にしない?」
先延ばしにしたとして何も変わらないのだが、誕生日に見せるよりは精神的ダメージが少ない。
「こう君は私との約束を破るの?」
「……わかった。完成したら美海に一番に見せるよ」
「ありがとうっ! 楽しみだなぁ~」
ニコニコと笑い、待ち遠しそうな期待に満ちた表情だ。
「誰にも見せたりしないでね? あと、僕が歌詞を書いていることも内緒だからね?」
美海はどちらかと言うと口は堅い。
秘密にしてとお願いしなくても、人のプライベートを無闇に話したりしない。
けれど、対、僕八千代郡に関しては異常なまでに口が軽くなる。
キスなどは自ら話したりしないが、僕からされて嬉しかったことはどうも話したくて、うずうずしてしまうそうだ。
だから、改めて釘を刺した訳だが。
「もちろん! 私からは言ったりしないよ」
「美海からはってのが気になるんだけど?」
美海から漏れないなら、あとは万代さんだけとなる。
万代さんには、提出する前にでも再度約束を確認しておくか。
「雫さんは、あんなだけど約束を違えたりはしないから安心していいと思うよ」
美海は僕の考えをあっさり否定した。
それなら一体どこから漏れ出るというのだろうか。余計に不安だ。
そう、訊ねようとするも――。
「そろそろ時間だね。こう君、着替えたら最初は事務所いってもらっていい? 昨日、新しい社員さんの面接をしたから、その相談をしたいってお姉ちゃんが」
新しい社員?
これまでも応募はあったが、採用にまでは至らなかった。
それが、相談をしたいということは、感触の良い人物だったのかもしれない。
ただ、それなら僕に相談せずとも採用を決めてくれてもいいのだが――。
『美空さんとは別の社員を1人採用した方がいい』と言ったのは僕だから、美空さんは律儀に報告してくれるのだろう。
「了解。莉子さんが更衣室から出てきたら、着替えて事務所行ってみるよ」
「うん! 私はキッチンに行っているね」
美海が『こう君も知っている人だよ』と気になる言葉を残し、休憩室を去って行ってすぐに、莉子さんが休憩室へやって来た。
挨拶と軽い雑談を交わし、それから更衣室へ入室する。
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