第171話 崩壊の危機でした
目が覚めると腕の中に天使がいた。
僕の左腕を枕にして、気持ちよさそうに寝息を立てている。
とんでもなく可愛い。
比喩でなく本物の天使かもしれない。
どこから迷い込んできたのか――――。
おかげで眠気など吹き飛び、脳が一気に覚醒した。
だが、覚醒したはずの脳は大混乱に陥っている。
どんな状況だ、これ?
また潜り込んで来たのか?
でも――それなら美海だけが僕に抱き着いているはず。
今は僕が美海を抱きしめ、美海が僕に抱きしめ返している状況だ。
つまり不健全極まりない状況だ。
やばい。美空さんになんて説明しよう……。
というか、昨晩の記憶が曖昧だな。
うん。
少し現実逃避……いや、整理してみるか――。
――月曜日。
鈴さん率いる風紀委員と手を結んだ。その後、美海の声が聞きたくなり、図書室で話をして、お泊りの許可をもらうため美空さんに会いに行った。
――火曜日。
美海と2人、朝の図書室で美空さんを説得する為の作戦会議をした。他は特別なことはなかったはず。強いて言えば、長谷と小野が違和感を覚える程フレンドリーに声を掛けてきたくらいだ。
――水曜日。
引き続き作戦会議をしたが妙案浮かばず。朝のホームルームでは、風紀委員会の莉子さんからクラスメイトに対して、とある知らせがあった。
校則、四姫花制約に関しての整理案についてだ。特に生徒を騒がせたものは、開校時にあった校則のひとつ『身だしなみの自由化』の復活。
他については、ホームルームだけでは時間も足りないため教室後方黒板に置かれた冊子を、各自必ず目を通してから賛成の人は金曜日までに署名するようにと言っていた。
読む気が失せそうなほど分厚くて、もはや冊子とは呼べないものだ。
夜、美空さんを説得する案が浮かんだので、美海に内緒で準備を進めた。
――木曜日。
美空さん説得は任せてほしいと美海に話した。
内緒話は不満そうにしていたが、渋々納得してくれた。
風紀委員が発表した整理案に続々と賛成署名が増えていく。
ちゃんと読んだのかな。
いや、読んでないだろうな。
昼休み、月美さんにとある依頼をした。
正気かと言われたが、保険を掛けることは大切だ。
僕としてもこの保険を切りたくないから杞憂で終わればいいと心から願っている。
放課後、教室を出ようとしたら元樹先輩が会いにきた。
せっかく風化してきたのにな。
バイト後、お泊りについて美空さんから了承を得た。
――金曜日。
昨日だ。風紀委員会が出した案はクラスメイトの8割が署名していた。
それ以外は特筆すべきことはなかった。
でも、長谷と小野の2人が本宮先輩と一緒にいるところを目撃した。
なんだかな――。
放課後は僕1人バイトに向かった。
終了後、美空さんを自宅に送り、美海を連れてマンションへと帰った。
お泊り会と同じように過ごし、日付を越えてからバルコニーに出て、星を眺めた。何を願ったかは互いに内緒ってことになった。
その後、膝枕をしてもらった所までは覚えている。
――つまり。
膝枕をしてもらって、あまりの気持ちよさに寝落ちしてしまったということか?
おっと、美海。
あまり強くギュッてされると、女性特有力に意識が持って行かれそうになるから勘弁してほしい。
とりあえず……頭を撫でて気持ちを誤魔化そう。
相変わらず、柔らかな髪質に、撫でている僕の手が気持ちいいと感じてしまう。
でもな、僕はどうやって布団まで移動したのだろうか。
体格差を考えると、美海が運んでくれたとは考えにくい。
もしかして美海は僕が知らないだけで力持ちとか?
うーん……非現実的だ。
おっと、だから美海…………もしかして――。
「美海、起きてるでしょ?」
「ふふっ、こう君おはよう。よく眠れた?」
「おはよう美海。朝まで熟睡出来たけどさ、この状況は? 昨晩のこと、あまり記憶がなくて」
「それなら良かったっ。私は、ドキドキし過ぎて眠れないかなって思ったけど、こう君の心音聴いていたらいつの間にかグッスリ寝ることが出来たよ?」
美海が寝不足にならなかったことは良かったと思う。
僕と違って美海は今日バイトがあるからな。
寝不足で体調を崩しても心配だし。
でも、状況の説明はしてくれないようだ。
あと、さらにくっついてくるのは止してほしい。
頭をクラクラさせてくるほどいい匂いだし、柔らかいし、抱き心地も最高で嬉しいけど、いろいろと限界だ。
「美海、あのさ――」
「こう君、凄くドキドキしてくれているね? 私もね、凄くドキドキしているよ……聞いてみる?」
ドキドキしない方がどうかしている。
美海が僕と同じようにドキドキしているのかは気になるが、これはトラップだ。
莉子さんから前に引っ掛けられている。
だから撫でるのを止め、その手で首に掛かる美海の髪をそっと流し避け、露わになった首へ触れ、脈を確認する。
「ンッ――!」
「…………確かに、強く脈打っているから、ドキドキしているみたいだね?」
「……こう君? 一声掛けてくれたらいいのにっ。急に触れられたせいで、変な声出しちゃったよ……」
嬌声を出させてしまったことは、さすがに見逃してはもらえないようだ。
あと、変な声ではない。とても可愛い声だった。
「わざとじゃなかったけど、ごめん。でも――」
「でも、なにかな?」
「声、変じゃないし可愛かったけど?」
これは言えないが、そうだな――色っぽくもあった。
「……もう。恥ずかしかったんだから、掘り返さないでよ。意地悪なことを言うこう君には、意地悪なことをお返ししてあげるっ!!」
――コチョ、コチョコチョッ。
と、言いながら僕の胸やわき腹、脇の下をくすぐり始める。
でもすぐに、『あれ?』と戸惑う声を発する。
このことで過去に、悪戯にくすぐってきた美波のつまらなそうな表情が思い出される。
くすぐり耐性がある僕には効かないってことだ。
けど、なんだろう。
変な気分になってきたな。
このまま続けられたら何か危険な気がする――。
左腕は今も変わらず、美海の頭を守る枕となっている。
だから右手で美海の肩を掴み、引きはがす。
それから枕となっている左腕をゆっくり引き抜き、場所を入れ替わる。
自由になった左手で、自分の体を支えるため美海の可愛い顔の横に突っ張る。
美海を覆い隠すような体勢だ。
そして右手を、美海の肩から手首へと移動させ、掴み、押さえつけ自由を奪う。
「悪戯をしてくる手は掴まえた。次はどうする?」
「………………どう、するの?」
「どう……って…………」
「「…………………………………………」」
これでは――。
力任せに肩を取り手首を抑え拘束して見おろす。
まるで美海を押し倒し襲っているみたいだ。
いや襲っているのだ。
耳を真っ赤に染め、頬はうっすら桃色にさせている。
それに視線を重ね、何かを期待するかのように目を潤ませている――。
美海は一度視線を外してきた。
でも何かを覚悟したのか、再度視線を重ねてきてゆっくり瞼を閉じた。
この意味は僕でも理解できる。でも――。
このまま友人からその先に進みたくなる気持ちに駆られる衝動。
美空さんとの約束。勢いに身を任せてはいけない。
順番が違う。などと働く理性。
心と頭、どちらかは分からない。
ふたつの感情がせめぎ合う葛藤。
心の底から『大切にしたい』。
そう思っているからこそ、順番を間違えてはいけない。
でも、美海も望むなら――。
と、感情が片側に傾きかけた時に並々ならぬ圧力を感じた。
顔をゆっくり横へ向けると『ジッ』と僕を見ていたクロコと目が合った。
そして次の瞬間、待ったが入る――。
「ンナァ~~~~~~」
今まで聞いたこともないくらい、長い鳴き声。
さらにもう一度。
「ナァ~~~~~~」
怒っている。もの凄く。激おこである。
押さえつけている手首を解放させ、美海の上から布団の外へ移動して体勢を整える。
クロコに顔を向け挨拶を返す。
「おはようクロコ。助かったよ、ありがとう」
「お……おはようクロコ。止めてくれて、ありがとう」
「……」
尻尾を『ブンッ』と大きく揺らし、無言で和室から去っていく。
正直な所、助かった。
美海もクロコにお礼を言ったということは、同じく『助かった』と思っているのだろう。ほっとした様子も見受けられる。
冷静になれば、流されてはいけないということは簡単に気付ける。
だから、止めてくれて本当に助かった。
たとえ、あのまま流されてしまったとしても『大切にする』。そのことに変わりない。
でもやっぱり。
ひとつずつ、順序よく、時間を過ごし、美海と僕2人が納得出来る、思い出を作り上げていきたい。
美海に後悔させるようなことなどしてはならない。
そのためにも今後はより一層――。
美海の可愛さにも負けないくらい強い自制心を鍛える必要がある。
だが今は、心臓がうるさいので落ち着きを取り戻したい。
「……布団畳むから、美海は先に洗面所に行っておいで」
「う……うん。先に洗面所で頭冷やしてくるね」
和室から出て行く美海を見送り布団を畳むのだが、結局――。
先ほど美海が見せた顔が、頬を染め、顎を上げ、委ねるように瞼を閉じた時の光景が瞼の裏や脳裏に焼き付いており、心臓が落ち着きを取り戻すには相当の時間を要してしまう。
だって理性ってなに?
と、思えてしまうほど可愛いかったから。
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