第268話 美緒さんは眼鏡も似合います
本日は特別営業時間のため17時閉店としている。
雪掻きで減らした体力。安請負で減らした精神力。
新年早々、ヘロヘロになりながらアルバイトへ勤しむこと数時間。
残り30分で閉店の17時を迎えるまでになった。
幸か不幸か判断に悩むところだが、
正月休みが続いているお客様も多い為か、来店されるお客様の数も少なかった。
もしもお客様の数が多かったら、
帰宅後間違いなく倒れるように眠りについたことだろう。
すでに筋肉痛の症状がひょっこり顔を出し始めている。
汗の匂いも気になる。
帰ったら湯を溜めてお風呂に浸かろう
最後のお客様を見送ってから、そんなことを考えていると。
「郡くん、ちょっとお願いがあるのだけれど、頼んでもいいかな?」
「…………はい、なんでしょうか美空さん」
今日の僕は『お願い』『頼み事』に敏感だ。
警戒と言ってもいい。
そのため、返事するまでに妙な間を空けてしまった。
「そんなに警戒しなくても変なことは頼まないわよ。ちょっと美緒ちゃんにご飯を持って行ってもらいたいだけ」
「美緒さんにですか?」
まるで警戒などしていませんと言わんばかりに、なんてことないように聞き返す。
美空さんは苦笑しつつ、距離を縮めてきた。
「そう、美緒ちゃんに――って。どうして私から距離を取ったのかしら? 別に何かイタズラしようって近くに寄った訳でもないのに。お姉さん、傷付いたなぁ……将来の弟から酷い仕打ちを受けて傷付いたなぁぁ……」
将来のお姉さんは、両手を目元に運び泣いた風な仕草を見せてきた。
「すみません。ちょっと汗が臭うかなと思いまして。他意はありません」
「あ、そうなの? でも別に気にならないわよ。もしも汗の臭いが気になったら、適当に言って中に入ってもらったもの」
飲食店だからな、当然の判断だろう。
でも、周囲にいる人が気になるほど臭う訳でないことは安心した。
美緒さんへのご飯について再度訊ねようとしたら、近くにいた新津さんが会話に混ざってきた。
「八千代くんは美空が言った将来の弟発言を当然のように受けているのね」
「ええ、まあ……いつものことですから」
「ってことは、将来の美海は八千代美海になるのか……いいな、普通で羨ましい――」
『八千代美海』か、気が早いけど幸せな響きだ。
幸福な思いを馳せる僕とは反対に、遠くを見るように哀しい雰囲気を漂わせる新津さん。
「あら、郡くんはいつの間に真弥さんを落としたの? ダメよ? 真弥さんは人妻なんだからね?」
「いや、分かってて言わないで下さい。新津さんは――」
危ない、思わず『新妻や』と口走りそうになってしまった。
遠くを見ていたはずの目が、今は僕にロックオンされている。
本当に危なかった。
「八千代くんは学習しないあのバカたちと違っていい子ね」
「真弥さんが叩き過ぎておバカさんになった可能性もあるんじゃない?」
「あら、美空も言うようになったわね? でも一理あるから言い返せないわね」
「もう付き合いも長いからね――あ、それでだ! 郡くんには美緒ちゃんに夕飯を届けてもらいたいの。多分、ご飯も食べずお仕事の準備をしていると思うから。その後は、直帰してもらって構わないからお願いできない?」
美緒さんの仕事始めは
けれど、まあ――。
仕事にストイックで、料理を苦手とする美緒さんなら考えられそうなことだ。
「そう言うことでしたら問題ないです。ですが、すぐ近くですし一度戻りますよ? 片付けも残っていますから」
「ありがとう。でも、いいの。朝は1人で雪掻き頑張ってくれたでしょう? そのお礼じゃないけど、ちょっと早く上がってちょうだい。もちろん勤怠も付けておくからね」
さすがに悪いと言い返したけど、半ば強引に背中を押されて任を預かることに。
着替えを済ませて、夕飯が入った包みを預かり、一足先に退勤させてもらった。
裏口から出て、敷地から出たところで腕を上げて臭いを嗅いでみる。
「そこまで臭わないよな?」
もしかしたら臭いから、早く帰したかったのかと考えてしまったのだ。
けれど、本当に臭かったら美緒さんの元へは行かせないか。
綺麗好きな美緒さんに怒られてしまうからな。
僕はもちろん、寄こした美空さんも。
雪道に気を付けながら、3分程歩くとアパートへ到着する。
オートロックインターホンで美緒さんの部屋を鳴らす。
考えてみれば、美緒さんの家を訪ねることは初めてだ。少し緊張する。
『はい、どちら様――郡? どうなさったのですか?』
『美空さんから美緒さんへ夕飯を届けてほしいと頼まれまして』
『なるほど、そう言うことですか。今開けます。玄関も開けておきますから、そのまま入ってきてください』
オートロックドアが開くと同時にインターホンも切れた。
そのまま中に進入して、美緒さんの部屋の玄関扉を開く。
「寒い中、わざわざありがとうございます。郡と顔を合わせるのは、クリスマス以来となりますね。遅くなりましたが、今年もよろしくお願いいたします」
「いえ、近くですから。それと、こちらこそよろしくお願いいたします。今年も美緒さんのクラス生徒になれたら嬉しいです」
招き入れられた玄関で返事を戻し、夕飯の包みを手渡す。
朝から自宅にこもっていると美空さんから聞いていたから、ラフな格好をした美緒さんの姿を、僅かばかり想像していた。
けれど実際は、とある一部分を除いて今日も変わらず身綺麗にしている。
僕は部屋の中では多少手抜きで済ませてしまう為、こういうところは見習いたい。
「郡は面倒も起こしますが、あなたが私の生徒なら助けられることの方が多いですし私も嬉しいですね」
「僕は面倒に巻き込まれているだけです。ですから今年こそは、静かにひっそり、美海と青春を謳歌できることを願っています」
「ふふ、それはまた難儀な願いですね」
「言わないで下さい。それより今日は眼鏡を掛けているんですね? ちょっと新鮮です」
「ええ、休みの日くらいはコンタクトを外して目を休めなければと思いまして。ですが、妙齢の女性の顔をまじまじと見るのは感心しませんね」
「すみません、凄く似合っていたので、つい」
女性の眼鏡姿を好む男性がいることも知っている。
知ってはいたけど、その良さを理解はできていなかった。
けれど、今の美緒さんの眼鏡姿を見たら『悪くない』そう思ってしまった。
夏に一度だけ、美海が伊達眼鏡を掛けているのを見たことがある。
それは僕が美海を好いているから可愛いと思っていた。
でも今なら、その時とは違った感想が湧くかもしれない。
眼鏡を掛けて欲しいって、今度お願いしてみようかな。
「お褒めいただいたお礼にお茶でも淹れます――と、言いたいところですが、すみません。少々立て込んでおりまして、
「いえ、これで帰りますのでお気になさらずに」
そもそも、この素晴らしく落ち着く匂いが漂う室内に汗臭い僕は入りたくない。
また学校でと、挨拶を交わしお暇することに。
手を振る美緒さんに会釈で返して、背を向けて帰路へ就く。
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