第220話 先輩女子からお許しをもらいました
シャワーを浴びて気持ちを落ち着かせてから朝食をとる。
それから美波と買物へ出掛けて、一旦帰宅してアルバイトの時間までは美波とクロコとのんびりした時間を過ごした。
美波が来ている時は、僕にではなく美波に甘えるクロコなのだが、今回は珍しく僕にベッタリだった。
普段と違う様子は気になったけれど、食欲もあるし便や毛並みの変化もない。
まあ、昨日は母さんと美波の2人に甘えていたから、今日は僕に甘えたい気分だったのかもしれない――。
美波を駅前のバス停まで送ってから、アルバイトへ出勤する。
更衣室で着替えを済ませタイムカードを切るため事務所に向かうと、連絡ノートに目を通している莉子さんと鉢合わせる。
「あ、郡さん!! 美海ちゃんは先にキッチンに入るそうですよ」
「そうなんだ。忙しいのかな? それなら僕たちも早くおりた方がいいかな」
「いえ、新しいソースを考えついたから試したいと。ですから、莉子たちは気にせず時間になったらおりてきてとおっしゃっていました。それより……むふふふっ。今朝頂いたチョーカー、早速つけて来たのですけれど、どうでしょうか。莉子に似合いますか?」
美海が考えついた新しいソース。
それがどんな味なのかが気になるが、
今の莉子さんを無視するのはさすがに可哀想だ。
普段とは違う笑い声が漏れ出るほど、嬉しい気持ちが抑えきれていないからな。
プレゼントした側からすると喜んでもらえたことはとても嬉しい。
けれど。
自分で選び贈ったアクセサリーを
身に付けてくれている姿を見るのは、
なんとも言い様のない恥ずかしさがある。
まあ、仕事モードになった今の僕が今朝のような醜態を晒すことはないが。
「よく似合っているよ。頑張って選んだかいがあったかな。でも、仕事中につけていたら汚れるんじゃない?」
「むふふふっ、ありがとうございます!! せっかくですからね、着けたいじゃないですか。でも汚れてしまうのは嫌ですし……今日だけです。今だけ着けることにします!! ダメ、ですか?」
「莉子さんに贈った物だから莉子さんの好きにするといいよ」
「はいっ! それより郡さん、本当にお熱はないのですよね?」
「念のため帰ってから測ってみたけど、35度8分だったよ。体調に異常もないし問題ないかな」
本当に熱があったらアルバイトに出勤できないからな。
無理して出勤したら6月みたいにコップや食器を何枚も割ることにもなりかねないし、もしも風邪を引いていた場合、移してしまう可能性だってある。
そうなると逆に迷惑を掛けてしまう。
「それなら良いのですが……」
まだ納得いかない表情を浮かべる莉子さん。
きっと僕が赤面したことについて疑問を抱いているのだろう。
けれど赤面の理由を聞かれたくない。
そう考えた結果、莉子さんの前に人参をぶら下げることにした。
「ほら、仕事仕事。先行っちゃうよ? 僕の専属メイドなのに、僕より働かないようならクビにするけど文句は言わないでね」
「まったく、仕方ありませんね。郡さんの専属メイドであるこの莉子が、ご主人様にご奉仕して楽をさせてあげようじゃありませんか!! 見ていてください。今日もテキパキ――」
「はいはい」
「なっ!? 全部言わせてくださいってば!! ご主人様のいじわるっ!!」
「ちょっと2人とも? 店でおかしなプレイはしないでちょうだい」
階段ですれ違う美空さんに誤解され注意を受けたところで、アルバイトが始まった。
今日の配置は美海と莉子さんがキッチン、僕と
万代さんと紫竹山さんの2人はライブの遠征で地元新潟に帰省するため、今日は13時に上がっているが、代わりに新津さんが13時出勤18時退勤で来てくれている。
人員的余裕はないが、キッチン、ホールで2人ずつ配置できるし、僕や美海、莉子さんの休憩時は美空さんもホールに出てくれるため、上手く調整すれば何とかなるだろう――。
出勤してから1時間が経過したおやつの時間帯。
見知った顔の2人の女性が来店した。
「いらっしゃいませ。
「やほ、郡。コレ使いに来た」
「こんにちは千代くん。欅が美味しい美味しい言うから、私も気になって来ちゃった。あ、ソファ席で大丈夫。お願い」
欅さんは月に2回、バナナの天ぷらバニラアイス添えと好きな飲み物を美海にご馳走してもらうと契約している。
『コレ』と言って差し出しきた物は、そのチケットだ。
無料で食べ食いに来るだけでなく、こうして新しいお客様をお連れしてくれるなら、欅さんを宣伝大使に任命してもいいかもしれないな。
根は真面目で、しっかり働いてくれそうだしな。
半分本気、半分冗談で変なことを考えながら、先輩2人に返事を戻し席へ案内する。
「欅さんはバナナの天ぷらバニラアイス添えとキャラペチーノですよね? 冨久山先輩は何になさいますか?」
「ん、もちのろん」
「せっかくだから欅と同じ物をお願いしようかな」
「かしこまりました。10分もあればお持ちできますので、少々お待ちください――」
「ねぇ、郡。
「いいって! 私は自分で払うから。千代くんに迷惑掛けないの、欅」
「ん、迷惑は掛けない。来月分を使う。せめてもの罪滅ぼし」
「気持ちは嬉しいけど、それは欅が真弓を楽しませた対価で得たものでしょ? 受け取れないよ」
欅さんは、本宮先輩ら生徒会を裏切った対価で得た報酬で、自分1人だけお金を払わず食べることに後ろめたい気持ちがあるのかもしれない。
そう考えた結果の申し出だろう。
けれど冨久山先輩は、その申し出に対して本宮先輩を楽しませた報酬とポジティブに言い換えた。
そのことで欅さんは反論できず口を噤んでしまった。
冨久山先輩の言い分を理解はできるけど、納得はできないのかもしれない。
それにしても本当に善人だよな、冨久山先輩って。
だから苦労が絶えないのかもしれないけれど。
「それなら冨久山先輩の分は僕がご馳走しますよ。今回とてもご尽力して下さりましたし。それに多大なご迷惑も掛けてしまいましたから」
「ん、なら解決。万事オーケー」
「いやいやいや、何もオーケーじゃないから。千代くんの善意ほど怖いものがないって」
「酷くないですか? 今回は9割善意ですよ」
「紅葉は変。郡はいいやつだよ?」
「いやいや、写真で私のこと散々脅して使った人はいい人どころか酷い人だから。残り1割はどうせ悪いことでも考えているんだって。あと、そうだ。思い出したけど千代くん!! 写真以外の何を持ってるの!? 今日こそ教えてもらうから!!」
まだ他にお客様がいらっしゃるので『写真』『脅し』『使った』とか危うい言葉を叫ばないでもらいたい。
それに脅したのは僕でなくて鈴さんだ。
任せたのは僕だから、同罪かもしれないけれど。
「郡は
「欅さん、違いますよ。僕も美海も悪人や悪魔などじゃありません。あと、冨久山先輩。残りの1割はお詫びの1割です。写真以外の何か、それを使って脅すつもりなどありませんでしたが、結果的にそう捉えられてしまったことは僕の不手際ですから。それともちろん、動画はすでに削除してありますから安心してください」
議事録を見せてほしいと頼んだとき、脅されていると誤解した冨久山先輩は議事録の写真と動画をすぐに送ってくれたからな。そのお詫びのつもりだ。
「し………信用していいんでしょうね?」
「ええ、もちろん。美海に誓います」
「騎士団長として四姫花に誓うと?」
仰々しい物言いに感じるが、即答で誓うと宣言する。
「そこまで言うなら……ちなみに動画って何?」
「冨久山先輩の歌っている姿が撮影されたものです」
「さいっっあく…………提供した犯人は長谷と小野? そうよね? そうとしか――」
「郡お腹減った。早く食べたい」
言葉を遮り駄々を捏ねる欅さんに対して、冨久山先輩は『始まった』。
そう呟いてから大きな溜息を吐き出した。
「……いいわ、千代くんのことを信じて許してあげる。それより、この状態が続いた欅はコントロールが利かなくて面倒になるから、なる早でお願いできる?」
「ありがとうございます。注文の品も急いで用意しま――」
「無理。お腹減った。郡早くして。早く早く早く」
「欅、声落として。静かに――」
「ムリムリムリ。はやくはやくはやく……ん?」
子供のように駄々を捏ねる欅さんの口に、キットカツゾを突っ込んだ冨久山先輩。
おかげで駄々っ子モードが一旦治まり、店内に平穏が戻ってきた。
口パクで『いいから』。そう告げられたため、軽く会釈をしてその場を離れるが、ふと後ろに振り返ると、呆れながらもティッシュで欅さんの口周りを拭いてあげる冨久山先輩の姿が目に映った。
幼い頃より本宮先輩や欅さんに振り回され、その影響で常に苦労人といった雰囲気を纏っている冨久山先輩。
大きな原因はやはり、本宮先輩と欅さんなのだろう。
けれど――。
善人で面倒見のいい冨久山先輩にも少しばかり原因があるのかもしれないな。
僕も、自分の周りにいる大切な人たちを甘やかしすぎないよう気を付けよう。
冨久山先輩を見て反面教師にすることを考えたが、同時にそれって結構難しいかもしれないとも思った。
大切な人たちの喜ぶ顔を見ると、元気が貰えるし嬉しくなる。
何より、心が温かくなるからな。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます