第285話 母さんと父の話をしました

 八千代やちよまなぶこと父さんは、口数の少ない人だった。


 まだ家族仲がよかった頃は、

 母もしくは幼い僕が、その日の出来事などを父さんに話していた。


 父さんは『そうか』『楽しかったか』『よかったな』を繰り返す様に返事を戻していた。

 今思えば、ちゃんと話を聞いてくれていたかどうか怪しいものだ。


 母は父さんに向かって文句を言っていたが、

 当時の僕はそれでも嬉しかった。


 単純だ――。


 どこへ出掛けるにも母と一緒。

 父さんは家でお留守番という名のお仕事。

 寂しく思っていたが、常に忙しく働いていたから仕方ないことだと理解していた。


 故に、父さんと遠出した記憶など一切ない。

 近場の公園やスーパーすら一度だってない。

 僕の記憶の中には父さんとの思い出があまり残されていない。


 父さんと母は不仲になってからも変わる事はなかった。

 むしろ、母から父さんと会話することを禁止された為、距離が開いたくらいだ。

 同じ屋根の下に住む他人。よくて、生活を保障してくれる保護者。


 母が出て行く頃の僕は、父をそんな風に認識していた。


 学童に通った1年の期間、父はこれ以上にないくらい忙しく働いていた。

 そのため、僕は炊事洗濯を自分で行うようになった。


 いや、やらなければ家の中が酷い有様となってしまう。


 綺麗好きな性格をしていた母の影響だろう、僕は汚い環境が許せなかった。


 物で溢れる部屋が、テーブルに散らかるコンビニ弁当のゴミが、シンクに溜まったコップや空き缶が、脱衣所に溜まった服の山が、父が着るシワシワのシャツが、凄く気持ち悪かったことを覚えている。


 だが、炊事洗濯に慣れ始めた1年後、生活が激変した。


 朝の4時に家を発っていた父は、7時に発つようになった。

 日付が変わる頃に帰宅していた父は、15時に帰宅するようになった。

 休みなく働いていた父は、週3日休むようになった。

 時間ができたことで、父は家のことをするようになった。

 学校から帰宅する時間に父が家にいる為、僕は学童を辞めた。


 一緒に過ごす時間が増え、父との会話が増えていった。

『学校はどうだ』『勉強を教えてやる』『クロコは最近どうだ』『幸介くんだったか、どんな子なんだ』『好きな子はできたか』『一緒にお菓子でも作らないか』『公園いくか』と。


 これまで言われた事も聞かれたこともない事を、父は毎日のように、同じ事を何度も繰り返し聞いてきた。


 父の心変わりを不気味に思いながらも、僕は返事を戻していたのだが――。

 父は決まって『そうか』『楽しかったか』『よかったな』とだけ、返事を戻してきた。


 変わらない、父は昔から何も変わっていない。


 不気味に思えた父だったが、そのことで僕はどこか安心した。


 その後、中学に上がる直前だ。

 父から光さんと美波を紹介された。

 こっそり、再婚を考えていると父から聞かされたことで腑に落ちた。


 ああ、だから父は早く帰るようになったのかって。


 忙しく働いたことで、母とすれ違いを起こした。

 故に、同じ失敗を繰り返さないように、父は仕事を抑えたのだろう。


 今はもう訊けなくなってしまったため、

 少しでも好きでいてくれていたのか。邪魔な子に思っていたのか。不気味に思っていたのか――――父が僕をどう思っていたのか、今ではもう分からない。


 けれども――今にして思えば、予想できることもある。


 父は――。

 どんなに忙しくても話し掛けたら目を見て返事をしてくれた。

 どんなに忙しくても夕飯の時間だけはいつも帰ってきた。

 いつも決まった返事だった。だが、決まって頭を撫でてくれた。

 どんなに忙しくても、決まった時間に学童の迎えに来てくれた。

 けして美味しくない僕が作った夕飯を残さず食べてくれた。

 僕が着る服をいつも綺麗にしてくれていた。自分が着るシャツは皺くちゃなのに。

 帰宅後、何よりも先に僕の部屋を覗いていた。たまに頭を撫でてくれていた。

 休む間もなく働き続けた。その理由は、僕と過ごす時間を一刻も早く作る為だということ。


 僕は父が僕を撫でる手が苦手だった。

 力加減を知らない父の手が痛かったからだ。


 だけれど――その痛みが、不器用な優しさが、今は少し懐かしく感じる。


 父は器用なくせに、人付き合いは不器用な人だった。口数も少なかった。

 もしかしたら、これまでを埋める様な最後の3年間は、僕に対して罪悪感を覚えたことへの罪滅ぼしだったのかもしれない。


 今となっては分からない。

 でも――不器用なりに、僕を一生懸命大切に思ってくれていたのだろう。

 僕はそう思うようにした。


 だから父さん――これまで僕を育ててくれて、ありがとう。

 かあさんと美波を残してくれて、ありがとう。

 今何不自由なく過ごせているのは、

 父さんがたくさんのものを残してくれたおかげです。


 友達や美海とのこと、たくさん報告したいことは山ほどあります。

 勝手な息子の言い分ですが、僕は幸せになる為に忙しくしています。

 ゆっくりと報告する事も減るかもしれません。


 でも、忘れたりしませんので、どうか見守っていて下さい――――――――。


 ▽△▽


「学さんにしっかりご挨拶できた?」


 仏壇から顔を上げたタイミングで、母さんが声を掛けてきた。


「1年前にできなかった分も合わせてバッチリ」


「そう、それなら良かった。明日の準備は大丈夫なのでしょう? それなら今日はもう遅いし、早く寝なさい」


 遅くなる予定でもあったから、今日は実家に泊まることで決まっている。

 昼間の内に母さんがクロコを連れて来ているから、クロコの心配もない。


「そうする――クロコおい、で……?」


「ナァ~」


 呼び掛けに応じて、クロコは近くまで来てくれた。

 だが、来たのはクロコだけでなかった。

 パジャマ姿の美波がクロコを抱きながら、呼びかけに応じてやって来た。

 クロコは僕にでさえ滅多に抱かせてくれない。

 だと言うのに、美波には大人しく抱かれるクロコ。

 少々複雑だけれど、姉妹の仲がいいのは良い事だ。


「一緒に――寝る――?」


 美波となら一緒のベッドで寝てもいい、美海はそう言ってくれている。

 けれど、美波もそろそろ16歳になる。

 いい加減に兄離れしてもいい頃合いだろう。


「同じ部屋でならいいよ」

「わかった――」


 もっとごねるかと予想したが、思いのほか素直な返事だ。そう思ったのだが。


「川の字――?」


 可愛らしくコテンと首を傾げる美波。

 たまたまかもしれないが、クロコまで少し顔を斜めに傾けている。

 美波とクロコの組み合わせは、そうだな……鬼可愛い。ただな――。


「――川の字、か」


 同じベッドや布団でなければいいかな?


 そう頭を悩ませている間も無く、母さんと美波によって強制決行されることになった。

 日記を書くから、そう言った母さんは手帳へ書き込み始めた。

 その間に僕と美波は2人で布団を敷いておく。


 和室に敷いた布団、僕を真ん中に家族並んで横になる。

 クロコは僕の右腕の中で丸くなっており、撫でると気持ちよさそうに喉を鳴らしてくれる。美波にたくさん構って貰えたからご機嫌なのだろう。


 その美波はと言うと、すでに眠ってしまっている。

 元々、眠気の限界が近かったこともあるだろうが、美波は僕に似て、とても寝付きが良い。

 ただ、僕と違って寝相は悪いから、クロコが蹴られたりしないように気を付けないといけない。


 次に母さんはと言うと。


「眠れないの?」


 僕が顔を向けたことに気付き、声を掛けてきた。

 そして質問への答えだが、おそらく目を瞑ればすぐにでも眠れる。

 けれど、そうしないのは。


「いや……川の字で寝たことなんてあったかなって」


 こう考えたからだ。

 そのため、この状況を目に収めておきたかった。


「学さんが言うには、まだ郡が小さい頃は、川の字で寝ていたそうよ」


「記憶にないくらい小さな頃ってことか」


「ふふ、そうね」


 口下手な父さんが、過去の話を語ることが少し意外に感じた。


「父さんは僕の話をしていたの?」


「学さんは仕事の話と郡の話ばかりだったわよ」


「そうなんだ?」


「ええ、そうよ。学さんから食事に誘ってくれたのだけれど、私について何か質問するどころか、私そっちのけで語るものだから面白かったわ」


「なんか……ごめん。不器用だったんだよ、多分」


 きっと何を話していいか分からず、身近な所から話題を捻り出したのだろう。

 その時の状況がリアルに想像できてしまう。


「知っているわ。私はその不器用に一生懸命な学さんを素敵だなって思ったの」


「美波からは、顔で選んだって聞いたけど?」


「……明日の朝ご飯はマッシュポテトでも作ろうかしら」


「それ、僕が美波に怒られるから勘弁して」


 美波の苦手なじゃがいも料理。

 その料理を出す一因となった僕に対して美波は怒るだろう。


 明日は一緒に登校するのだ。

 お詫びとして、どんな『特権』が飛び出すか考えたら怖くて仕方ない。


「はあぁ……確かに学さんの外見に惹かれたことも、一つの理由だから否定できないわ」


 まあ、父さんは無駄に顔が整っていたからな。

 フォローするように、そう返事を戻してもいいけど、話題を変えた方がいい気もする。


「なんか……父さんの事について、こうして話すのって不思議かも」


「不思議……たとえば?」


「そうだな……上手く言葉にできないけど、父さんとの思い出があまりないんだけど、それなのに思い出す様に話すのが変だなって。実際のところ、僕は父さんがどんな人だったか、何が好きだったか、嫌いだったか、他にもいろいろな事がよく分からないし」


 僕と父さん、2人の間には、過去の話について、どこか触れてはならない様な壁があった。


 それに加えて、父さんだけでなく僕自身も口が達者ではない。

 だから、互いを知るには最後の3年ではまるで足りなかったのだ。


「知ることは大切だけど、別にいいんじゃない? 子と親なんてそんなものよ」


「そんなものって?」


 母さんは『一般的には』と言ってから説明してくれる――。


「親が知っている以上に子は成長しているし、子は親の事なんて居て当たり前くらいに思っているのよ。だから、親に詳しい子の方が珍しいくらいよ。美波だって、私を好いてくれているけど、多分私のことの半分も知らないでしょうし。そしてそれは、男の子の方が顕著に現れるわ」


 言われてみれば、思い当たる節はある。

 幸介は母親の千恵子さんの好き嫌いをまるで把握していない。

 もしかしたら、好き嫌いに関しては幸介より僕の方が千恵子さんを理解しているくらいだ。


 けれど僕だって幸介のことを言えたものじゃない。

 あれだけ一緒にいた母の好き嫌いを思い出すことが難しい。

 それに、かあさんの好き嫌いについて、知ろうと考えた事があまりない。

 普段、生活する内に知れることは多々あるが、積極的に知ろうとしたりはしなかった。


「理解できたようね」


「そう……だね。ちょっと腑に落ちたというか、自分自身ショックというか」


「別に気にする必要はないわ。親が子に向ける愛情は伝わりにくいものだから」


 そう言われると、もっと気にしてしまう。


「他の家庭は分からない。でも私は、ただ元気に過ごしてくれているだけでいい。過ごしてほしい、そう願っているわ」


「なんか深い……ね?」


 発した言葉とは反対に、何ともまあ、浅い感想だろうか。


「ふふ、まだまだ子供な郡には難しかったかしらね」


「それは否定できないや」


「伝えていくって大切なことだけど、とても難しいことだから」


「僕もそれは常々実感しているかも」


 考えていることと違った風に捉えられたりすることも多々発生するしな。


「学さんと郡は揃って不器用だものね。付け加えるなら私もだけれど」


 父さんと比べたら、かあさんや僕はマシな方だろう。

 父さんほど口下手ではないと自信を持って言えるからな。


「ちなみに父さんが僕をどう思っていたとか、母さんは何か聞いている?」

「どうって、たとえば?」


「えーと……邪魔とか大切とか、その辺?」

「やっぱり――伝わっていないわね」


「と言うと?」


「郡、貴方は学さんから疎まれたり邪険されるような感情を感じたことはある?」


「それはないかな」


 他にどう思っていたか分からないが、これは断言できる。

 だから、大切に思ってくれていた。そう思えているのだから。


 ああ――なるほど。

 聞かずとも、すでに自分の中に答えはあった。


「ふふ、その様子なら、しっかり伝わっていたようね」


「そうだね……しっかりと残っていた」


「郡は学さんみたいに遠回りしない様にしないとね。誤解されない為にも、大切なことは美海ちゃんにしっかり伝えないとダメよ」


「大丈夫だと思うけど、まあ、肝に銘じておくよ」


「ふふ、そうね。学校でバカップルと呼ばれる郡には、余計なお世話だったかしらね」


『バカップル』。僕と美海を揶揄する言葉。


 その言葉からイメージされる通りに、友人やクラスメイト、その他大勢の人たちから、常にイチャイチャしていると思われている。

 毎朝並んで教室に入り、休み時間や移動教室も一緒。

 友人も一緒に行動している為、2人切りという訳ではないが、ほとんどの時間一緒に過ごしている。

 学校ではグループで行動することが増えたから、誰かしらが話題を提供する。

 そのため、絶えず会話が発生している。


 だが、僕と美海2人だけで、2人だけの空間で過ごす時は、どちらかと言うと会話は少ないかもしれない。

 図書室では勉強や読書で静かな時間が過ぎて行く。

 家でも似たようなものだが、付け加えるなら、美海は自身のケアも入念にしている。

 朝や夕方、僕が夕方ランニングに出ている間、美海は料理だけでなくストレッチをしていたりする。

 初めの内は僕に隠れて行っていたが、ランニングに出てすぐ雨が降り出した日があった。


 だからすぐに帰宅したのだが、ストレッチに夢中だった美海は、僕の帰宅に気付かなかった。その結果、僕が居ても気にせずマイペースに行うようになった。

 他にもいろいろあるが、2人でいる時の方が各々好きなように過ごしていることが多い。


 故に、皆が想像している様に、僕と美海は四六時中ベタベタイチャイチャとしている訳ではない。


 だが、母さんに何をどう否定しようと意味はないのだろう。

 四六時中イチャイチャしている訳ではない、それは事実だが知られていないのだから。

 反対に、四六時中イチャイチャしているという認識の方が大勢の人に浸透しているのだから。


 そう悟ったから、沈黙で返事を戻すことにした。


「郡は都合が悪くなると黙る癖がある。学さんがそう言っていたわよ」


 美海にも指摘されていることだから自覚している。

 だが、そうか。昔からの癖なのか。


「美波が起きるよ?」

「ふふ、大丈夫よ。郡と一緒でこの子は朝まで起きないから」


 それはそうなのだが、万が一ということもある。

 だというのに、美波が寝ている事などまるで気にしない、母さんはご機嫌にクスクスと笑い続けている。


 僕を揶揄う事が面白い――と、いうよりは、父さんを思い出し、懐かしんでいるのかもしれない。


 それならば、母さんに付き合うのもやぶさかではない……かな。


「あとは、そうね……頭を撫でられるのが好きってことも、学さんから聞いたのよ」


 それは半分正解、半分不正解の間違えた情報だ。

 誤った内容が伝わっているぞ。


「いや、父さんに撫でられるのはそこまで好きじゃなかったけど」


「あら、そうなの? 撫でると、郡は嬉しそうに俯くと言っていたけれど?」


「力加減が下手で痛かったんだよ。それを耐えるのに、力を込めていたからだと思う」


「あらあら、学さんは勘違いしていたのね。でも、嫌いではないのでしょ?」


 それは半分正解の方だ。

 美海や美波、かあさん、美空さんなどなど。

 僕の髪へ優しく触れてくれる、その撫で心地は何とも筆舌に尽くし難い気持ち良さがある。


 だから、嫌いではない。


 いやむしろ、美海にはもっと撫でてほしいとさえ内心思っている。

 つまり赤裸々に、正直に言うなら、撫でられるのは好きだ。

 恥ずかしくて、美海にはまだ言えていないことだけど。


「と言うか、それ美海に言ったでしょ」


「……なんだか急激な睡魔が襲って来たわね。いい加減に寝ましょうか」


 都合が悪かったのだろう。

 問い詰めようと再度質問したが『おやすみなさい』と。

 有無を言わさず会話を切られてしまった。

 仕方ないから『おやすみ』と返事を戻し、目を瞑ったのだが――。


 僕の知らなかった父さんの話を聞いたからか、

 目や脳が冴えてしまい、中々寝付けなかった。


 多分10分が経過した頃だろうか。

 僕の寝付きの良さを知っている母さんは、僕が寝ていると勘違いをした。

 勘違いをした母さんが起こした行動、

 それは、昔父さんがしてくれた事と同じもの。

 寝ている僕の頭を撫で始めたのだ――。


 その手は、父さんより優しい撫で方だった。

 その手からは、父さんと同じくらい優しい気持ちが伝わってきた。

 恥ずかしい気持ちを上回る安らぎが満たされていく。


 そのことを実感しながら、僕は眠りについたのだ――。


 ▽△▽


 翌朝、胸の上に乗ってきたクロコに起こしてもらうと、すでに母さんは起床していて隣にいなかった。


 そして美波は寝相の悪さを遺憾なく発揮していた。

 うん、身動きが取れない。

 予想は付いていたが、僕を抱き枕のようにしている。

 すやすやと寝息を立てながら眠っている。

 いつ見ても綺麗な顔だ。

 信じられないくらいまつ毛が長い。

 芸術品のような美波の顔をこの距離で、

 まじまじと見られるのは兄の特権かもしれないな。


 だが、さてさて。


 現実逃避は止めて、起きるとしよう。

 腕に巻き付く両手、脚に絡まる両脚を細心の注意を払いながら解くこと5分。


 美波の髪をひと撫でしてからリビングへ出て、母さんと挨拶を交わす。

 昨晩の事が無かったかのような雰囲気だ。

 まあ、朝は忙しいからそれも仕方ないだろう。


 すでに掃除、洗濯を終え、今は朝食や弁当の用意を始めているようだし。

 顔を洗い、それから着替えを済ませランニングに出る。


 それから戻ると、母さんとタイミングよく玄関で鉢合わせた。

 美波は起きていないのかな?

 そう思ったが、リビングから美波が見送りにやってきた。


「ママ――」

「あら、いけない。和室に置き忘れていたみたいね、ありがとう美波」


 美波が母さんに手渡した物は手帳だ。

 昨夜、日記を書いたまま忘れていたのだろう。


『いってきます』と告げた母さんを美波と2人で見送り、ランニングで掻いた汗をシャワーで流している間に、美波も身支度を整えてしまう。


 母さんが用意してくれた朝食を食べている時、美波が不意に質問してきた。


「手帳――」

「ん? 母さんの手帳が気になるの?」

「うん――兄さん――バイト――?」


 美波が知るであろう僕のバイト先は『空と海と。』だが――。

 母さんの元で働いて得た給料で購入したクリスマスプレゼント。


 僕が美波にプレゼントした、白椿がデザインされたイヤリングに触れながら質問したという事は、美波が母さんの手帳を覗き見て、僕が母さんの元でバイトしていた事がバレてしまったのだろう。


「親子でも無断でプライベートを覗く真似は、感心しないな」


「ん――ごめんなさい――」


「反省したなら、もう気にしなくて大丈夫だよ。あ、でも、他の人には言わないでね? 美海にバレるなら、僕が自分で打ち明けたいし」


「わかった――いつ――?」


「3月25日で辞める予定だよ」


 知りたいことが知れて、興味が失せたのだろう。

 美波は会話を止め、大事にとって置いた、モッツアレラチーズが入ったトマトスープへ手を付け始めた。


 マイペースな美波はいつものことだ。

 美味しそうにモッツアレラチーズを頬張る美波を眺めながら、朝食の時間が過ぎてゆく。


 それから、一緒に登校する機会など滅多にない。

 だから手を繋ぎたい。

 美海の許可も取れているから大丈夫。


 そう、可愛い妹から『特権』が発動されたことによって、手を繋ぎながら登校することが決定したのだが――。


 何てことない。

 美波が兄離れできていないように、

 僕も妹離れができていない。


 それを自覚する登校時間となったのだ。

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