第269話 丸い目を見た僕は狼になりました

 美緒さんの家の玄関扉が閉まったことを確認してから、階段の方へ体を向け、帰路に就こうとしたのだが、扉の開く音が耳にまで届いた。


 何か伝え忘れかな。

 そう思って振り返ると、胸の辺りに衝撃が走る――。


「こう君!! ただいまっ!!」

「え、美海!? どうして? 幻?」


 そう言って、美海らしき人物の頭を撫でてみるが、すり抜けたりすることなく触れることができた。

 実体があることを確認できたから、もう撫でる必要はないのだが――。

 もっと撫でてと言わんばかりに、頭をすり寄せてくるので、

 ひと先ず、撫で心地の良い髪を撫でつつ再度問い掛けてみる。


「帰ってくる予定は明日だったよね?」


「うんっ。でもね、こう君に会いたくて1日早く帰ることにしたの。迷惑だった?」


「いや、全く。美海に会えたことも、待ち切れず会いに来てくれたことも凄く嬉しい。でも驚き過ぎて、ちょっと混乱しているかも。もしかして、昨日の時点で帰る事を決めていたりした?」


 撫でるのを止めて、胸に抱き着く美海をやんわり離して1歩分距離を取る。

 離れたことで気付いたが、よく見ると僕が預けたマフラーを身に着けている。

 室内にいたのに? そう思ったが、美海も帰って来たばかりなのかもしれない。

 そんなことよりも、マフラーを巻いていることの方がいじらしくて可愛い。


「うん、お母さんが内緒で戻って驚かせたらって言ってくれたから帰って来たんだけど……サプライズは成功したのに失敗したかも。ごめんね、内緒にしたりして」


 つまり美海がにおわせていたイタズラの正体は、予定より1日早く帰宅して僕を驚かせるといったものだったということか。

 そしてそれは、美空さんも噛んでいる。

 だから強引にでも上がらせてくれたのだろう。


「せっかくのサプライズだったのに、なんか薄い反応で僕こそごめん」

「ううん、でも……」


 どうしたのだろうか、満面の笑みだったというのに今はその笑顔が不安な表情に変わり始めている。


「どうしたの美海?」

「こう君、怒ってない?」


「え、全然怒ってないよ?」

「でも……私から距離を取ったから……」


 汗にまみれた体臭を美海に嗅がれたくなかったのだ。

 だから、さりげなく距離を取ったのだけど、それが仇になってしまったようだ。


「ごめん、美海。あとでクレーム言ったりしないでね?」

「え、クレームって――んっ!? こう君??」


「今日さ、3時間くらい雪掻きしたんだ」

「そうなの? 大変だったでしょ?」


「うん、おかけで治ったばかりの筋肉痛がまた襲ってきているよ」

「頑張った証拠だね。お疲れさま、こう君」


 許可も取らず急に抱きしめたにも関わらず、労いの言葉をくれる美海。

 けれど、クレームについて気になっているようだから本題に入る。


「ありがとう。それでさ、頭からつま先まで全身汗を掻いたんだよ。だからちょっと臭うかと思って、美海から離れたんだけど――って、美海? ちょっと嗅がないでほしい」


「本当だ――」


 あ、やっぱり臭いのか。ちょっと、いやかなりダメージを負わされてしまった。

 ひと先ず、臭いを移したくないしこれ以上嗅がれたくもないから、美海を離そうとするが、美海は抱き締める手を強くしてきた。そして。


「いつもより、こう君の匂いで溢れてる。私にとっては落ち着く匂いだよ」


「いや、臭いだけじゃないの? 無理しなくていいよ」


「無理なんてしていない、この匂いを瓶に詰めたいくらいだよ」


「それは、また……変態チックだね?」


「そうなんです。私も最近気が付いたんだけど、私ったら、こう君にだけ変態さんになるみたい」


 そう言うと、美海は抱き締める手を僕の上着のファスナー部分に移動させてきた。

 そして『ジィー』と音を立てながら開いた。


(何をしているの?)


 疑問が浮上すると同時に答えも出た。

 美海はその中に腕を回して抱き締め直してきたのだ。

 さらに胸元に顔を当てて、臭いを嗅ぎ始めた


「美海?」

「私は開き直ったから、不足していたこう君成分を補充することにしたの」


「さすがにちょっと恥ずかしいかも」

「こう君だってそう言いながら私の頭の臭いを嗅いでいるでしょ」


「あ、ばれてた」

「私もお風呂まだなんだけどなぁ」


「なんか……美海が言った瓶に詰めたいって気持ちが分かった」


 小さくクスッと笑ってから、僕が言った言葉をそのまま返してきた。


「ふふ、変態チックだね?」

「どうやら僕は美海にだけ変態になるみたい」


「ふふっ、私たち変態カップルだね」

「そうだね、まさか変態になることなんて想像もしていなかった」


『だねっ』と言うと美海は僕から離れた。

 そしてクスクス笑いながらファスナーを締め直してくれる。


「おかえり、美海。1日でも早く会えて嬉しかったよ」

「ん、ただいま。こう君、ちょっとこっち来て――」


 僕の手を引き、そのまま玄関の中に招き入れられる。

 僕が『美海?』と名前を呼びかけるが、美海から返事は戻ってこない。

 美海はただ、上目遣いをして僕の目と視線を合わせてきたのだ。

 人目から逃れるように室内へ招き入れ、視線を重ねてくる。

 それだけで美海が何を望んでいるのか察することは容易い。


 だから『目を瞑って』。

 そう言おうとしたが、美海は背伸びをして、さらに僕の襟元を掴み引っ張ってきた。


 思わず前かがみになってしまったが、それは美海の狙い通りなのだろう。

 美海は頬にキスをしてきたのだ。

 体勢を維持したまま、美海へ顔を向けると今度は唇を重ねてきた。


(なんだ、これ……)


 もはや軽いパニックだ。

 互いに目を開いた状態でのキス。

 とんでもない羞恥心で、僕の心は荒れ狂っている。


 美海はいつ目を閉じるのだろうか。

 僕が先に閉じれば済む話なのかもしれないが、なんとなく閉じられなくなってしまったのだ。


 このままの状態が続くかと思われたが、美海は目を合わせながら重ねていた唇を解放させた。


 背伸びの姿勢が辛くなったのかもしれない。


「美海、あのさ?」

「……はい」

「強引な美海も素敵だけど、抑える身としては大変なんだよ?」


 驚いただけであって、美海が積極的なことは嬉しい。

 だから別に怒ったりしない。

 けれど、美海は怒られることに怯える子供のようにチラチラと僕を見ている。


「べつに……抑えなくてもいいのに」


 唇を尖らせて、いじけたような表情を向けてくる美海。

 少々反省してもらった方がいいかもしれない。

 そう考えて、真面目な表情を作り視線を重ねる。


「知らないよ?」

「え――」


 美海の手首を取り、そのまま壁に押し付ける。

 その状態で美海を見下ろすように、目を合わせ続ける。


「抑えないってことは、僕が美海に怖い思いをさせるかもしれないってことだよ?」


 だから僕を煽るような発言は止めてもらいたい。

 そう考えて、脅しのつもりで乱暴に押さえつけている。それなのに――。


「むしろ……ね? その、ちょっと強引なこう君にドキドキさせられているの。優しいこう君も好きだけどね、たまには強引なこう君もいいなぁーって?」


 僕の彼女はどうしてしまったのだろうか。

 少し心配になってしまう。


 美海が言うことに理解が及ばず、思考だけでなく体まで停止してしまった。

 その結果、美海は何を勘違いしたのか『(その目がいいの)』。そうボソッと呟くと、頬を染めながら静かに目を瞑った。


 再びパニックに陥ってしまう。が、美海の顎に手を添える。

 触れると『ビクッ』と体を震わせたが、そのまま素直に上げてくれた。

 そして、ゆっくりと――。


 手を横にずらして、軽く美海の頬をつねった。


「いたいっ、え? なんで!?」

「なんか罪悪感が湧いて無理」

「えぇ~……」


 見るからにしょんぼりしている。

 強引にキスしようとするより、止めたことの方が罪悪感を覚えてしまった。


「また今度ね。美海が油断している時にでも、不意に襲わせてもらいます」

「本当!? 約束だよ!?」


「襲う約束とか、おかしいと思うけど……うん、まあ、分かった。約束する」

「やった! 楽しみっ!!」


 依然として手首を掴まれた状態の為か、片方の手だけで小さな握りこぶしを作り喜びを表現している。


(あれ、これって……)


 今がまさに油断をしているのでは?

 今でも強引にキスすることは悩みどころだが、美海が喜ぶなら――。


 覚悟を決めてからは早かった。

 笑顔を浮かべる美海の頬に手のひらを当てる。

 驚いた美海は当然に目を見てくる。

 その目を離さず、添えていた手の平を今度は顎へ移動させる。

 そのまま軽く持ち上げる。さらに驚いたのだろう、少しばかり瞳孔が開いている。

 でも、そんなのお構いなしに唇を重ねる。

 だが、すぐに離す。


 それから『早く閉じろ』と意味を込めて美海の瞳を見続ける。

 察した美海が瞼を閉じてからは、再度、手首を壁に押し付ける。


 手首だけじゃない。

 ぶつけたりしないよう気を付けながら、顎に添えていた手を美海の後頭部へ回す。

 自身の体や足を使用してさらに拘束する。そして最後に唇を重ねる――――。


 暫し――。呼吸の為に開放する以外、何度も繰り返す。


 それから――。どれくらいの時間が経過したか分からない。

 けれど頬を上気させ、荒く呼吸をする美海を見たら短くもない時間だったのだろう。

 僕も気付けば体が火照っている。

 背中にも少し汗を掻いてしまったかもしれない。


(調子に乗ってしまった……)


 強引を求めた美海がこれで満足してくれたか分からない。


 でも、反省しよう。


 今の美海は、凄くなんと言うか――煽情的な目をしている。

 明言する事は控えるが、兎に角、男の本能へ訴えてくる。

 このままこの目を見続けるのは危険だ。冷静にならなければならない。


 書初めでも書いた『明鏡止水』。

 そうだ、明鏡止水の心を思い出さないとだ。

 とりあえず、深呼吸でもしよう。


「スゥーーッ、ハァーーーーーー」


「こう……く、ん――??」


「いや、ちょっとね。それより美海は平気? 息とか苦しかったよね、大丈夫?」


「ん……」


『ん』なんだ。今はその目で僕をチラチラ見ないでくれ。

 美海の丸い目は好きだけど、今は欠けの無いお月様を見たら大変なことになってしまう。


「すごく……よかった、です」

「それは……何より、でした」

「でしたって、なぁに?」

「なんだろう、僕も聞きたい」

「ふふっ、変なのっ」


 頬を掻く僕を見て笑う美海。

 その目は、落ち着きを取り戻し普段の目に戻り始めている。

 おかげで僕も少しだけ落ち着く事ができそうだ。


「でもね?」

「……でもね?」


 オウム返しのように聞き返したが、少々覚悟しておいたほうがいいかもしれない。

 視線を重ねては外す。繋ぐ手からも美海の緊張が伝わってきている。

 発言しようとする美海ですら、頬や耳を染めているのだ。

 間違いなく何か恥ずかしいことを伝えようとしている。


 焦らすような、勿体ぶるような、躊躇うような。

 どれでも構わないが、1秒毎に心臓の鼓動が強く、そして速くなっている。


 破裂してしまわないか心配になるほどだ。

 だが心配は杞憂に終わった。

 美海の覚悟が決まったのか、目を合わせてきた。


「息は少し苦しかったの」

「ごめん、次からは気を付ける」

「ううん、違うの」

「違うって何が?」

「そのね?」

「うん」

「こう君とのキスで窒息できるならね、私ちょっと幸せかも……変、かな?」


 杞憂などでは済まなかった。もう爆発だよ、爆発。


「ごめん、美海――」

「え――んっ――」


 美海が言った。それで、もう――僕はその言葉で逝ってしまった――。


 ▽△▽


「ちょっと、いやだいぶ暑いね」

「だね、私も少し汗かいちゃったかも」


 真冬の日が隠れた時間帯。室内の中でも特に玄関は凍える様な室温だろう。

 それなのに、今はポカポカ――いや、むしむしする熱気に覆われている。

 空気の入れ替えついでに、少し頭を冷やした方がいいかもしれない。


「外の空気でも吸おうかな」

「私も一緒する!」


「汗が冷えたら大変だから、美海は少しだけだよ」

「うん! そう言えば、こう君は私のマフラーどうしたの?」


 朝は美海のマフラーを巻いていた。

 けれど、例のごとく大量の汗を掻いた。

 その汗の臭いを美海のマフラーへ移したくない思いから、使用を避けてカバンに入れておいたのだ。


 それをそのまま美海へ説明すると、今すぐ巻きなさいと言われてしまった。

 ならば、交換したマフラーを再交換、つまり返却してほしいと言ったが、即却下された。


 それだと意味がないと。

 どうして意味がないのか不思議に思っていると、今の汗臭い僕に巻いてほしい。

 それから返却してもらいたいと。美海は言った――。


「もう真っ暗だね」


 アパートの外廊下の天井に付いている照明。

 廊下を照らす明かりがなければ、目の前にいる美海すら見えなくなるだろう。


「雪もせっかく溶けてきたのにな」


「こう君、帰りは転ばないように気を付けてね」


「気を付けるよ。それより美空さん平気かな。そろそろ帰って来るころだよね」


「時間的にはそろそろだと思うけど……一緒に迎えに行く?」


「んー……行き違いになってもあれだし、もう少しだけ待ってみようかな。10分しても帰宅しなかったら連絡してみようか。それで、もし繋がらなかったら僕だけで迎えに行ってみるよ」


「……分かった」


 返事をするまでに間があったのは、一緒に迎えに行きたいからだろう。


「それまでミニ雪だるまでも作る?」

「作る!!」


 3日の日、お昼過ぎに美波と散歩に出かけた。

 その時に寄り道した公園で、僕と美波は2人で小さな雪だるまを作ったのだ。

 石や枝、自然の物も利用して完成した雪だるま。

 中々の出来栄えだった為、写真を撮ってその夜に美海へ送信した。


 それから、美海は今度一緒に作りたいと言っていた。

 あの時よりも小さな雪だるまになるだろうけど、手すりに積もっている雪があればミニサイズの雪だるまが作れると考えたのだ。

 10分なら時間的にも丁度いい。


 そして早速、雪をコロコロ転がし丸く整えていく。

 大きめにできた僕が丸めた雪を下に、小さめにできた美海の雪を上に乗せ――。


「完成」

「だね! でも、ちょっと寂しいね」

「木の棒も何もないから仕方ないね」


 小石すら落ちていない外廊下。

 しっかり管理が行き届いている証拠でもあるが、今ばかりは少し残念だ。

 小石があれば、目や鼻くらいの装飾はできたから。


 それでも、2人で作った雪だるまであることは間違いない。

 だから、完成した雪だるまの写真を撮っていると、階段を上る足音が聞こえてきた。


「おかえりなさい、お姉ちゃん!」


「美海ちゃんもおかえりなさい。でも2人してどうしたの? まさか外で待っていてくれたの……って思ったけど、雪だるまを作っていたのね」


 美空さんの元に駆け寄って行く美海。

 その美海を柔和な笑顔で迎えて、頭を撫でる美空さん。


「いえ、待っていたのは本当ですよ。この雪だるまを作り終わるまでに、美空さんが帰宅しなかったら迎えに行くつもりでした。それと、凄く嬉しいサプライズでした」


「ふふ、喜んでもらえたならよかったわ。でも……」


 呆れたような目で雪だるまを見ている美空さん。


「高校生のカップルが1週間ぶりに再会してすることが雪だるまを作ることなの? もっとこうね? 別のこともあると思うのよ、お姉さんは」


 思わず目を合わせてしまう僕と美海。きっと、同じことを考えたからであろう。


「聞いているの? 郡くん、美海ちゃんにハグくらいはしてあげたの?」

「ええ、まあ――それなりには」


 ほとんどの時間ハグしていたと思うけれど。

 1時間ちょっとなら『それなり』と言っても嘘にはならないだろう。


「美海ちゃんは? 郡くんにたくさん甘えることができた?」

「うん、まぁ――それなりに?」


 美海もずっと甘えるように可愛くしてくれていたが、きっと同じような理由で『それなり』と答えたに違いない。


「ちょっと2人とも煮え切らないわね。詳しく聞かせてもらいたいから、郡くんは家に上がってちょうだい。その後は、お邪魔虫なお姉さんは美緒ちゃんの部屋に退散するから」


 詳しくなどとはとんでもない。

 美空さんにはと言うか、人には言えない――言えるわけがない。

 つい、さっきまでハグよりも凄いことをしていたなどとは、けして言うことができない。


 美海が言う幸せのお代わりをしていたなどとは、けして言えない。

 僕が美海を押さえつけて、1時間ひたすらにキスを繰り返していたなどとは、けして言えない。


「姉妹の時間を邪魔したくはありません。ですから、今日のところは帰らせてもらいます」


「別に気にしなくてもいいのよ?」


「いえ――と言うことで、後は頼んだよ美海」


「え、こう君!? ずるいっ!」


 不思議な表情を浮かべる美空さん。

 焦る様子を見せている美海。


 姉妹2人に対して『また明日』と言いつつ、最後は美海の頭を撫でてから逃げるように帰宅したのだ――。

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