第153話 正々堂々と青春を謳歌するために

 図書室を退室する時のルールが僕と美海の中には存在する。

 大袈裟にルールと言っても、話し合って決めた訳ではなくて気付けば出来上がっていたものだ。


 例えば、今日僕が先に図書室を退室して教室に戻ったら、明日は美海が先に図書室を退出する番となる。


 そんな風に交互に戻ることが自然と定着して行った。


 前回は僕が先に戻ったため、今日は美海が先に戻っている。

 教科書や参考書を捲る音や『カリカリカリ』と書き綴る音。


 息抜きと称して僕を呼ぶ時に聞こえて来る透き通る声。

 声の方へ顔を向ければ、僕へ向いて頬を柔らかくしている安心する表情。


 居心地の良くなる音や空間がなくなってから5分が経過する。

 朝の時間で唯一、この5分間は好きになれないかもしれない。


 寂しさを感じつつ電気のスイッチをオフにして、鍵を閉め、裏階段へ進む。


 図書室のある6階から7階に上り、Dクラスや女子トイレ側からAクラスへ向けて歩く。


 ホームルーム開始まで残り10分を切っている時間にもかかわらず、友人同士ふざけ合いをしたり、会話する光景が廊下に広がっている。


 上級生の廊下では分からないが、1年生の朝としてはごく当たり前の日常だ。


「おっ、ズッ君おはよっ!」

「ズッ君、おはっ!」

晴翔はると伸二しんじおはよう」


 体育祭実行委員が終わってからも吉永くんとは交流が続き、今では下の名前で『晴翔』と呼ぶ仲になっている。

 伸二は幸介を通して知り合い、何度か一緒にお昼ご飯を食べている。


 こうして朝廊下ですれ違えば挨拶を交わす日もよくある。


 初めは、BとCで2人のクラスが異なっているため繋がりが分からなかったけど、話すうちに同じ中学出身ということが知れた。


「つか、なんでいつもそっちから現れるんだ?」

「伸二と挨拶したいから」


「うえっ、気持ちわりーこと言うなって」と、僕が言った冗談に、喉を抑え吐くような仕草を見せて来る。


「ズッくんは本気か冗談かの判断が難しいって」

「晴翔に教えておくけど、僕は嘘をつかないよ」


「嘘つきが言いそうなセリフ……」


 嘘など言っていないのに、苦い顔を晴翔に向けられてしまう。


「つか、ズッくんさ――」


 当然のように伸二だけでなく、晴翔も僕をズッくんと呼ぶようになった。

 気付けば定着していた『ズッくん』と呼ばれるあだ名。


 クラスメイトからは呼ばれないというのに、どうしてか他のクラスの人たちからは口を揃えて呼ばれている。


 莉子さんが命名したあだ名だし別に嫌でもないが、学校の外で呼ばれるのは、ちょっと恥ずかしいかもしれない。


「放課後って時間ある? うちのクラスの女子3人とカラオケ行くんだけど、その内の1人がズッくんを呼んで欲しいって言っててさ」


「ズッくんが来れるなら、うちのクラスのえみも行きたいって」


「お誘いはありがたいけど遠慮しておこうかな」


 アルバイトは休みだしカラオケで練習したい曲もあるけど、女子がいるなら止めておいた方がいい。


『りょーかい』と言う2人へ、また今度3人で行こうとだけ言って教室へ移動する。


 教室へ入り、莉子さんや佐藤さんと話す美海を見てから窓側一番後ろの席へ向かう。


 幸介と順平の姿が見えないけど、おそらく手洗いかどこかだろう。

 五十嵐さんは机に突っ伏しているため、挨拶はせずそのまま通り過ぎる。


 席へ辿り着く前にいる人とは、今はあまり顔を合わせたくないけど隣の席だから仕方ない。


「おはよう山鹿やまがさん」

「……おはよう」


 冷たい態度を取られたり、勝手なことを言われたりもするけど、僕は山鹿さんのことが嫌いではない。


 可愛い女の子だから?


 そのことは否定しないが違うと思う。

 嫌いになりきれない理由は、挨拶を送ればいつだって必ず挨拶を返してくれるからだと思う。


 だから僕は山鹿さんを嫌いになりきれない。


 僕を嫌っているなら、長谷や小野の2人のように無視をしてくれた方が、諦めもついて気持ちとしては楽なのだけれど。


 複雑に思いつつも、チラチラと後ろを見て来る長谷と小野の2人にも挨拶を送っておく。


「おはよう長谷。それと小野もおはよう」

「「…………」」


 僕は別に誰かれ構わず八方美人になりたい訳じゃない。

 無視されると分かっているのに、未だこの2人へ挨拶する理由は単純に何かを機に揚げ足取られるというか、足を引っ張られることになりたくないからだ。


『俺らにだけ無視する』と騒がれても面倒だからな。


 それに――こう言ったら何だけど、初めから返ってこないと分かっている挨拶を送るくらい気楽なものはない。


 無視しても挨拶してくる僕という存在は、2人からすれば嫌味に映るだろう。

 そう考えたら僕も大概なのかもしれない――。


 着席してカバンから机に教科書類を移しつつ、自分の性格の悪さを自覚していると。


「……おはよう……八千代」

「八千代…………おはよう」


「――え。あ、うん。おはよう、2人とも」


 予想もしていない初めての出来事。

 顔を上げ返事を戻したら2人はすぐに前へ向いてしまったが、確かに挨拶が戻って来た。


 どうして挨拶を返したのか。ただの気まぐれなのか。

 それとも何か心境の変化があったのか。


 理由は分からないけど、いずれにしてもどこか不気味だ。


 挨拶が返って来たこと自体は喜ぶべきことかもしれないが、何か企てているのではないかと疑う気持ちが湧いてきてしまう。


 そんなことを考えていると、多数の女子が教室後方へ視線を送った。

 視線の的にされているのは幸介だ。


 美波という美人で可愛いくて甘えん坊な彼女がいる幸介。

 2人の仲は良好であり、仲の良いカップルとも噂されている。


 にも拘らず、幸介の人気が衰えていないことが見て取れてしまう。

 その幸介は着席することなく、真っすぐに僕の元へ向かって来ている。


 ニヤついた表情を見るに、何かよくないことを言われそうな予感しかしない。


「おはっす、郡! 何かとんでもない噂流れているけど知ってるか?」


「おはよう幸介。噂ってどんな?」


「いや、聞きにくいんだけど……郡が体格のいい男性から熱烈に愛の告白を受けていたって噂。一体どんな状況だよって、さっきも順平と話していたんだけどさ」


 どんな状況なのかと僕が聞きたいくらいだ。

 いや、深く考えずとも分かる。


 噂とは元樹もとき先輩と食事した時のことだろう。


 秋休みが明けてからも噂が流れていると言うことは、誤解が解けていないということなのだろう。


 莉子さんを頼り切りにした僕が悪いけど少し困ったな。

 それにきっと、今ごろ元樹先輩も同級生や友人から揶揄われたりしている可能性もある。


 元樹先輩が原因でもあるけど、それはちょっと可哀想だな。

 幸介を注視していた女子も含め、クラスメイトの一部が聞き耳を立てている様子も窺えるから、この場でハッキリさせておこう。


「それはあらぬ誤解だよ。僕もその人も女性が好きだし」


「まぁ、そうだよな。つか最近の郡は本当に話題に困らないな。ある意味俺や四姫花以上の有名人だし」


「僕は静かに学校生活を送りたいだけなのに」


 本宮先輩の勝負に乗ってしまったのだから、無理だと分かってはいるが希望を口にしてしまう。


「もう、無理だろ――。敢えて聞かなかったけどさ、副会長やるのか?」


 幸介の質問は、本宮先輩がした推薦の話だろう。

 不思議なことで、面と向かって聞かれたのはあの日佐藤さんから話に触れられたくらいだ。


 推薦について誰からも聞かれることなく、まるで腫れ物に触るような扱いにも感じてしまう。


「いや、やらないよ。僕には他になりたい役があるから」


「そっか……あの人に関係する面倒事か?」


 幸介が言うあの人、直接顔を向けた訳ではないが窓側へ視線を送ったということは美海を差しているのだろう。


「正直に言えばね。面倒なこととか放って、しれっとフェードアウトしたいくらいだよ」


「……別にいいんじゃないか? 生徒会って言ったって、人の交友関係を縛ることなんて出来ないんだからさ。無視すれば」


 本宮先輩が生徒会を使って好き勝って出来るのは、あくまで名花高校内だけである。


 だから幸介が言うように、無視してしまえばいいとも考えた。


「確かにね……でも――」


 規則やルールがあるなら向き合わなければならない。

 それから逃げたくない。


 縛られてしまうなら、逆に利用することを考えていきたい。


「僕は堂々と青春を謳歌したいから」


「そっか――郡らしいな、なんか。ま、何かあれば手伝うから言ってくれ」


 瞼を閉じひと言『そっか』と呟いた幸介。

 続けて歯を見せる笑顔で協力を申し出てくれる。


「頼りにしているよ」


「ああ。つか、そもそも生徒会長が持つ次期生徒会長を指名する権利って横暴じゃね? 早百美さゆみって言ってたしな」


 確かにその通りだな。

 何かを決めるに過半数の多数決を採るのに、生徒会長だけ指名制なのはおかしい。

 一応そのことも気に留めておこう。


 けれど、どうして早百美ちゃんがそんなことを言ったのだろうか。


 幸介の口から聞いてはいないが、赤木さんや魅恋ちゃんだけでなく、もしかしたら早百美ちゃんも名花に進学することで決めたのかもしれない。


「おっと、またあとでな!」

「うん、また」


 話途中に感じたが、幸介にも廊下を歩く古町先生の姿が見えたのだろう。


 幸介が席に着くのと同時に古町先生が教室へ入ってきて、いつもと同じ言葉でホームルームが始まった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る