第261話 終わりも始まりも美海でした

 一般的には、運動後数時間から翌々日の間に症状が現れる筋肉の痛みのことを『遅発性筋痛』と呼ぶ。


 なじみ深い呼び方へ言い直すならば『筋肉痛』だ。


 朝、クロコに起こしてもらった所までは普段通りだ。

 それから上体を起こそうとしたら、二の腕や太もも、胸や腰の辺りに昨晩以上の痛みを感じた。


 つまり筋肉痛だ。ここまで酷いのはいつ以来だろうか。


 雪が積もっているためランニングをしていない。

 とはいえ、適度に筋トレは行っている。

 それにもかかわらず、筋肉痛に襲われているということは運動不足なのだろう。

 突きつけられた事実と向き合いながらも、痛みに耐え、リビングへ移動したら母さんはピンピンしていた。


 その姿を見て胸に誓った。

 雪が溶けたら運動量を増やそう――って。


『ふふ、でも若い証拠でもあるんじゃない?』

『16歳の高校生だから若い証拠も何もないと思うけど?』

『私はまだ15歳だけどね』


 美海の誕生日は3月31日。僕の誕生日は4月7日。


 そのため年齢が重なる期間が1週間くらいしかない。

 僕からすれば美海は年下みたいなものなのかもしれないが。

 実際のところ、美海の方が精神年齢は高そうに思う。


『お若い美海さんは、筋肉痛平気だった?』

『二の腕が少しだけ? でも、あまり気にならないくらいかな』


『それなら来年はもっと大掃除頑張れるね』

『えぇ~……』


『母さんのおかげで僕の清掃スキルもレベルアップしたから、乞うご期待ください』

『光さんに文句言わないと』


 なんて怖い物知らずの彼女なのだろうか。


『僕みたいに本気デコピン食らっても知らないよ?』

『母親だからと言っても、女性に向かってせっかちなんて言うこう君が悪いと思うな』


 昨晩も同じことを言われた。デリカシーがないって。


『ごもっともです』

『あとね?』


『え、まだあるの?』

『はい、まだあるんですよ』


 失言でもしたのかと思ったが、

 クスクス笑っている美海から察するに何か揶揄おうとしているのかもしれない。


『年上彼氏さんは、彼女がデコピンされて痛い思いをしているのに知らんぷりするの?』


 失言を拾われた上での揶揄いコースだったようだ。


『年上彼氏をアピールするチャンスってやつだ。ちなみに年上彼氏はどうですか?』


『そのチャンスを不意にしちゃったけどね。でも、ちょっと抜けている年上彼氏も可愛いと思うよ。ちなみにちなみに、年下の彼女はこう君的にどうですか?』


 正直に言えば、クラスメイトなのだから年齢差など考えたこともない。

 それに、僕は元々彼女ができると思っていなかったのだ。

 当時は僕なんかを好きになる人なんていないって考えていたから。

 その状態で僕は美海を好きになった。

 だから、理想の彼女像というものが僕には存在しない。


『僕の理想……好きな女性のタイプは百パーセント美海だから。年上でも年下でも関係ないかな』


『んん、急に私が喜ぶこと言うんだからっ』


『何? そんなことで喜んでくれたの?』


『大好きな彼氏にそんなこと言われて喜ぶ、とってもちょろい年下彼女ですけど何か?』


『ごめんって』


『ちなみに私の好きな男性のタイプは百二十パーセントこう君だから』


 なるほど、これは確かに言われたら嬉しいかもしれない。

 と言うより、めちゃくちゃ嬉しい。

 単純な言葉なのに嬉しくなってしまう魔法の言葉かもしれない。

 さらに僕が言った数字に被せてくるあたりもいじらしくて可愛い。

 それが尚、嬉しい気持ちに拍車を掛けてきた。


 自然と頬が緩くなっているということは、僕も美海に負けないくらい単純でちょろい彼氏ってことなのだろう。


『僕はどうやらちょろい年上彼氏だったみたい』


『嬉しかったってこと?』


『うん、頬が緩くなるほど嬉しかった。だから、そんなこととか言ってごめんね』


『ふふ、いいよ。お兄ちゃんは仕方ないから人だから許してあげるね』


 おかしい――。美海には電話で昨日の話をした。

 けれど『お兄ちゃん』と揶揄われたくだりまでは話していない。


 理由は僕に不都合だったからだ。


 今みたいに美海から揶揄われる未来を容易に予想できたからな。

 それなのに口にしたということは、美波から聞いたのだろう。


『あれれ? お兄ちゃんったら急に黙ったりしてどうしたのかなぁ?』


『……生意気な妹には今度お仕置きしないといけないな』


 加えて、口の軽い妹にもお仕置きは必要だ。


『きゃー、お兄ちゃんこわーい』

『僕の妹は1人だけなんだけどな』

『大変、美波とお兄ちゃん争奪戦になっちゃう』


 自意識過剰ではないけど、そんなこと言ったら本気で美波が怒ると思う。

 その日1日、美海と口を利かなくなる可能性が考えられる。

 良好な関係を築いている2人が仲違いしないよう、美海の考えを改める必要があるな。


『僕には妹が1人と姉が1匹。あとはそうだな――もう1人姉がいれば充分かな』


『ん? もう1人のお姉ちゃん? 誰のこと言っているの?』


『気付かないなら別にいいんだ』


『気付かないって………………』


 言葉が途切れたってことは、僕の言いたかったことが伝わったのだろう。


『もう、またそうやってすぐにこう君は――こう君はっ!!』

『さて、美海は僕の妹? 彼女? どっちかな?』


『…………私はこう君が理想とする彼女です』

『ふふ、正解。今度会ったらたくさん頭撫でてあげる』


『こう君が撫でたいだけでしょ』

『それも正解だけど、撫でない方がいい?』


『私がいいって言うまで撫で続けてください』


 最後に会った日に僕が言ったことと似たことを言っている。

 美海は僕の言動や行動を無意識になぞることがある。

 そんなところも本当に可愛いと思うし、好きだなって思わせてくれる。


『あーあ、こう君が私の心をくすぐるから会いたくなっちゃったな』

『……そうだね』


『どうしたの?』

『いや、会えないのは寂しいけどさ』


『うん?』

『こうして年を越す前に電話しているのも悪くないなって』


『そうだけど、やっぱり直接会って話したい気持ちの方が強いかな』

『それはそうだ。でも、それはどちらにせよ高校卒業するまでは難しそうだね』


 保護者がいれば、年を越す時間でも一緒にいられるかもしれない。

 だが2人切りとなると、一緒に暮らしていないと無理だろう。

 どちらかの家にお泊りしたとしても、どちらかの家族は一緒にいることになる。

 それでも、一緒にいられるだけで嬉しいのだけれど。


『あと、3分くらいだね。こう君は眠くない? 平気?』

『平気だよ。美海は?』


『私も平気だよ』

『そっか――』


『うん――』


『『――――』』


 いつもは美海が話題を提供してくれるが、ずっと喋ってもいられない。

 僕は口数が多い方ではないし、一緒に居る時に話が途切れる事は多々ある。

 だけど通話中に話が途切れるのは初めてかもしれない。

 10分や30分くらいなら、途切れることはなかったかもしれない。


 けれど今日はすでに2時間近く通話している。


 だから仕方ないと言えば仕方ない。

 電話の向こうからは美海の呼吸音、それと布の擦れるような音が聞こえてくる。

 ベッドに入りながら通話しているからだろう。


 おそらく美海にも同じ音が聞こえているかもしれない。

 たったそれだけなのに。

 同じように過ごしていると分かるだけで、嬉しい気持ちが湧いてくる。


『なんか――嬉しいなぁ……』

『だね。僕も』


 主語は無い。だけどお互いの気持ちが通じ合った瞬間だって思った。

 それだけ密度ある時間を、2人で過ごして来たってことなのかもしれない。


(もう半年になるのか)


 いろいろなことがあったな。

 アルバイトをクビになったあの日。

 まさか半年後に、初恋の人と通話しながら年越しをするとは考えも付かなかった。


 その初恋の人にまた恋をして好きになった。

 そして恋人にもなれた。

 半年前の僕に伝えることができたとしても、信じることはできないだろう。

 それくらいの奇跡だ。


 好きな人ができただけじゃない。

 この半年でたくさんの知り合いが増えて、友達ができた。

 不本意ではあるが、四姫花や生徒会長と同じくらいの有名人になってしまった。

 振り返ってみれば、大勢の人を振り回したし大勢の人に振り回されたな。


 でも――。


 大変だったけど、全部楽しかった。

 そう思えるのは、今こうして美海が僕を支えてくれているからだ。


『美海?』

『ん? なぁに、こう君?』


 会話が途切れたことで眠気がやって来たのか、眠そうなトロンとした甘い声だ。

 こんなに可愛い声は誰にも聞かせたくない。

 独占したくなるほど、美海の甘い声で脳がとろけてしまった。

 最後は一緒にカウントダウンしようか。


 そう言いたかったのに。


『ん~?』と言ってくる美海の声に、耳と脳が侵されている間に――。


『あっ』


 0時を回ってしまった。


『んー? ――あっ。こう君、今年も、よろしくお願いします』


『うん、こちらこそ。よろしくね、美海』


『うんっ。ところでさっきは何を言おうとしていたの?』


 年を越したことで眠気が覚めたのか、普段の声色に戻ってしまった。

 いや、普段の声も透き通った綺麗な声で耳心地は良いのだけれど。


 ――そうだな。


 無防備な声を聞かせてくれるのが、嬉しいのかもしれない。


『こう君?』

『ああ、ごめん。さっきはさ――』

『うん?』


 今さらカウントダウンの話をしても仕方ない。

 だからそれは、また今年の年末に取っておくことにしよう。


『半年前にアルバイトをクビになってよかったな――って言いたかったんだ』


『ふふ、それなら私は半年前に学生証を拾えてよかったな』


『学生証と僕を拾ってくれてありがとう』


『学生証とこう君を拾わせてくれてありがとう』


『美海?』

『好きだよ、こう君』

『あ、こら。僕が先に言おうとしたのに』

『ふふ、早い者勝ちだもん』

『意地悪な彼女だ』

『ねぇ、こう君?』

『好きだよ、美海』

『私はこう君が大好きだよ』

『狡いって』


『こう君は?』

『……僕は美海が大好きです』

『ありがとう、私を大好きになってくれて』

『美海には敵わないな』


『ふふ? そんなことないと思うよ? 私はこう君に心から惚れているから』

『それを言いだしたら止まらなくなるよ?』

『そうかなぁ?』

『そうです。僕は美海より好きの気持ちが強いって思っているから』


『そっか』

『そうなんです』


『でも私の方が先に好きになったもん』

『そんなの分からないよ?』

『絶対にそうだもん』

『そんな子供みたいに』


『もっと言うと私の方が好きの気持ちは強いもん』

『それならさ』


『それなら?』

『互いに好きな所を言い合いっこしようか?』

『ふーん? 先に言えなくなったら負けってこと?』

『そうそう』


『朝まで決着がつかないかもよ?』

『そうしたら同じくらい好き合っているってことで』


『納得いかないけど、いいでしょう。朝まで話していられるってことだもんね』

『どうしよう。僕の彼女がとっても可愛いんですけど』

『褒めても……』

『褒めても?』


『膝枕くらいしかしてあげないよって言おうかと考えたんだけどね』

『うん、それで?』


『なんでもしてあげたいなって思ったの』

『……美海って悪女だよね』

『こう君にだけだよ?』

『当然です。他でやったらダメです』


『ふふっ、嬉しい』

『じゃあ、そろそろ始めようか。最初はいっせーので言って、その後は僕からね』


『分かった』

『いい?』

『うん』


『『いっせーの』』


『『好きだよ』』


『もうっ、こう君!』

『美海こそ』


『ふふっ――』

『ふふ――』



 どちらが先に寝てしまったかは分からない。

 けれど、僕と美海は互いにどれだけ想っているかを言い合いながら、勝敗のつかないまま眠りについてしまった。


 朝、目が覚めると同時に。

 一晩中繋いだままの通話で好きな人の声を聞いて、1年が始められるという――。


 美味しい食べ物を口にした時。面白い本と出合った時。テストで満点を取った時。新しいことができるようになった時。他にもさまざまな満たされる瞬間。


 そのどの瞬間よりも、何にも代える事のできない、幸せで満たされる朝となったのだ。

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